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第五章

百三十三話 顔の見えない写真

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 お手洗いから戻ってきた律樹さんが俺の隣に腰を下ろした。ソファーの座面が僅かに下がり、体がほんの少しだけ揺れる。俺は膝に乗せていたアルバムの冊子が落ちないように手を添えた。

「……アルバム?」
「ん」

 律樹さんも一緒に見る?と隣に座る彼を見上げながら首を傾げる。すると律樹さんはふっと目を細め、口元を緩めながら俺の頭をくしゃりと撫でた。
 
 じゃあ一緒に見ようかなと言いながら、律樹さんが俺の肩に腕を回して体を引き寄せた。隣同士で座っていた時よりも遙かに密着した身体からは温もりと一緒に鼓動が伝わってくる。いつもなら安心感の方が強いこの体勢も、今は心臓が爆発しそうなくらいにドキドキとしていた。
 きっと二人きりならば問題なかっただろうが生憎ここは律樹さんの実家であり、周りには律樹さんの家族という俺たち以外の人がいるのだ。ドキドキしないわけがない。俺はいつも以上にうるさい心臓の辺りを左手で押さえながら、羞恥に顔を俯かせた。

 アルバムのページを捲る指先がぷるぷると震えている。顔だけじゃなくて全身が熱く、視線の先にある自分の手が赤く染まっているのが見えた。

「律樹」

 嬉しいけれど恥ずかしくてきゅっと目をきつく瞑った時、六花さんの声が隣の彼を呼んだ。俺が呼ばれたわけではないのに反射的に身体がぴくっと小さく跳ねてしまう。

「それは帰ってからにしなさい」
「……なにを?」
「……わかってるくせに」
 
 六花さんの溜息混じりの言葉になんの話だろうと思いながら顔を上げようとした。しかしそれよりも早く俺の頭に律樹さんの大きな手が乗る。その手は頭をぽんぽんと優しく撫でた後、ゆっくりと俺の頭から離れていった。それと同時に密着していた身体の側面も僅かに離れていく。

 俺はほっと息をついた。緊張や羞恥など様々な感情で固まっていた身体がようやく自分の意思を取り戻したように軽くなる。だからそれはそれで良かったはずなのに、なんとなく離れてしまったことに寂しいと感じた。

「……また帰ったら、ね」
「……っ!」

 そんな俺の思考を読んだのか、耳元に近づけられた律樹さんの唇が小さくそう囁いた。耳殻に熱い吐息が掛かり、さっきとは全く違った意味で体が硬直する。彼の低く甘い声にお腹の奥がずくんと疼いたような気がして、俺はそっと腹部を撫でた。

 多分六花さんだろう、近くで溜息のような息を吐き出した音が聞こえてきた。その音に思わず顔を上げようとしたのだが、再び俺の行動よりも先に律樹さんの手が頭に乗った。まるで今は上げないでと言うように置かれた手。俺は戸惑いながらも大人しく顔を俯かせたまま膝上に置いたアルバムに視線を落とした。
 そのまま何事もなかったかのように律樹さんの手がアルバムの縁に添えられる。しかしその手は次のページではなく前のページへと添えられており、一ページ前へと戻っていった。

「ん?」

 ページをめくると同時に、その隙間に挟んでいた先ほどの写真がひらひらと床の上へと落ちていく。絨毯の上に落ちた裏面を見つめながら手を伸ばそうとした時、それよりも早く律樹さんの腕が横から伸びてきた。
 彼の指先が写真に触れた。そして親指と人差し指で摘まれた写真が絨毯の上から彼の目線の高さまで上げられていく。そんな一連の様子を俺はただぼんやりと眺めていた。

「……『律樹八歳、夏』?……っ!」
「……?」

 裏面に書かれた走り書きの文字を読んだ後、表に返して写真を確認した律樹さんの顔色がさっと変わった。まるで信じられないとでもいうように見開かれた目、そしてその後の険しい顔つき。もしかして見てはいけない写真だったのだろうかと首を傾げていると、律樹さんの異変に気づいたらしい六花さんが俺と同じように困惑したような表情でこちらに歩いてきた。

「どうかしたの?」

 六花さんは俺と律樹さんを見比べながらそう言った。しかし俺にも何が何だかわからなかったので頭をふるふると横に振るしか出来ない。
 
 あの写真は幼い律樹さんが顔のわからない誰かを抱きしめている様子を写しているだけで、もう一人の子どもの顔が擦れてわからなくなっていること以外に変なところはなかったように思う。なのにちらりと見上げた律樹さんの表情は先程よりもずっと厳しいものになっていた。
 
 俺は律樹さんの服を摘んでくいくいと引っ張る。しかし律樹さんは眉間に皺の寄った険しい表情のまま何も答えなかった。

「律樹?……!」
「……⁇」

 困惑顔の六花さんが律樹さんの手元を覗き込む。そして律樹さんと同じように目を見開いたまま動きを止めた。

 ……一体なんだというのだろうか。
 そりゃあ写真の一部分だけが擦れて見えなくなっているのは不思議だと思うけれど、別に驚くほどのものではないと思う。まあ削れたようになっているのは少々不気味に思わなくもないが、起こり得ない現象というわけではないので怖さを感じることもなかった。

 だが二人はそうじゃなかったらしい。
 律樹さんも六花さんも、少しではあるけれど顔色が悪かった。青ざめているという表現が一番合っているように思う。俺は摘んだままだった律樹さんの服をもう一度軽く引っ張りながら、僅かに喉を震わせた。
 
 
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