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第五章

百八話 声

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 突然のことに戸惑っていると、キュッと音がしてお湯が頭上から降り注いだ。少し熱いくらいではあるがそれなりに気持ちの良い温度で、俺は余計に目を白黒させる。

「弓月の言う通り一人で入らせてあげようと思ったけど、やめた。ねえ、あんな薄着であんなところにずっといて、風邪でもひきたかった?」
「……っ」

 律樹さんの手が壁際に伸びる。反射的にぎゅっと目を強く瞑り、俺は顔を下に向けた。律樹さんの発した言葉がその通り過ぎて、反論も反応も何もできなかった。
 そうして黙って何も反応を返さないままでいると、再びキュッと音がして降り注いでいたお湯がぴたりと止まった。

「目、閉じてて」

 いつもより声が低い。……多分、怒ってる。
 濡れた髪に手が触れる。言い方は少しぶっきらぼうに感じるのに、頭皮の上を柔く掻くように動く指先は壊れものを扱うように優しい。

 ――じゃなくて、いやいや、なんで律樹さんは怒りながら俺の頭を洗っているんだろう。鏡越しに僅かに見える彼の表情も聞こえてくる声も纏う空気も全てに怒気を含んでいるのに、行動が怒っている時のそれではなくて頭が混乱する。
 えっと、あの、と口を動かしながら呆然としているうちに頭髪を洗い終えたらしく、目を開けて良いと言われた。恐る恐る目を開けて真正面の鏡を見るが、生憎お湯の湯気で曇ってしまって何も見えない。律樹さんがどんな表情をしているのかだけでも分かれば良いのにと思っていたのに、それすらも窺い見ることは出来なかった。

 背後で衣擦れの音がした。けれど俺は、振り向かなかった。だって怒らせているのは俺で、振り返った先でどんな顔をすれば良いのかわからなかったから。

 今度こそ嫌われたかもしれない。律樹さんと出会ってからもうすぐ半年が経つけれど、その間に体調を崩した回数は数え切れない程だ。ほんの少し無理をしただけでも寝ては出るし、体調不良で迷惑をかけたことも数知れず。それなのに俺は薄着で寒いところにいた。怒られるのも、呆れられるのも当然だ。
 そんな俺に愛想を尽かすのも無理はないと、正直自分でも思う。

 サアァァ……とあたたかなシャワーが降り注ぎ、ぬるりとしたコンディショナーが流されていく。僅かに泡立ったお湯が排水溝へと流れていくのをぼんやりと眺めていた。
 濯ぎ終わった髪が蓄えた水分の重みで垂れ下がり、顔を隠してくれる。さっき考えていたことを思い出すと途端に目の奥が痛んで、俺はまた目を閉じた。頬をあたたかな雫が流れていく。その雫は果たしてお湯なのだろうか、それとも――

「……っ⁈」

 鬱々とそんなことばかり考えていた時だった。
 不意に背中に固いものが触れたかと思えば、そこに重みが加わった。えっ、と瞼を開いて振り返ろうとするが、それを阻止するかのように俺なんかよりもずっと逞しい腕が胸に回る。ぎゅっと音がするくらい力強く抱き締められ、俺はさらに困惑した。

「……弓月、俺は今怒ってるんだよ」
「……」
「俺はずっと弓月を大事だって、何かあったら心配だって言ってるのに……なんで弓月は自分を大事にしないの……俺と入るのが嫌だって言うならそれでも良い。でも……待ってる間は暖かい部屋にいてよ」

 あまりに身体が冷たくて怖かったと続ける律樹さんの声は少し震えていた。

「この間から、弓月の様子がおかしいことには気付いてた。前みたいに甘えてこないし、距離が近づいたかと思えばすぐに離れていくし、時々苦しそうな表情や諦めたみたいな顔をするし……俺は……っ、俺は、小さい頃の弓月しか知らないから……言ってもらわないと、わからないんだよ……」

 時折言葉を詰まらせながらなおも続ける律樹さんに、胸がぎゅっと締め付けられるように痛む。最近の彼の寂しそうな表情が俺のせいだったのだという事実に対する罪悪感が胸を苦しくさせた。けれどそれ以上に気づかれていたことに対して驚くと同時に俺の中に喜びが湧き上がる。

「最近の弓月を見ていると、急に俺の前から消えてしまいそうで……怖いんだよ」

 俺を抱きしめる力がより一層強くなる。背中越しに伝わる、ドクンドクンという彼の大きな鼓動と熱。濡れたシャツがぴったりと張り付き、まるで俺と律樹さんの境界線を溶かしていくようだ。

(……このまま溶け合って、一つになれれば良いのに)

 僅かに震える彼の腕にそっと自分の手を置く。すると律樹さんの腕がぴくりと小さく跳ねた。

「弓月……俺の、そばにいてよ」

 まるで泣いているようだと思った。懇願する声があまりにも悲痛で、俺は思わず彼の濡れた袖をぎゅうっと握りしめる。握り拳の隙間からぽとぽとと絞り出された水分が落ちていく。
 握った袖をぐっと引くと、僅かに俺を囲う腕が緩んだ。そのお陰で出来た小さな隙間を利用して後ろを振り返る。

「……っ」

 俺は多分駄目なやつだ。大好きな人にこんな顔をさせてばかりで、少しも笑わせてあげられない。いつも迷惑や心配をかけてばかりだし、愛の言葉だって自分の声で返すことが出来ない。

 目の前が歪む。瞬きをすると鮮明になるが、またすぐに歪んでしまう。

『ごめん』

 そんな想いをさせてごめん。
 声に出来ずとも口の形だけでそう伝えることはできる。けれど今はどうしても自分の声で、言葉で伝えたかった。

「……ぇ……っ」

 頑張って絞り出したそれは、俺たちを濡らし続ける水音に掻き消されてしまった。伝わらなかったこと、そのあまりの情けなさに息が詰まる。涙が溢れ、俺は唇を噛み締めた――瞬間。

「いま……こえ……」

 聞こえてきた呆然とした声に、自然と下がっていた視線を少し上げる。そこにあったのはさっきまで見ていた辛そうな表情ではなく、驚いたように目を見開いた彼の姿だった。

 
 
 
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