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第五章
百話 胡蝶の夢 中編②
しおりを挟む「やっと起きた。調子はどう?」
「……!」
そんな声が耳のすぐ近くから聞こえ、俺は目を瞬かせた。起き上がってきょろきょろと辺りを見回してみるとそこは見慣れた律樹さんの家の居間で、俺はソファーの上にいた。
声の聞こえた方へと視線を向けると、穏やかな笑みを浮かべながら俺を見上げる律樹さんと目が合った。どうやら彼は俺が寝ている間、腕を枕にしながらソファーに寄りかかるような体勢で俺のことを見ていたようだ。俺の寝顔なんか見ても面白くなかっただろうに、けれど彼はとても楽しそうに笑っている。
「ふふっ」
「……?」
起き上がったことで高い位置に移動した俺を見上げる律樹さんの目がすっと細くなる。同時に手が俺の頬へと伸びてきて、袖口が肌に軽く擦れた。突然の触られたことに驚いて肩がぴくりと小さく跳ねたが、彼はそれに構わず俺の口元を自身の袖口でごしごしと擦っている。
「涎、ついてた」
「……っ‼︎」
今の行動が零れた涎を拭い取るためだったのだと理解した瞬間、顔も体もぼんっと音を立てて一気に熱を帯びた。言ってくれれば自分で拭くから大丈夫だと伝えるために、俺は慌てて律樹さんの腕を軽く掴んで首を横に振った。
恐らくもう拭われた後だろうから意味がないのはわかっているけど、それでもなんとなく恥ずかしくて自分の袖口で口元を拭い直す。その様子にぽかんとしていた律樹さんが、俺と目があった瞬間にふっと目元を和らげた。
「顔、真っ赤だね」
それはそうだろう、ただでさえ涎を垂らしている姿を恋人である律樹さんに見られて恥ずかしいというのに、さらにその涎を拭われたのだ。羞恥で顔が赤くならないはずがない。多分律樹さんもそんなことはわかっているだろうに、「弓月は可愛いなぁ」なんて言いながら楽しそうに笑っていた。
「弓月」
律樹さんの低くて優しい声が呼ぶ。恥ずかしさに逸らしていた視線を動かして律樹さんの方をちらりと見ると、ちょうどソファーに寄りかかっていた上体を起こしているところだった。
ほんの少し近づいた顔の距離。相変わらず綺麗で整った顔をしているなぁ、なんてぼんやりと思っていると、不意に彼の手が俺の頬に触れた。さっき口元を拭った方の手のひらだ。もう片方の手も同様に俺の頬を挟むように触れる。
「ゆづき」
律樹さんの手にほんの少し力が入ったのがわかった。挟まれた頬が引き寄せられる。息がかかるほどに近づいた律樹さんの顔が僅かに傾き、綺麗な琥珀色の瞳が瞼の下に隠れた。
唇が重なる。もう何度も経験しているはずなのに、触れる瞬間はいつもドキドキとしてしまう。軽く重ねるだけじゃ足りなくて、俺は律樹さんの服を掴んでグッと引き寄せた。
「!」
琥珀色の瞳が驚いたように見開かれる。その反応が嬉しくて、俺は律樹さんの唇の隙間から自分の舌を入れた。ぎこちない動きながらも必死に彼の舌を絡め取ろうと動かしていたはずなのに、いつの間にか俺の舌は律樹さんの舌によって逆に絡め取られていた。
「……っ」
くちゅ、くちゅと水音が立つ。頬を挟んでいた手は後頭部と腰へと移動し、俺たちはいつの間にか抱き合うような体勢で互いの唇を貪っていた。引き寄せるために胸元を掴んでいた手は、今はもう縋っているようにしか見えない。口の中に溜まっていた唾液が喉の方へと流れ、俺は反射的に喉を上下に動かした。こくりと音を立てて喉の奥へと押しやられていく。
それが合図になったのかどうかはわからない。けれど俺の喉が音を立ててすぐに唇が離れていった。ゆっくりと、糸を引きながら。
お腹の辺りが疼いて仕方がない。早く続きがしたくて律樹さんを見上げた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
ほんの少しの絶望が黒のインクを落としたように俺の胸に落ちた。一滴の黒いインクが靄のように広がって透明な水にほんの少しだけ色をつけていくように、俺の中で絶望が広がっていく。
瞬きを一つすると同時に、目の前の光景が白へと変化した。白色の天井があざ笑うかのように俺を見下ろしている。さっきまでソファーに座っていた身体は、今はベッドに寝転んでいた。
隣に律樹さんはいない。頭をゆっくりと動かしてみても、俺の視界に彼が映ることはなかった。
「……夢だったんなら……せめて最後までさせてよ」
キスだけじゃなくて、その先もさせてくれたら良かったのに。夢でも良いから律樹さんと繋がりたかったのに、それすらも俺の夢は叶えてはくれないらしい。
起き上がる気力もなくて、俺はベッドに寝転んだままぼんやりと天井を見上げた。律樹さんの家は元々彼の父方の祖父母が住んでいたということもあって、今時の二階建ての家ではなくて昔ながらの木造平屋だ。だからこんなふうに白の壁紙を貼っている部屋なんてない。
何度瞬きをしても、俺の目の前にあるのは白く凹凸の少ない壁紙だけ。あの温かみのある木を見ることは出来なかった。
「りつき……さん……」
夢の中で言えたって仕方がないのに、呟かずにはいられなかった。もしもさっきまで見ていたものが本当に夢だったのなら、せめて声が出るようにしてくれれば良かったのに。そうすれば夢の中でも律樹さんを呼べたのに。
律樹さん、ともう一度声に出すと胸がきゅっと締め付けられるように痛んだ。
「りつ、きさ……あい、たい……っ」
――早く夢から覚めて、現実のあなたに会いたい。
……どれが夢で現実なのだろう。
視界が歪む。目の上に腕を乗せて瞼を閉じると、目の端から雫が一筋溢れた。
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