上 下
128 / 199
第五章

九十九話 胡蝶の夢 中編①

しおりを挟む

 いつの間にかまた眠っていたのか、重い瞼を押し上げると俺の隣にはすやすやと眠る律樹さんがいた。

 まだ夢を見ているのか、それともこれが現実なのか。境界線が曖昧になっているような、そんなぼんやりとした意識だった。
 身体が重くて怠い。ふわふわと揺蕩うような意識と鉛のように重い身体のちぐはぐさが気持ち悪かった。まるで初めてこの体を動かすような奇妙な感覚だ。

 重い腕を引き摺りながら頭の近くへと移動させる。たったそれだけでもかなりの体力を要した。身体ってこんなに重かったっけと思わず苦笑がこぼれる。
 俺は腕を伸ばし、穏やかな表情で眠る律樹さんの頬にそっと触れた。本当に綺麗な顔だと思う。俺なんかよりもずっと健康的で滑らかな肌、その容姿はまるで物語に出てくる王子様のようだ。きっと引く手数多だろうなぁ……そう思うとほんの少し胸がちくりと痛んだ気がした。

『りつきさん』

 もし俺が高ランクのSubじゃなかったら、兄やシュン、そして家族からも大事にしてもらえただろうか。声を失うこともなく、みんなと普通に過ごせていただろうか。でもきっと大事にされてしまっていたら律樹さんとは会えなかっただろう。そうなれば俺は今のように律樹さんとこうしてパートナーになることも、恋人になることも出来なかっただろなと思った。
 高ランクのSubだったから声を失い、代わりに律樹さんに出会って想いを通わせることが出来たのだから。

 これだけ聞けば、本当に人魚姫みたいだなと思う。
 声を失う代わりに今こうして律樹さんと過ごせている。でも好きな人に声をかけたり、名前を呼んだり、自分の声で言葉で想いを伝えられないのは時折酷く苦しい。

 傷ひとつない頬の上を、俺の痩せて骨張った指先がするりと滑っていく。温かで優しい温もりが指先に伝わる。熱がじんわりと俺の身体も心も溶かしていくようだった。

「ん……ゆづ、き……」

 これは多分現実、だと思う。現実であってくれと思う。身じろぎをした律樹さんの腕が俺の背中にまわり、全身が温もりに包まれた。
 こうして抱き締められるのも何度目だろう。出会ってから今までたくさん抱き締めてくれた。この温もりにずっと抱かれていたいと思うのに、俺の中で「駄目だよ」と泣きそうな声がする。いっぱい耐えて頑張ったんだからこれくらい許してよと心の中で呟くが、それに対して返ってきたのはやはり「駄目だよ」だった。
 
 穏やかで安らかな温もりに包まれていると急速に睡魔が襲ってきた。抗おうにも抗いきれずに目を閉じた先、その景色は見慣れた黒の世界だった。
 やっぱりさっきまでの光景は現実だったのかとため息を吐くと同時に足元が崩れ、身体がふわりと浮いた。そのままゆっくりと下へと落ちていく。より深く眠りへと落ちていくように、俺の身体は逆さまになりながら真っ黒な中をずっと進んでいった。
 
 いつの間にか閉じていた目を開くと、そこは見慣れた家の中だった。見慣れたと言っても、律樹さんの家ではない。

「なんで……」

 消え入りそうなほどに小さな声は、誰もいない廊下に虚しく響く。玄関の土間部分に突っ立ったまま、俺は呆然と辺りを見回した。

 ここは坂薙の家――俺があの家族と住んでいた家だ。ここを出てから半年も経っていないにも関わらず、もうずっと長い間離れていたような気さえする。……まあそれもそうか、俺はずっとあの部屋にいたんだから。

「おかえりなさい」

 ガチャリと音がして、リビングにつながる扉が開いた。フローリングの上をスリッパで擦るような足音を響かせながら現れたのは、母だった。律樹さんのお母さんである律子さんが言っていた通り、確かに俺とよく似ていた。
 そういえば母は少し変わっていだことを思い出した。夏でも冬でもずっと首元がすっぽりと覆われているような薄手の長袖を着ていたのだ。暑くないのかなぁ、なんて思いはしたけれど、聞くことはなかったので理由は知らない。

