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第五章

閑話 瀬名律樹とアルバム 前編

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 トイレを済ませ、リビングに戻ろうとする俺の足を止めたのは母の声だった。

「……なに」

 早く弓月のところに戻りたいんだけどと不機嫌さを隠しもしない俺に、母さんはふっと笑みを浮かべた。まるで俺の反応を予想していたかのような表情に無意識に頬が引き攣る。文句の一つでも言ってやろうと口を開こうとしたが、それよりも先に今度は父さんが口を開いた。

「少し良いかい?律樹に相談があるんだ」
「相談……?」

 珍しい父さんの言葉に首を傾げる。父さんが俺に相談なんて、弓月の好みや体型を聞かれた時以来だろうか。……いやあれもあれで相談というより、どちらかといえばアンケートに近かったように思う。あの時、何のためかはわからないながらも父さんが俺に聞いてくるくらいなのだからきっと必要なことなんだろうな、とあまり深く考えずに答えたような気がする。
 
 実の息子である俺が言うのも何だが、父さんはとても優秀な人だ。会社での地位もそれなりにあり、人望もある。おまけに頭も良くて、俺が知る限りでは性格も良い。その証拠に俺は今までに一度も父さんが怒っているところを見たことがなかった。それほどまでに父さんは穏やかで優しく、懐が深い人だ。だから余計に思う、どうして美人ではあるけれどこんなにも自由な母さんを選んだんだろうって。
 話が逸れてしまったが、兎に角父さんは俺なんかに相談するような人ではない。相談しなくたって全て自分で解決出来る人なんだから、相談する必要がないんだ。
 ……なのにそんな父さんが俺に向かって『相談』という言葉を使った。今ここに父さんと母さん、六花姉さんの三人だけがいることも含めて考えてみるに恐らく――いや、十中八九弓月のことだろう。

「……弓月が、どうかした?」

 そう口にすると父さんが笑みを深めた。元々細い目がますます細くなる。

「よくわかったわね」
「……父さんが俺に聞くなんて、弓月のこと以外にないだろ」
「まあ、それもそうね」

 嬉しそうに笑う父さんの隣で、軽く目を見開いた母さんが感心したようにそう言った。その少し後ろでは姉さんも同じように驚いた表情で俺を見ている。
 俺はそんな二人には構わず、真っ直ぐに父さんを見つめた。

「話が早くて助かるよ。いやあ、前に聞いた弓月くんの好みや体型を参考にプレゼントを用意したんだけれど、いつ渡そうか迷っているんだ。もし良かったら律樹の意見を聞かせてくれないかな?」
「いつって……別にいつでも弓月は喜ぶと思うけど……」
「でも律樹も弓月くんに渡したいものがあるんじゃないのかい?」
「……!」

 何でもないことのように発せられた言葉に身体がビクッと大きく跳ねた。父さんだけではなく、母さんと姉さんからの驚きの籠った視線が俺に集まる。

 確かに俺も弓月に試験合格のお祝いとしてプレゼントを用意している。どのタイミングで渡そうかと迷いながらも、まあタイミングが合えば渡せばいいかと思って鞄の中に入れたままだった。
 しかしそれは俺自身しか知らないことだ。なのに何故父さんがそのことを知っているのだろう。

「……まあ、僕だって君の父親だからね。自分の子どもの考えていることくらいは流石にわかるよ」

 その言葉と表情に、もし弓月の父親があいつでなく父さんだったらきっと弓月は悲しい目にも合わなかっただろうし、傷つくこともなかっただろうなとぼんやりと思う。

「俺、は……俺の場合は、ここで渡せなくても……家に帰ってから渡せるから」

 だから俺のことは気にしなくて良いよと続ければ、父さんはほっと安堵したような息を吐き出した。わかった、と笑みを浮かべる父さんにこくりと一つ頷き、俺は父さんの横を通りながらリビングへの扉に手を伸ばす。しかしその手が扉に届く前、再び父さんの声が俺の動きを止めた。

「そういえば弓月くんへのプレゼントの内容、今更だろうけれど被っていたら申し訳ないから一応伝えておくね。十八歳の――成人式は二十歳でするだろうけれど、それでも十八歳は一応成人という区切りだからね、僕と六花、それから法子からはスーツと腕時計をプレゼントするつもりだよ。律子さんからは……」
「私はこの家の鍵よ。あともう一つは……帰ってから二人で確認してちょうだい」
「……だそうだよ。じゃあ……そろそろ戻ろうか。僕たちは少し用意があるから、律樹は先に弓月くんのところに戻ってあげなさい」

 いつものように穏やかで優しげな笑みを浮かべた父さんが俺の肩をぽんぽんと軽く叩く。俺はそれにこくりと頷くと、中途半端に宙に浮いていたままだった手を、再びリビングへと繋がる扉に伸ばした。

 指が取手にかかり、少し力を入れればかたんと音を立てながら扉が開いていく。視線を扉から少しずらして室内を見回すと、すぐにお目当ての人物の頭が視界に入ってきた。
 ……もしかして、眠っているのだろうか。ソファーの背もたれから微かに揺れるちらりと覗く愛しい後頭部に頬を緩ませながら、俺はソファーに座っている弓月の隣にゆっくりと腰掛けた。
 
 だが俺の予想に反し、俺がソファーに腰を下ろした瞬間弓月の黒曜石のような瞳が俺を映した。

「……アルバム?」
「ん」

 何をしているんだろうと覗き込めば見覚えのある冊子がちらりと見えた瞬間、俺は思わず声に出して呟いていた。


 
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