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第五章

閑話 刈谷壱弦は混乱する 後編

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 桃矢が弓月を下敷きに、床に倒れ込んでいく様子がやけにゆっくりと見えた。まるでスローモーションのようだった。

 肌を差すようなピリピリとした感覚はまだ続いているが、正直それどころではない。何があった、何が起こっている――今目の前で起こっている事象を俺は理解しきれないでいた。
 倒れていく桃矢たちに咄嗟に手を伸ばすが、指先に擦りもしない。俺は焦った。弓月が倒れる先には、瀬名先生が弓月に持たせてくれたケーキを置いたテーブルがある。このまま倒れていけば確実に弓月の後頭部はテーブルの角に当たってしまう。角がいくら丸く加工されているとはいえ、それでも二人分の体重がかかっている今頭を固いそこに打ち付ければきっとただでは済まない。

「弓月……っ!」

 とどけ、とどけと必死に体を前に倒しながら手を先へと伸ばす。弓月の頭がテーブルに当たる前にどうにかこの手をとどかせたかった。それでもやっぱり、俺の手は――

「っ、桃矢ッ‼︎」

 気付けば俺はそう叫んでいた。桃矢が今何を考えてこんな行動をしているのかはわからない。意識的にしていることなのか、それとも偶々そうなってしまっただけなのかすらもわからない。けれど俺にはもうこうなった原因でもある桃矢に縋るしかなかった。

 俺の声か想いかが通じたのか、桃矢の足がびくっと動いた。そこからは魔法が解けたかのようにスローモーションではなくいつもの速度で世界が動いていく。次の瞬間にはガタンッと大きな音がした。

「……っ」

 音で我に返り、はっと顔を上げた。
 弓月はどうなった?桃矢は?と心臓が痛いくらいに騒いでいる。勿論最悪の事態を想定していなかったわけではない。すぐに誰かに助けを求められるよう、左手をポケットの中に入れてスマホを取り出す。しかし目の前の光景は俺が想像していたものとは全く違ったものだった。

「……ったぁ……」

 小さく聞こえてきたその声に、俺は泣きそうになった。全身から力が抜け、立っていることすらままならなくてへなへなとその場に座り込んでしまった。

 結果から言えば、桃矢も弓月も無事だった。ただ弓月の顔色は紙のように真っ白でとても良い色とは言えなかったし、桃矢は咄嗟に出した左手を捻ったらしい。それでも二人に命の危険があるような大きな怪我がなかったことに心の底から安堵した。

「よかったぁ……っ」

 思わずこぼれた安堵の言葉に、桃矢が一言「ごめん」と小さく呟く。それは弓月に対してなのか、俺が今言った言葉に対してなのかなんてわからないが、もう二人が無事ならどうでもいいと思った。

 顔色の悪い弓月を俺のベッドにゆっくりと横たわらせた後、俺と桃矢はベッドフレームにもたれ掛かりながら床に腰を下ろした。隣に座る桃矢の左手首には、俺がキッチンから持ってきた保冷剤をタオルで巻いたものが当てられている。ひどく腫れているわけでもないので折れてはいないと思うが、後で瀬名先生と一緒に弓月を迎えに来ると言っていた保科先生にも一応診てもらったほうがいいかもしれない。

「……ごめん」

 桃矢は呟くように再び謝罪の言葉を口にした。バツが悪いのか、立てた膝に顔を埋めて顔を隠している。

「それは、俺じゃなくて弓月に言ってくれ」
「……うん、そうだよね」

 ベッドで眠る弓月を見ながらそう言えば、桃矢は少し落ち込んだ様子でそう返してきた。こんなにしおらしい桃矢を見るのはいつぶりだろうか。口を開けば愚痴と俺に対する暴言ばかり。そんなこいつに辟易していたこともあったが、今はただただ心配になった。

「……聞かないの?」
「何を?」
「僕と……弓月、のこと」
「……逆に聞くが、聞いてほしいのか?」
「……どう、なのかな……」

 桃矢が膝に顔を埋めたままそう小さく呟いた。その姿が幼かった頃の桃矢そのもので、ほんの少しだけ胸が締め付けられる。

 こいつは昔から良くも悪くも可愛い顔をしていた。だから近所の悪ガキどもに目をつけられて虐められたり、同じクラスの男子からよく女だなんだと揶揄われたりしていたこともあり、酷く内気だった。今でもどちらかといえば内向的な部類だと思う。引っ込み思案で、人見知り、その上人間不信な部分もあって、本当はとても学級委員なんて出来るような奴ではなかった。
 でも桃矢は小学校の高学年の頃から少しずつ変わり始めた。俺以外の友達といることも増えたし、少しずつ周りの人間との関わりも増えてきたんだ。それで中学からは元々の真面目な性格もあって、昔から憧れていた学級委員になることもできた。

 高校に入ってすぐの頃、二人に何があったのかはわからない。ただそのことがこの二人をここまで苦しませているんだろうなってことくらいはわかる。

「……僕ね、壱弦がずっと好きだったんだ」

 沈黙の中、不意に桃矢が呟いた声が俺の耳を打つ。突然落とされた爆弾に反応出来ずにいる俺をちらりと見た桃矢が困ったように笑った。

「壱弦が……その……弓月を好きだってことは知ってる。僕が……僕じゃあ弓月の代わりになれないことも……知ってる」

 俺を見つめる黒に近い焦茶色の瞳が僅かに揺れる。目は口ほどに物を言うとよく言うけれど、本当にそうなのかもしれないと思った。

「弓月がいなくなれば、僕が壱弦の好きな人になれるなんて……馬鹿だよね……そんなこと、あるわけないのに、っ」

 桃矢は泣いていた。今まで堪えていたものを全て吐き出すように、苦しそうに泣いていた。泣き止んでほしいと思うのに、今の桃矢にかける言葉が見つからない。

「ぼく、っ……僕、は……弓月に、酷いことをした……っ」

 涙を流しながらそう懺悔する桃矢を見ながら、俺はぼんやりと「こいつも同じなんだな……」なんてことを思った。きっと俺も弓月に赦されたいと思っているのと同じように、桃矢も多分そう思っている。だからこそ今ここで俺に打ち明けているんだろうなと思うのだ。

 桃矢が話している内容は耳に入ってきているはずなのに、どうしてか頭の中では処理出来ていないようで理解すらできない。いや元々その所業自体を理解するなんてことは俺にも出来ないんだが、これはそういうものではなくて脳が理解することを拒否しているような感じだった。

 ……ああ、頭が混乱する。
 俺はガンガンと痛み始めた頭を手で押さえながら、きつく目を閉じた。


 
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