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第五章

百六話 嫌われたくない

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「……驚かせちゃったお詫び」
「っ……!」

 眉尻を下げながら穏やかに笑う律樹さんの顔がすぐ近くにあって、俺はその眩しさに思わずきゅっと目を瞑った。彼の手が当たっている背中と膝裏が熱い。……いやそこだけじゃなくて、全身が燃えるように熱かった。

(うあぁぁ……かっこいい…………すき……)

 そんな語彙力皆無な言葉を思いながら俺はすっと両手で顔を覆った。不思議なことにさっきまで抱いていた恐怖はもう一ミリもない。あるのはただの羞恥と動揺、そして歓喜だけだ。

 律樹さんの歩く動きに合わせて俺の身体が揺れる。両手を僅かにずらしてそっと律樹さんの顔を下から見上げると、ちょうどこちらに向けられたばかりの琥珀色とぱちりと目が合った。その瞬間、今までにないくらい心臓が大きく跳ね上がる。そして両手に覆われた口から思わず蚊の鳴くようなとても小さい「ひぇ……」という音がこぼれた。
 しかし無意識にこぼれた本当に微かなそれは、ピピッという機械音とガチャンという車の鍵が開く音によってかき消され、どうやら彼の耳には届かなかったようだ。それが残念だったのか、それとも良かったのかはわからないけれど、正直俺自身にそんなことを考える余裕はない。

「下ろすね」
「……」

 助手席側の扉が開かれ、その宣言通り座面に俺の身体をゆっくりと下ろしていく律樹さん。座面に俺の臀部が触れる。車の後ろ側からここまではほんの五歩ほどの距離なのだからすぐ終わってしまうのはわかっていたはずだった。けれど触れ合った体温があまりに温かくて、離れがたくて。俺は顔を俯かせ、気付けば律樹さんの胸元をきゅっと握っていた。

 ――離れないで。
 そう思う俺の思いとは裏腹に膝裏から熱が離れていく。次いで背中に触れた温もりさえも離れていき、俺は俯いたまま唇を引き結んだ。

「弓月」

 背中から離れた温もりは腕に沿うように上へと移動していき、やがて俺の頬に触れた。くっと力を入れられれば簡単に上がる顔。視界に入った彼の表情に思わず目を見開いた。

「そんな可愛いことされたら、俺だって……我慢できないんだからね」

 車内に上半身だけを入れた律樹さんの顔が近づき、唇が重なる。舌が入ってくることはないが、重なりは深い。頬に触れていた手はいつの間にか後頭部に回っており、より深くなるように優しく引き寄せられる。まるで時が止まったかのようだった。

「……ん」

 ゆっくりと唇が離れていく。律樹さんの栗色の髪が、琥珀色の瞳が車の後ろの窓から差し込む強い陽の光に照らされて、きらきらと光っていて、とても綺麗だった。

「……続きは、帰ってからね」
「……ッ!」

 ああ、心臓が煩い。最近は体調を慮ってかプレイすらもあまり出来ていなかったから、余計に意識してしまって体がすごく熱い。それどころかもう顔が熱くて熱くて仕方がなかった。

 律樹さんの身体が離れ、胸元を掴んでいたはずの俺の手がぱたりと落ちる。助手席側の扉が閉められ、運転席に律樹さんが乗り込んだ。それから家に帰るまでの間俺の心臓はずっとうるさかったし、身体の熱が引くことはなかった。



 帰宅してすぐ一緒にお風呂に入ろうと誘われたが、今日は別々に入りたいと伝えて断った。今一緒に入れば多分俺は触れたくて堪らなくなってしまう。
 
 夢のせいで少しだけ記憶が蘇ってから律樹さんに触れるのが怖かった。俺のSubとしての欲求が一気に解放されてしまいそうで、怖かったんだ。
 さっき触れられてキスをした時から体がおかしい。律樹さんの温もりや触れられる幸せを思い出してしまったせいで、きっと俺は歯止めが効かなくなってしまう。そうなれば律樹さんは戸惑うだろうし、俺のことをはしたない奴だって幻滅するかもしれない。そうならないようにするためには別々にお風呂に入った方がいいんだ。

 俯く直前、一瞬見えた律樹さんの顔が少し傷ついたようにも見えて、俺の胸がちくりと痛んだ。

「……ん、わかった」

 その声がいつもよりも少し低い気がして、俺はぱっと顔を上げ――目を見開いた。

「……っ」

 律樹さんの表情に息を呑む。泣きそうな笑みというのは、どうしてこうも胸にくるんだろう。きゅうぅ……と胸を締め付けつけられ、俺は無意識に胸を鷲掴んでいた。
 そんな表情をさせたかったわけじゃない。ただ俺は律樹さんに嫌われたくなくて、幻滅されたくなくて、ただその一心で言っただけだった。けれど俺のその行動はただ律樹さんを傷つけていただけだったらしい。

「……ぁ」

 小さく音がもれる。喉の震えはあるのに、はっきりとした声は出なかった。首が締め付けられるように苦しい。本当に締められているわけでもないのにこんなに苦しいのはどうしてなんだろう。

「じゃあ入ってくるから……上がったら、呼ぶね」

 そう言って律樹さんが脱衣所の扉を閉めた。俺と律樹さんの間に物理的な壁ができ、それが心の距離にも思えて俺はその場にぺたりと座り込んだ。

 ……わかってる、俺が悪いってことくらい。
 俺が、俺自身が自分の性を未だに受け入れられていないせいでこうなっているんだってことくらい、痛いほどわかってる。でも……だって、どうしろって言うんだよ。俺は律樹さんに嫌われたくない。こんな奴だったんだって幻滅されたくなかっただけなんだ。

 だっていやだろ?兄や両親、そしてシュンに痛めつけられて虐げられてなお、笑って求めていた奴なんて――。

 
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