「……ただ、いま」

 声を出すと傷を負っているらしい箇所がじくじくと痛んだ。どうやら今日も学校で兄たちにやられたらしい。母に気づかれないようにそっと視線を落とし、俺はぎゅっと通学鞄を持つ手に力を入れた。

「早く上がりなさい」
「……うん、ごめん」

 促されるがままに靴を脱ぎ、玄関の上り框に足を掛ける。母はもう俺に興味を無くしたのか、リビングへと戻っていくのが視界の端に見えた。その瞬間、ほっと息がこぼれる。どうやら俺は緊張していたらしい。今更ながらに手が震え始めた。
 今家にいるのは俺と母だけのようだ。そのことにほんの少しだけほっとしつつ、俺は手洗いを済ませて二階の自室へと向かった。

 自分の部屋に入るのもいつぶりだろうか。備え付けのクローゼットの他に机とベッドと本棚が置いてあるだけの簡素な部屋。年頃の男子高校生の部屋とはおよそ思えない程にそこは殺風景だった。

「……俺の、部屋」

 足を踏み入れ、扉を閉じる。持っていた鞄を机の上に置いてベッドに仰向けに倒れ込むと、律樹さんの家とは違う真っ白な天井が見えた。

 そういえば壱弦から貰った金色の鈴がこの家にあるんだったか。ふとそう思った俺はベッドから起き上がり、机の引き出しを開けた。多分俺が大事なものを隠すとしたらこの引き出しの奥だ。今俺が住んでいる律樹さんの家でも、大事なものは全て机の引き出しに入れている。だからこの家でもそうだろうと思って開けてみると、案の定そこに金色の鈴はあった。

「あった……」

 壱弦に見せてもらった鈴よりもずっと綺麗で、傷ひとつない金色の鈴がそこにはあった。手に取ると、チリン……と澄んだ音が室内に響き渡る。これが俺の――そう思いながらそっと両手で包み込んだ。手が震えている。やっぱり家にあったんだと頬が緩んだ。

 目が覚めたら律樹さんにこの夢の話をしよう。それで、もしできるのならあの家に行ってこの鈴を迎えに行きたいとお願いしてみようか。大事な友達から貰った大事なものをいつまでもあんな場所に置いておくのは嫌だから。

 ふと視線が本棚の上に移る。数冊の本が置かれているだけで殆ど空のその上には、一枚の写真が立て掛けてあった。手に取ると同時に積もっていた埃が舞い、くしゃみが出る。むずむずとする鼻をティッシュで軽く拭き、ついでに新しいティッシュで写真立てに積もった埃を拭った。

「これ……」

 写っていたのは幼い頃の俺、そして兄ではない男の子だった。この男の子は俺よりも少し上のようで、泣きながら笑っている俺を抱っこしながら幸せそうに笑っている。その笑顔にどこか見覚えがある気がしたが、頭に霞がかったようにうまく思い出せない。
 
 写真を手に、うーんと唸りながら考えていると、不意に下の階から大きな音が聞こえてきた。身体がびくりと跳ねる。それと同時にガンッと鈍い音が足元で鳴った。え、と思わず視線を動かすと、そこには今まで俺が手に持っていた写真立てが床に転がっていた。

「あ……」

 落ちた写真立てに手を伸ばす。あと少しで指先が触れるという時、俺は下の階の音や声が一切聞こえてこないことに気がついた。ぴくりと指先が止まる。背筋を嫌な汗が流れていく。

 ――トンッ、トンッ、トンッ……。

 階段を歩く音がする。次いで聞こえてくるのは母親の悲鳴。心臓が嫌な音を立てている。ドクンドクンと鼓動が大きくなり、音が歪んでいく。

 足音が止まり、代わりに部屋の扉がガチャリと音を立てた。ギギギと音が聞こえそうなほどゆっくりと顔を上げながら、俺の脳裏に浮かんだのはさっき写真で見た男の子と律樹さんの顔だった。

 
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

隠れSubは大好きなDomに跪きたい

みー
BL
⚠️Dom/Subユニバース 一部オリジナル表現があります。 ハイランクDom×ハイランクSub

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

悪役令息に転生して絶望していたら王国至宝のエルフ様にヨシヨシしてもらえるので、頑張って生きたいと思います!

