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第六章
百四十三話 わかれ道
しおりを挟む「っ……一つだけ、聞いてもいい?」
俺は顔を俯かせたままこくりと小さく頭を動かした。
何を言われるのだろうという不安と、何を聞かれたとしてもその全てに誠実に答えなければという緊張に思わず肩にかけたバッグの肩紐を握る手に力が入る。
意を決し、俺はゆっくりと顔を上げる。そして少し高い位置にある壱弦の顔を見上げた。遠くを見つめているかのようなその焦茶色の瞳にはいつもよりも多く水分が含まれているように見える。今にもこぼれ落ちそうなほどのその瞳が揺らいだかと思えば、冬の柔らかな日差しを反射したのかきらりと光った。
俺は、何も言わなかった。
正確には何も言えなかったのだが、俺は壱弦の口が開くまでじっと待ち続けた。今の俺に出来ることは壱弦が聞いてきたことに対して真面目に、そして誠実に答えることだけだ。
そう思いながら俺は微かに揺れる焦茶色を見つめた。
「弓月は……瀬名先生のこと、どう……思ってる?」
ちらりと動いた瞳が俺を捉え、視線がかち合った。その真剣で真っ直ぐな眼差しが俺を射抜く。覚悟していたような質問ではなかったことにほっと息を吐きつつ、俺は目を瞬かせた。
しかしそれと同時に『瀬名先生』という言葉に反応し、胸を高鳴らせてしまったことに戸惑いと気まずさを感じて瞳が揺れる。そうして視線がゆらゆらと揺れるうちに、真っ直ぐに見つめていたはずの視線はいつの間にか下がっていた。
俺が律樹さんのことをどう思っているか。
――答えは『好き』だ。
あの地獄のような日々から助けてくれたのは他でもない律樹さんだった。何も知らない俺に色んなことを教え、何もなかった俺にたくさんのものを与えてくれた彼に好意を抱くことはあれど、否定的な感情を抱くことはないだろう。
初めはただ恩人だからかと思っていたが、一緒に過ごしていくうちにそれだけじゃないことに気がついた。近くにいると心臓がどきどきとしたり、一緒にいる時にふと「好きだなぁ」なんて笑みが溢れてしまう。特にそばに居ると嬉しくて幸せで、心の底から安心出来るのは俺にとっては律樹さんだけだった。
極端な例え話だけれど、もし律樹さんのために俺が死ななければならないとしたら、きっと俺は喜んでこの命を差し出すだろう。だって俺にとっては、律樹さんのいない世界は死ぬことよりもなによりも辛いことだから。律樹さんにはずっと笑っていて欲しい、幸せに生きて欲しい――そばに居るのが俺じゃなかったとしても、彼が幸せそうなら俺は幸せだ。
壱弦の問いに対する答えは持っている。……持ってはいるんだけど、残念ながらその想いを上手く言語化し、正確に伝えられるほどの言葉や術を俺は持っていなかった。
うろうろと彷徨わせていた視線をほんの少し上げ、律樹さんよりも少し濃い色の瞳を見上げた。俺と同じように所在なさげに僅かに揺れていた瞳がぴたりと止まる。しかし視線がかち合ったかと思えば、すぐに伏せられてしまった。
壱弦の唇が微かに震えている。薄く開いてはまたすぐに固く引き結ばれる様子に、俺はこくりと喉を動かした。
互いに言葉を発さないまま時間だけが過ぎていく。それが数分だったか、たった数秒のことなのかは俺にもわからない。ただこの沈黙の間はとても長い時間のように感じられた。そんな重い沈黙を破ったのは壱弦だった。
「瀬名先生のこと……好き?」
俺は気まずさに再び視線を逸らしながら、躊躇いがちに小さく頷いた。心臓が煩い。どっくん、どっくんと強い鼓動は痛みすら感じる。そんな俺とは裏腹に、壱弦はやっぱりと言うように苦笑混じりの溜息を吐き出しながらただ一言「そっか」とだけ呟いた。
俺たちの間に再び重苦しい沈黙が降りる。
