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第五章

百五話 緊張と安心

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 夢の中で俺はいつも首を絞められていた。
 理由は様々だ。抵抗した時だったり、相手にとって不必要な言動をした時だったり、助けを乞うた時だったり――けれど全てにおいて共通していたのは『俺が声を出すこと』だった。
 初めはその繰り返しがトラウマになって、パブロフの犬のように声を出すことができなくなったんじゃないかと思った。今でも大半はそれが理由で声が出なくなったんじゃないかと思っている。
 ……でもなんとなく、何かが引っかかった。

「……ぁ」

 首輪に触れた後、控えめに主張する喉仏に指先を添えて空気を送り込む。喉を震わせるように意識しながら息を吐き出してみると、蚊の鳴く音の方がよっぽど大きいんじゃないかというくらい小さくてか細い音が聞こえてきた。一応ほんの微かだが喉が震えていた……ような気がする。それはもはや指先から伝わる鼓動と勘違いしているんじゃないかって錯覚するくらい、小さな小さな震えと音だった。

 俺が引っかかったのは、声を失くしたタイミングと声が出るようになったタイミングのズレだ。
 律樹さんに助けてもらった後、俺にはそれまでの記憶がほとんどない、もしくは覚えていたとしてもかなり曖昧だった。嫌なことや苦しくて痛いことをされていたことは覚えているけれど、具体的な内容や光景は思い出せない状態だったのだ。その状態での俺は声が出なかった。
 そしてここ最近、高校に入学してから卒業するまでの経ったひと月ふた月ほどの記憶が戻り、同時に喉と声に進展があった。なんとなくタイミングがずれている気がするんだ。もしかすると他にも要因がいくつかあったのかもしれない。
 
 そんなことを考えていると、不意に遠くの方から足音が聞こえてきた。カツン、カツンと明らかに運動靴やスニーカーの靴底がコンクリートの地面を蹴る音がする。立体駐車場の中で大きく反響する足音に俺の身体はびくりと跳ねた。そしてそのまま体が硬直したように動かなくなる。

「……っ」

 今日の律樹さんの靴は確か黒のスニーカーだったはずだ。だからこの足音は彼のものではない。けれどここは大きな病院の駐車場だ。俺たちのような患者さんも俺たち以外に沢山いるだろうし、入院している方への付き添いやお見舞いで来られている方も多いだろうから別におかしいことではないだろう。
 そうわかっているのにやっぱりどこか怖くて、俺は両手で頭を挟み込むように耳を塞いだ。特にこれといって俺が何かをされているわけではないのに、手や足がかたかたと震えて仕方がない。ぎゅっと目を瞑り、しゃがみ込んだ膝に顔を押し当てながら小さく縮こまっていた。

 ……これじゃあ律樹さんに助けてもらってすぐのあの頃と何も変わらない。俺も少しは成長したと思っていたのに、またあの頃に戻ったみたいだ。あまりの情けなさに涙が出そうになるが、そこは意地でぐっと耐えた。

「――弓月?」
「……ッ!」

 どのくらいそうしていただろうか。
 不意に肩を叩かれて俺はビクンッと大袈裟なほどに大きく身体を跳ねさせ、そのまま体勢を崩して地面にぺたりと座り込んだ。ぽかんと上を見上げると、目の端から何かがこぼれていく。

「ご、ごめん……驚かせるつもりはなかったんだけど……」
「っ……!」
「ゆっ、弓月……?」

 俺は差し出された大きな手にそっと自分の手を重ねた後、座り込んでしまった俺に視線を合わせるようにしゃがみ込んだ律樹さんの胸にぽすんともたれ掛かった。
 さっきまで少し怖いとか思ってしまってごめんなさいと心の中で謝りながら、ぎゅっと彼の胸元を握り込む。何度か律樹さんの胸元に額を擦り付けながらゆっくりと深呼吸をすると、大好きな匂いが俺を満たしていった。

 ようやく落ち着いてきた頃、ふと我に返った。
 今までもこうして抱きついたり甘えたりすることは多かったのに、今更ながらに急に恥ずかしくなってきた俺は、彼の胸元からそっと手を離した。顔が熱くて、あげられない。今までどんな顔や反応をしていたっけと考えるが、うまく思い出せなかった。

「……落ち着いた?」

 俯いたままこくりと頷くと、頭にぽすんと温もりが降ってきた。俺の頭を包み込むように置かれたそれは、俺の大好きな大きくて骨張った手だ。赤くなる頬にますます下がっていく頭。

「急に声をかけてごめんね」

 律樹さんは謝ることなんてないと俯いたままふるふると頭を横に振る。ただ俺が一人で聞こえてきた足音に緊張して、一人で驚いただけだ。誰も悪くない。

「じゃあ……帰ろっか」

 待たせてごめんねとまた謝る律樹さんに、俺もまた首を横に振った。そんな俺の下がった視線に大きな手のひらが映る。僅かに戸惑ったのち、俺はその手にそっと自分の手を重ねた。

「ん……?」
「……?」

 重ねた手にお互いに力を入れて立ちあがろうとするが、立ち上がることができない。立ち上がった律樹さんが俺の顔を覗き込みながら大丈夫かと聞いてきたので、あははと誤魔化すように笑う。

 いやいや……え?と俺は首を傾げた。もう一度立とうと試みるが、お尻が僅かに浮いたかと思えば足に力が入らずに再びぺたりと座り込んでしまう。自分の身に何が起こったのかよくわからずに自分の足を呆然と見下ろすと同時に、ふわりと優しい香りが鼻腔をくすぐった。

「――よっ、と」

 脇に差し込まれた大きな手に力が入り、俺の身体がふわりと浮き上がる。驚いて顔を上げた先、陽の光でキラキラと輝く栗色が揺れていた。

 
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