梻メギ
BL
「あ…もう、駄目だ」プツリと糸が切れるように限界を迎え死に至ったブラック企業に勤める主人公は、目覚めると悪役令息になっていた。どのルートを辿っても断罪確定な悪役令息に生まれ変わったことに絶望した主人公は、頑張る意欲そして生きる気力を失い床に伏してしまう。そんな、人生の何もかもに絶望した主人公の元へ王国お抱えのエルフ様がやってきて───!? 【王国至宝のエルフ様×元社畜のお疲れ悪役令息】 ▼この作品と出会ってくださり、ありがとうございます!初投稿になります、どうか温かい目で見守っていただけますと幸いです。 ▼こちらの作品はムーンライトノベルズ様にも投稿しております。 ▼毎日18時投稿予定

【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集

あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。 こちらの短編集は 絶対支配な攻めが、 快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす 1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。 不定期更新ですが、 1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 書きかけの長編が止まってますが、 短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。 よろしくお願いします!

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

【完結】別れ……ますよね?

325号室の住人
BL
☆全3話、完結済 僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。 ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。

愛され末っ子

西条ネア
BL
本サイトでの感想欄は感想のみでお願いします。全ての感想に返答します。 リクエストはTwitter(@NeaSaijou)にて受付中です。また、小説のストーリーに関するアンケートもTwitterにて行います。 (お知らせは本編で行います。) ******** 上園琉架(うえぞの るか)四男 理斗の双子の弟 虚弱 前髪は後々左に流し始めます。髪の毛の色はご想像にお任せします。深い赤みたいなのアースアイ 後々髪の毛を肩口くらいまで伸ばしてゆるく結びます。アレルギー多め。その他の設定は各話で出てきます! 上園理斗(うえぞの りと)三男 琉架の双子の兄 琉架が心配 琉架第一&大好き 前髪は後々右に流します。髪の毛の色はご想像にお任せします。深い緑みたいなアースアイ 髪型はずっと短いままです。 琉架の元気もお母さんのお腹の中で取っちゃった、、、 上園静矢 (うえぞの せいや)長男 普通にサラッとイケメン。なんでもできちゃうマン。でも弟(特に琉架)絡むと残念。弟達溺愛。深い青色の瞳。髪の毛の色はご想像にお任せします。 上園竜葵(うえぞの りゅうき)次男 ツンデレみたいな、考えと行動が一致しないマン。でも弟達大好きで奮闘して玉砕する。弟達傷つけられたら、、、 深い青色の瞳。兄貴(静矢)と一個差 ケンカ強い でも勉強できる。料理は壊滅的 上園理玖斗(うえぞの りくと)父 息子達大好き 藍羅(あいら・妻)も愛してる 家族傷つけるやつ許さんマジ 琉架の身体が弱すぎて心配 深い緑の瞳。普通にイケメン 上園藍羅(うえぞの あいら) 母 子供達、夫大好き 母は強し、の具現化版 美人さん 息子達(特に琉架)傷つけるやつ許さんマジ。 てか普通に上園家の皆さんは顔面偏差値馬鹿高いです。 (特に琉架)の部分は家族の中で順列ができているわけではなく、特に琉架になる場面が多いという意味です。 琉架の従者 遼(はる)琉架の10歳上 理斗の従者 蘭(らん)理斗の10歳上 その他の従者は後々出します。 虚弱体質な末っ子・琉架が家族からの寵愛、溺愛を受ける物語です。 前半、BL要素少なめです。 この作品は作者の前作と違い毎日更新(予定)です。 できないな、と悟ったらこの文は消します。 ※琉架はある一定の時期から体の成長(精神も若干)がなくなる設定です。詳しくはその時に補足します。 皆様にとって最高の作品になりますように。 ※作者の近況状況欄は要チェックです! 西条ネア

処理中です...