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第六章

閑話 刈谷壱弦は項垂れる 後編

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 無意識の呟きに返事が返ってくるとは思わなくて、俺は呆然と目の前の人を見つめた。声を掛けられた時からなんとなく聞き覚えがある声だなぁ…とか、まるで保科先生の声みたいだとは思っていたが、まさかそれが本人だとは思ってもみなかった。……とはいっても正直、まだ俺の頭にはたくさんの疑問符が浮かんでいる。それは多分、目の前にいる保科先生の容姿が俺の知る彼のものからかなりかけ離れているせいだ。……そうに違いない。

「……どうした?」

 目の前の彼が小さく首を傾げるのと同時に、さらりとした黒髪が微かに揺れる。それに……これは香水か?ふわりと香る爽やかながらもどこか甘い香りが鼻腔を擽り、心臓がとくんと鼓動を強めた気がした。

「あっ……いや……」

 果たして髪や髭をちょっと整えただけで人とはここまで変わるものなんだろうか。耳に届くのは聞き慣れたものなのに、目や鼻から入る情報が覚えのないものばかりで頭が混乱する。
 混乱状態の俺がこぼした歯切れの悪い返答に、彼はなぜか俺を見ながらふっと柔らかな笑みを浮かべた。

「っ……?」

 俺は心臓の辺りに触れた。手のひらから伝わってくるのはいつもよりも早めの鼓動。
 なんだ、これ。……もしかして俺、まだ目の前にいる人物を保科先生だと認識出来ていないのかな。……そうじゃなかったら、こんなになるわけがない。

 緊張だろうか。喉が上下し、こくりと音が鳴る。
 戸惑いを隠せないまま躊躇いがちに小さく保科先生と呟くと、彼は口元を綻ばせながら静かに「ああ」と応えた。

「あの、その髪……」

 その顔や頭はどうしたんだと聞きたかっただけなのに、出てきたのは小さくて微かに震えたか細い呟きだった。昨日学校で見かけた時はいつも通りの長髪で髭も生えていたのに。
 そんな戸惑いを感じ取ったのだろうか、保科先生だろうその人は驚いたように一瞬軽く目を見開かせた後、ふっと目元を緩めた。
 
「ん?……ああ、これか」

 くすりと控えめに笑う姿に心臓の鼓動がどくんと大きく跳ね上がる。なんだ……?と胸に添えたままだった手を握り締めるが、理由はわからないままだった。
 
「久しぶりに切ってみたんだが……変か?」

 保科先生が前髪を摘んで引っ張りながら不思議そうに首を傾げた。髪が短くなったことや無精髭がなくなってすっきりしたことで、その姿がいつもよりも数段幼く見える。確かに今なら瀬名先生と同じか、それよりも少し下だと言われても納得するだろう。
 
 ……どうして胸が騒ついているのかわからない。だって目の前にいるのは弓月じゃなくて保科先生だ。なのに俺の心臓はまるで弓月の隣にいる時のようにどんどんと強さや速さを増していく。見れば見るほど煩さが増していく鼓動に、俺は堪らずスッと視線を逸らした。

「っ……別に」

 そっぽを向いた俺の口からこぼれたのはなんとも素っ気ないものだった。本当は素直に似合っているだなんだと言ったらいいのだろうが、俺の意思とは関係なく気付けばそんな言葉が口からこぼれ出ていた。

 正直、髪も顔もかなり似合っていると思う。以前に比べて清潔感は何割か増しているし、昨日まではあった野暮ったさが今は全くない。先生の綺麗な顔立ちもはっきりと見えるこっちのほうが俺は好きだなと――って、何を言っているんだろうか、俺は。
 弓月に振られてすぐに優しくされたからそう思うだけだ。恋愛とか、そういうんじゃない。大体失恋してすぐに恋に落ちるとか……本当、どこの少女漫画だよって話だ。
 ここは現実、これはただ優しくされたからなんだと言い聞かせながら、湧き立ちそうになっていた胸を落ち着かせるように深く深呼吸をした。

 けれど不思議なことに、さっきまで指先を少し動かすのすらも億劫だった俺の身体は、気付けば驚くほど楽になっていた。ズキズキと痛んでいた胸の痛みはほとんど消え去り、代わりにとくんとくんと穏やかな鼓動が胸の辺りに響き出す。

「刈谷……?」
「……眼鏡、するんですね」
「ん?……ああ、まあな」

 なんだか知らない人と話しているみたいで落ち着かない。指先は震えるし、相変わらず胸の辺りは騒がしい。俺は未だ混乱している思考を振り払うように頭をふるふると振り、取り繕うようにぎこちない笑みを顔に浮かべた。

 ……聞きたいことはたくさんあった。今までずっとあの格好だったのにどうして急に変えようと思ったのだとか、何でここにいるのか、とか。けれどその疑問を全て口にすることはできやかった。だって不用意に口を開けば最後、失恋してすぐのおかしくなっている俺が何を言い出すかわからないから。

 遠くで踏切の音がする。そうかと思えば今度はガタンゴトンという電車が線路を走行する音も聞こえ始めた。冷たい風に乗って聞こえてきたのだろうその音は、徐々に大きさを増していく。近くの踏切が鳴る直前、ホームに電車到着を告げるアナウンスが鳴り響いた。それを合図にホームにいた人たちが一斉に動き始める。
  
 けれど、俺は動けないままだった。
 何とも言い難い空気が俺たちの間を流れていく。そうしている間にもホームには電車が到着し、そして去っていった。
 遠くなっていく電車の音を聞きながら、俺を真っ直ぐに見つめてくる瞳から目を逸らす。しかしそれを許さないとでも言うように、保科先生の骨張った手が俺の手を掴んだ。

「っ、え……なに」

 びくっと跳ねた肩に保科先生は気づいただろうか。

「あの……?」
「……刈谷、」

 何か言いたげな表情の先生から再び視線を逸らす。きっと先生は普段とは違う俺の様子に疑問を抱いているんだろう。だがそれを聞かれたとしても今の俺にそれを説明する気力はない。

「昼……食べに行くんでしょ?」

 遮るようにそう言葉を被せ、誤魔化すようにそう笑いながらベンチから立ち上がった。掴まれていた手を掴みなおしてくいっと引く。

「ああ……そうだな」

 ベンチに座ったまま俺を見上げていた先生は何かを悟ったように小さく溜息をついた。そして掴んだままの俺の手に力を入れ、先生がベンチから立ち上がる。俺は立ち上がった先生から視線を逸らし、彼の手を引きながら駅のホームを歩き始めた。

 

 
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