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第五章
閑話 瀬名律樹は不安を募らせる 中編
しおりを挟む「お前……仕事はどうした?」
「……休憩」
「……ふ、っ」
そう言った瞬間、慶士が口元を押さえて笑い出した。普段はクールを決め込んでいるこいつがこんなふうに笑うことは珍しい。もしかすると機嫌が良いのだろうか。
だが確かに来て二時間も経っていないのに休憩なんて、とは俺も思う。いつもなら仕事をある程度進めた後に休憩と称してここに来たり、学食前の自動販売機まで歩いたりするのだが、今日の場合はほとんど仕事が進んでいない。折角休日出勤をしているというのにほとんど手つかずな状態にも関わらず、俺は今こうして休憩と称してここに来ている。そのことになんとなく恥ずかしくなった俺は、椅子に座る慶士から僅かに顔を逸らした。
「はー……すまない」
「……本当にな」
「まあ、お前の気持ちもわからないでもないんだが……でもあのお前がここまで心配症……というよりも不安の方か?まさかこんなふうになるとは思わなかった」
……仕方ないだろう、好きで好きで堪らない子が他の奴と一緒にいるんだから。それもなんとも思っていない相手ならまだいいが、その一緒にいる相手というのが弓月のことを好きだと思っている男なんだから俺だって不安にもなる。
それに弓月の過去や記憶のこともある。少し前までならまだ良かった。だが今は違う。もし――もしも弓月が謝りたいと言っていた相手が実は総一郎達のようなことをしてくる奴だったら?……俺はあり得ないことではないと思う。弓月に高校時代の記憶が戻ったとは言ってもそれが完全なものであることは証明できない。もし仮に記憶が不完全なもので、都合の悪いことは全て忘れているのだとすれば、弓月の身に危険が迫っている可能性がある。
いくら隣に僅かながらでも事情を知っている刈谷がいるとはいえ、あいつはNormalだ。もし相手がDomだった場合、止められるのは俺みたいな同じDomか 慶士のようなDom性の方が強いSwitchだけだろう。
全てが想像の域を出ないものばかりだが、嫌な想像というのはいくらでも考えついてしまう。それに俺は和泉先生のように打木桃矢という男子生徒のことをよく知っているわけではない。寧ろ顔や所属クラスすらも曖昧だ。だからこそ余計に俺の中の不安は大きさを増していくのかもしれない。
そんな俺の気持ちを知っているだろうに、慶士は再び考え込み始めた俺を見てまたぶふっと吹き出した。
「っ、くく……っ」
「……お前に相談しようと思った俺が馬鹿だった。……戻る」
「ああ、戻れ戻れ。どうしてもっていうなら仕事を進めた後……いや、車の中で聞いてやるよ」
「はぁ……」
ふっと笑みを浮かべた慶士が、立ち上がった俺に手を振りながらそう言った。俺は溜息を吐きながら軽く手を上げ、保健室を出る為にドアの取手に手を掛けようとして――ぴたりと動きを止めた。
……今、こいつはなんと言った?
「車の、中……?」
振り返りながらそう呆然と繰り返す。
たまに俺の車で一緒に俺の家まで行くこともあるが、今日はそんな約束をした覚えはない。ということは……どういうことだ?
俺の反応が予想外だったらしい。慶士が目をまん丸にしながら俺を見た。その表情は驚いているように見える。恐らくたった数秒程だっただろうか、沈黙が俺たちの間に降りた。
徐に慶士が机に置いていたスマホを手に持って席を立ち上がった。キィ……ッという椅子のキャスターが軋む音が響き、宙に浮いたままだった俺の手がぴくりと動く。そうしているうちに慶士がスマホの画面を指で操作しながらこちらに向かって歩いてきた。
「一週間前に言っただろう?明日は俺も刈谷に用事があるからついでに乗せていってくれって。お前も……ほら、わかったって返事を……お前、まさか……」
溜息混じりの言葉の中、ほら、と見せられたスマホの画面には確かに「わかった」という簡潔な返事が表示されている。なんとなく覚えのあるような気がしないでもない。本当に俺なのかと送り主の名前も確認してみるが、画面の上の方にに表示されている名前は何度見てもやっぱり俺の名前だった。
俺が忘れていたことに気づいたのか、慶士は再び口元に手を当てながらくつくつと笑い始めた。今日は本当に上機嫌らしい。
しかしそんな慶士とは逆に少し機嫌の悪い俺は、見せられたスマホの画面から目を逸らしながら大きく溜息を吐き出した。するとすっと笑みを引っ込めた慶士が眉尻を下げながら困ったような笑みを浮かべた。
「……俺も、大概だけどな」
「は……?」
スマホを俺の手からするりと抜き取りながら、慶士が何かを呟いたような気がした。あまりに小さな声量だったからかうまく聞き取ることができずに聞き返す。だが慶士はどこか自嘲を含んだ笑みを浮かべるだけで答えようとはしなかった。
「ほら、俺も今からこの部屋を出ていくからお前ももう戻れ。……また後で話そう」
そう言って慶士は出入り口のドアをがらがらと音を立てながら開いた。そうして俺の背を押しながら廊下へと出ていくと、またなと言って職員室とは反対の方向へと歩きだす。俺はその背を呆然と見送りながら、また一つ溜息を吐き出した。
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