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第五章

百一話 胡蝶の夢 中編③(律樹視点)

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 慶士が泊まりにきた日を境に、弓月が魘される回数が減った。それはきっと喜ぶべきことなのだろうが、どうしてか不安が募っていく。

 弓月が魘されなくなってあの日から、まるで代わりとでもいうように弓月の睡眠時間は見るからに増えていった。俺の見た限りでは、今までも別に寝不足だったわけではないと思う。試験対策の追い込み中は睡眠時間が足りていなかっただろうが、それももう終わって数日が経つ。睡眠不足を補うにしてはもう十分なはずなのに、まるでまだ足りていないとでもいうように最近の彼は一日のほとんどを寝て過ごしていた。

「仕事、いってくるね……弓月」

 今日も眠る弓月をおいて俺は仕事に行く。布団から覗く首元には俺があげた黒の首輪カラーが着けられていて、俺はそっとそれに触れた。弓月の体温で温まったのか、固いそれからほんの少し熱を感じる。そのまま手を頬、目元へと移動させていき、彼の額に掛かる前髪を手のひらで優しく掻き上げた。
 相変わらず白くてまろい額は綺麗で愛おしいが、手のひらに当たる僅かな凹凸に無意識に眉がぴくりと動いた。きっとこの痕のことをいつか話さないといけない時が来るんだろう。けれももしその時が訪れた時、俺はちゃんと弓月に話すことが出来るんだろうか。
 
 俺はきゅっと強く目を閉じる。それは知りたいと言われてから考えれば良いことだと自分に言い聞かせながら、静かに深呼吸をした。
 目を開き、無防備な弓月の額へと軽く口付けをする。ちゅ、という音すらも鳴らないほどに軽く触れるだけのそれに反応が返ってくるはずもなく、俺はそっと滑らかな肌から唇を離した。

「……いってきます」

 本当は弓月の隣にいたいのに、社会人というのはままならないものだなと思う。けれど弓月と一緒にいるためには俺が稼がなくてはいけない。俺は名残惜しさを感じつつも、愛しい温もりから離れて部屋を出た。



 仕事はいつも通りだった。違ったことといえば、ある生徒から話しかけられたことくらいだろうか。

「瀬名先生」

 彼は刈谷壱弦――弓月の友人であり、最近は慶士とよく一緒にいる生徒だ。たまに話しかけられることはあったが、それも保健室で俺と慶士が一緒にいる時が多かった。しかし今は俺一人、珍しいこともあるもんだなと俺は首を傾げながら返事をした。

 刈谷はそわそわとしながら俺の方へと近付いてくる。きょろきょろと周りを確認するような瞳の動きに、もしかして人がいると話しづらいことなのかと悟った俺は、刈谷を数学準備室へと誘った。俺の推測は合っていたらしい。今は誰もいないだろうからと言えば、こくりと頷きが返ってきた。そのまま俺たちは踵を返し、数学準備室へと向かった。
 
 それにしても刈谷が俺に相談とはなんだろうか。受験に関することであればまだまだひよっこの俺なんかよりも担任の教師に相談するだろうし、他のことで相談したいというのなら仲の良い慶士に相談するだろう。俺に相談するということは、もしかして弓月のことだろうか。

 数学準備室にはやはり誰もいなかった。鍵を開け、電気をつけて刈谷を中へと招く。奥にあるソファーに腰掛けるように促せば、刈谷は素直にそれに従った。

「コーヒー飲むか?」
「あ、はい」
「カフェオレとブラック、どっちがいい?」
「え、あ……じゃあ、カフェオレで」

 自分の机の引き出しからスティック二つと断熱性能のある紙コップを二つ取り出した。スティックは刈谷用のカフェオレと自分用のブラックだ。取り出した物を手に部屋の隅にある簡易の給湯スペースの前に移動し、ケトルに水を入れてスイッチを押した。
 パチンッという音と共に湧き上がったお湯を、スティックの中身を入れた二つの紙コップに注いでいく。常備されている使い捨てのマドラーでそれぞれをかき混ぜると、ふわりとコーヒーの苦くて少し酸味のある香りが鼻腔を掠めた。

「ほら」
「あ、ありがとうございます……」
「熱いから気をつけろよ」
「えっ、あ、はい」

 中身の入った二つの紙コップを手にソファーに戻ると、驚いた表情の刈谷と目があった。カフェオレを手渡し、刈谷が座っているソファーの向かいのソファーに腰を下ろして、コーヒーを一口飲んだ。いつも通りの味わいにほっと息を吐くと同時に、俺は目の前でカフェオレをちびちびと飲んでいる刈谷に声をかけた。

「お前が俺に話なんて珍しいな」

 弓月のことかと聞けば、刈谷はほんの僅かに視線を彷徨わせた後、控えめにこくりと頷いた。まあこいつが俺に話という時点でそれしかないよなぁ、と思いつつ、手に持ったコーヒーをまた一口飲む。

「その……瀬名先生、は……弓月のこと、どう思ってるんですか?」
「……」

 そんなの好きだ、愛してるに決まってる。けれどそれを今刈谷に言ってもいいのかどうかがわからず、俺は「大事に思ってる」とだけ言った。するとそれをどう解釈したのか、刈谷は大きく息を吐き出した。

「……俺、ずっと弓月のことが好きだったんです。中学の頃から、ずっと……」

 知ってる、と心の中で呟いた。

「親友、だったから……今の関係を壊したくなくて……俺はずっと思いを告げられませんでした」

 俺も、初めはそうだった。俺も刈谷も、そして弓月も男だ。男同士だから仲良くなれたというのは大きいだろうが、それ以上に男同士だからこそその先に進むのにはかなりの勇気がいる。それこそ思いを告げれば最後、関係を壊してしまうかもしれないから。

「でも……弓月がいなくなった時、俺はすごく後悔したんです。……拒否されてもいいから、言えばよかった……って」
「……」
「自己満足だってことは、わかってます……けれど、ずっと後悔してた。もう会えないんだって、思ってた。……でも、また弓月に会えた。……先生が助けてくれた、って」
「……そうか」

 カフェオレを持つ手が微かに震えている。下を向いている所為で表情はわからないが、なんとなく泣いているような気がした。けれど俺は何も言わず、ただ俯く刈谷を見つめるだけだった。

「先生は……弓月が、好きですか?」

 ゆっくりと顔を上げた刈谷が俺を真っ直ぐに見つめながらそう言った。


 
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