上 下
148 / 199
第五章

百十七話 壱弦の家 中編

しおりを挟む

「……っ、」
「……!」

 ぽかんとした表情で俺を見つめていた壱弦の目が水面のように揺らぎ、次の瞬間には透明な雫が一筋流れ出ていた。俺は慌てて斜め掛け鞄の中から新品のタオルハンカチを取り出し、壱弦の頬に当てる。突然涙を流し始めた壱弦に戸惑いつつ、俺は彼の目を見ながら大丈夫かと首を傾げた。

「あっ……ご、ごめん……なんで俺、泣いて……っ」

 どうして泣いているのか、壱弦本人にもわからないらしい。壱弦は焦るように手で目元を拭うが、流れる涙は止まらない。俺はそっと壱弦の側に寄り添いながら、壱弦の目元をタオルハンカチで優しく抑え続けた。

 暫くしてようやく涙が止まった壱弦は、ありがとうと言いながら俺の頭を撫でた。本当に大丈夫?と首を傾げる俺に彼は「もう大丈夫」と眉を八の字に下げて笑っている。壱弦の目も目の周りも同じように赤くなっているのが痛々しくて、俺は眉じりを下げながら壱弦の手に持っていたタオルハンカチを握らせた。

「ん……?ああ、本当にもう大丈夫だから気にするなって。……もう、なんで弓月の方が泣きそうなんだよ」
「……っ」

 ……だって壱弦の顔が辛そうに見えたから。
 スマホもペンも紙も手元にない俺にはそう言うことが出来ない。その代わりに壱弦がハンカチを持つ手を摩りながら首を横に振った。きっとこれだけじゃ、俺が言いたかったことの十分の一ほども伝わっていないだろう。それでも俺は壱弦を元気づけたくて、必死で笑顔を作って見せた。

「……!」
「……ありがと」

 壱弦が手を握ったままの俺の手を引く。なんの抵抗もなくぽすんと飛び込んでしまった壱弦の胸は律樹さんよりも厚くはなかったが、それでも俺なんかよりもよっぽどしっかりしていた。さっきまで泣いていたからか、胸に当たった耳から伝わる心臓の音が少し速い。けれど俺のそれも多分同じくらい速くなっているような気がした。

「……もう少し、このまま」
「……」

 背中に回された腕に力が入り、強く抱きしめられる。だが加減はしてくれているようで少しも苦しくはなかった。
 息を吸い込むと壱弦の香りがした。律樹さんとは全く違うその香りからはなんだか懐かしさを感じる。高校時代を思い出したからだろうか、胸がつきりと痛むと同時にほんのりとあかりが灯ったかのようにじんわりと熱を帯びていった。
 壱弦が俺の肩に額を当てる。そうしてさらに腕に力が入った時、大きなチャイム音が俺たちの耳に届いた。

「っ……はあ……ちょっと待ってて」

 溜息をついた壱弦が俺から離れていく。俺の頭に手を置いてぽんぽんと軽くバウンドさせてから、壱弦はこの部屋を出ていった。
 俺は呆然とその背中を見送り、ぱたんと扉が閉まると同時にへなへなとその場に座り込んだ。胸に手を当てると、まるで走った時のように心臓がどくんどくんと大きく鼓動しているのがわかる。律樹さんの時とは違い甘い雰囲気なんてものはなかったのに、どうしてこんなにも心臓が煩くなっているのかわからない。
 ……さっき別れたばかりだというのに、なんだかもう律樹さんに会いたくなってきた。今頃は学校で仕事中だろうか。……保科さんも一緒なのかな。そう思った時、俺の手は無意識に首元にやっており、指先がそっと首輪を撫でていた。

「――で、僕に会わせたい人って誰なの?」

 遠くから聞こえてきた声を聞いた途端、俺の身体がびくんっと大きく跳ねた。階段を登る音の合間に聞こえてくる声は二つ、一つは壱弦でもう一人が恐らく『トウヤくん』なのだろう。
 律樹さんが言うには多分俺の友人だろうとのことだったが、確かにこの声は俺が夢の中で聞いた声そのものだった。もしこの声が本当にトウヤくんなら、あの時のことを謝りたいとあの夢を見た時からずっと思っていた。
 なのに今、どうしてか俺の身体は震えていた。さっきよりも大きく鼓動する心臓の音が振動に変わり、手や足を震わせる。なんで震えているのかなんてわからない。でもその声を聞いた瞬間俺が思ったのは「謝らないと」ではなく、なぜか「逃げないと」だった。
 
 声と足音が近づいてくる。痛いほどに大きな心臓の鼓動がさらに大きくなっていく。背筋に冷たい物が流れ、額から汗が一筋伝う。握り締めた手のひらがじっとりと濡れていた。逃げ場なんて、ない。俺はこの部屋唯一の出入り口である扉をじっと見つめた。
 足音が止まる。ドアノブが動き、扉が音を立てて開いていく。暑くもないのに額から流れた汗が頬を伝い、顎から膝の上にぽとりと落ちた。