この後昼食を食べに行こうかなんてさっきは言っていたけれど、とてもじゃないがそんな空気ではなかった。何も話すことが出来ない。俺の所為ではあるんだけれど、先程までの柔らかな焦茶色の瞳が今はどんな色を湛えているのか確認するのが怖くて頭を上げることすらできなかった。
「あー……俺が言うのも何だけど……俺のことは気にしないで。寧ろ折角の楽しいお出掛けだったのに、こんな空気にしちゃってごめん」
「……っ」
「……どうする?このままお昼食べに行く?……ってそんな感じじゃないよなぁ……あはは……ごめん」
そう言いながら壱弦が自嘲気味に笑う。俺はその言葉一つ一つに俯きながら小さく頭を横に振ることしかできなかった。
謝らないといけないのは俺の方なのに、今辛いのは壱弦の方なのにどうして俺は彼に謝らせているんだろう。なんだか情けなくなってきて、でもどう言えばいいのかわからなくて胸も目頭もつきりと痛む。
「俺は大丈夫だから……っ……正直に言ってくれて、ありがとう」
視線を落としたまま、やっぱり俺は何も言えなかった。
視界の端で壱弦の手が動いたが、またすぐにぱたんと体の横に降りていく。息を詰めたような、微かに震えているように聞こえる声にゆっくりと顔を上げてみる。
「っ……」
顔を上げた事を後悔したのか、今まで顔を上げなかったことに後悔したのかはわからない。だが俺の胸には確かに後悔に似た感情が湧き上がっていた。
今にも泣き出してしまいそうな表情なのに、それでも俺を気遣って無理に笑う姿に胸がズキズキと痛む。罪悪感がないはずがない。俺がこんな表情をさせているのかと思うと、さらに苦しくなった。
でも、それでもやっぱり俺は壱弦の想いには応えられない。俺は律樹さんが好きで、これからも律樹さんと一緒にいたいと思うから。
「……帰る?」
「……うん」
窺うような声で呟かれた言葉に俺はこくりと頷いた。
きっとこのまま一緒にお昼ご飯を食べたとしても気まずいままだろうと考えた結果だった。それは壱弦も同じだったようで、彼は少しほっとしたような表情を浮かべている。
「あ……俺、買いたいものがあるからもう少しこの辺にいようと思うんだけど……弓月はどうする?」
そう聞かれ、俺は少しの間考えた。考えて、ふるふると頭を横に振った。
「そっか……じゃあ、駅まで送るよ」
「……ん」
本当は駅まで一人で行くつもりだった。けれど視界の端に映る壱弦の手が固く閉じられ、小さく震えているのを見ていると断ることが出来なかった。
二人並んで駅のホームまで歩いていく。その道のりはとても長く感じられた。お互いに何を話したらいいのかわからず、駅に着くまでの俺たちの間に会話なんてものはなく、ただただ規則正しい足音だけが響いていた。
「……じゃあ、な」
「……うん」
駅のホームには既に電車が着いていた。車内に乗り込み、ホームに立つ壱弦の方に体を向ける。今泣きたいのは俺じゃなくて壱弦の方だろうに、いつの間にか俺の目にはじんわりと涙の膜が浮かび上がっていた。
「ごめんな、こんな空気にしちゃって……瀬名先生と、上手くいくといいな」
「……っ」
壱弦は何も悪くない。悪いのは、俺だ。壱弦の俺への気持ちを知っていたのに――いや、違うな。俺は初めから都合のいいことばかり考えていただけだ。告白を断ったとしても友達のままでいられるなんて、そんな俺だけに都合の良いことなんて起こるわけがないのに。
発車するというアナウンスが構内に鳴り響き、そのすぐ後にプシューという音と共に目の前で扉が閉まった。電車が動き始め、駅のホームに佇む壱弦の姿が横にずれていく。
「……っ」
行きとは異なり静かな車内に響くのは電車が線路を進んでいく音だけ。ガタンゴトンと揺れながら加速していく車内で、俺は扉の横にある手摺りに手を掛けながら頭を俯かせた。
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