「……」
「……」

 扉が開いた先、黒い瞳と目があった。夢で見たその人と同じ黒くて大きな目が徐々に見開かれていく。半開きになった口の中はからからに渇いていた。

「……ゆづ……き……?」
「……ぁ」

 形の良いピンク色の唇が動き、俺の名前を紡ぐ。その表情はまるで信じられないと言っているようだった。

「……弓月、こいつが桃矢だ。打木桃矢――俺の幼馴染で、瀬名先生が聞いてきた『トウヤくん』だよ」

 壱弦の声が遠く感じる。まるで薄い膜が張っているような感じだった。胸が痛い。ドクドクと強く鼓動が鳴り響き、頭がガンガンと痛む。
 脳裏に浮かんだのは、あの日彼から向けられた目。今も俺を見つめるこの黒い瞳から、あの時と同じようにやっぱり目を逸らすことができなかった。
  

しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

隠れSubは大好きなDomに跪きたい

みー
BL
⚠️Dom/Subユニバース 一部オリジナル表現があります。 ハイランクDom×ハイランクSub

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

悪役令息に転生して絶望していたら王国至宝のエルフ様にヨシヨシしてもらえるので、頑張って生きたいと思います!

梻メギ
BL
「あ…もう、駄目だ」プツリと糸が切れるように限界を迎え死に至ったブラック企業に勤める主人公は、目覚めると悪役令息になっていた。どのルートを辿っても断罪確定な悪役令息に生まれ変わったことに絶望した主人公は、頑張る意欲そして生きる気力を失い床に伏してしまう。そんな、人生の何もかもに絶望した主人公の元へ王国お抱えのエルフ様がやってきて───!? 【王国至宝のエルフ様×元社畜のお疲れ悪役令息】 ▼この作品と出会ってくださり、ありがとうございます!初投稿になります、どうか温かい目で見守っていただけますと幸いです。 ▼こちらの作品はムーンライトノベルズ様にも投稿しております。 ▼毎日18時投稿予定

【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集

あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。 こちらの短編集は 絶対支配な攻めが、 快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす 1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。 不定期更新ですが、 1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 書きかけの長編が止まってますが、 短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。 よろしくお願いします!

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

【完結】別れ……ますよね?

325号室の住人
BL
☆全3話、完結済 僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。 ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。

愛され末っ子

西条ネア
BL
本サイトでの感想欄は感想のみでお願いします。全ての感想に返答します。 リクエストはTwitter(@NeaSaijou)にて受付中です。また、小説のストーリーに関するアンケートもTwitterにて行います。 (お知らせは本編で行います。) ******** 上園琉架(うえぞの るか)四男 理斗の双子の弟 虚弱 前髪は後々左に流し始めます。髪の毛の色はご想像にお任せします。深い赤みたいなのアースアイ 後々髪の毛を肩口くらいまで伸ばしてゆるく結びます。アレルギー多め。その他の設定は各話で出てきます! 上園理斗(うえぞの りと)三男 琉架の双子の兄 琉架が心配 琉架第一&大好き 前髪は後々右に流します。髪の毛の色はご想像にお任せします。深い緑みたいなアースアイ 髪型はずっと短いままです。 琉架の元気もお母さんのお腹の中で取っちゃった、、、 上園静矢 (うえぞの せいや)長男 普通にサラッとイケメン。なんでもできちゃうマン。でも弟(特に琉架)絡むと残念。弟達溺愛。深い青色の瞳。髪の毛の色はご想像にお任せします。 上園竜葵(うえぞの りゅうき)次男 ツンデレみたいな、考えと行動が一致しないマン。でも弟達大好きで奮闘して玉砕する。弟達傷つけられたら、、、 深い青色の瞳。兄貴(静矢)と一個差 ケンカ強い でも勉強できる。料理は壊滅的 上園理玖斗(うえぞの りくと)父 息子達大好き 藍羅(あいら・妻)も愛してる 家族傷つけるやつ許さんマジ 琉架の身体が弱すぎて心配 深い緑の瞳。普通にイケメン 上園藍羅(うえぞの あいら) 母 子供達、夫大好き 母は強し、の具現化版 美人さん 息子達(特に琉架)傷つけるやつ許さんマジ。 てか普通に上園家の皆さんは顔面偏差値馬鹿高いです。 (特に琉架)の部分は家族の中で順列ができているわけではなく、特に琉架になる場面が多いという意味です。 琉架の従者 遼(はる)琉架の10歳上 理斗の従者 蘭(らん)理斗の10歳上 その他の従者は後々出します。 虚弱体質な末っ子・琉架が家族からの寵愛、溺愛を受ける物語です。 前半、BL要素少なめです。 この作品は作者の前作と違い毎日更新(予定)です。 できないな、と悟ったらこの文は消します。 ※琉架はある一定の時期から体の成長(精神も若干)がなくなる設定です。詳しくはその時に補足します。 皆様にとって最高の作品になりますように。 ※作者の近況状況欄は要チェックです! 西条ネア

処理中です...