声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第五章

九十八話 胡蝶の夢 前編

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 次に俺が目を覚ましたのは翌日のお昼頃だった。
 保科さんは俺のことを心配してもう一日泊まっていたそうだが、俺が起きる少し前に帰ってしまったらしい。心配をかけてしまったことに対してごめんなさいと謝りたかったなと言えば、今度会った時に言えば良いよと律樹さんは笑って言った。

 首元に手をやると、安心する固くて冷たい感触の他に布のようなものが撒かれていることに気がついた。それが包帯だと知ったのは、起き上がって洗面台の前に立って鏡を見た時だ。
 黒の首輪カラーの下にぐるぐると巻かれた白い包帯にそっと指先を沿わせる。首輪とは違うざらざらとした感触と僅かに香る消毒の匂いに夢の中のことを思い出して、俺は無意識にぐっと力を入れていた。気道が圧迫される息苦しさに、まだ夢の中にいるのだと錯覚しそうになる。

「……」

 鏡に向かって口を開けて、息を吐き出す。本当は声が出るかなぁ、なんて期待を込めてした行動だったが、ただただ息が漏れる音が聞こえてきただけだった。夢の中では話せていたし、いけると思ったんだけどなぁ……。

 律樹さんは今俺のためにお昼ご飯を作ってくれている。今までならただ幸せな気持ちを抱くだけでいられたのに、ほんの少しではあるけれど記憶を取り戻した今はどうしようもなく苦しく感じてしまう。
 律樹さんのことは大好きだし、愛している。それは変わらないし、これから変えるつもりも変わるつもりもない。ただ一人律樹さんのことだけを好きでいるつもりだ。……なのに、俺の中で何かが呪いの言葉を吐き続けている。高ランクのSubであるお前なんかが愛されるわけないだろ、って。

(でも……律樹さんは俺を好きって言ってくれた。ずっと一緒にいようって約束もしてくれたし、この首輪カラーだってくれた)

 洗面台の縁に置いていた手をぎゅっと握りしめる。白くなるくらいに握り込んだ手は小さく震えていたが、俺はそれを見ないように目を閉じた。片方の手を洗面台から離し、そっと首元に触れる。ひんやりとした固い感触が指先に触れ、俺はほうと息を吐き出した。

 文化祭が高校時代を思い出す前で良かったと思う。もし俺の短い高校生活を思い出した後だったなら、きっと俺は文化祭には行けなかっただろう。あらゆるところであらゆる場面を思い出すだろうから。そうなれば一緒に行ってくれた六花さんや壱弦、それに保科さんや律樹さんにもっとたくさん迷惑をかけていただろうから本当に良かったと思った。

(ああ……でも、夢の中に出てきた『トウヤくん』にもし会えたなら謝りたかったかも)

 不可抗力とはいえ、酷い暴行を受けている瞬間や身体中のあざを見せてしまったことに対して謝罪したかったとは思う。怖がらせてごめんなさい、気持ち悪いものを見せてしまってごめんなさいって。

 顔を上げると、記憶の中にある俺よりも少し成長した顔が鏡に映っていた。それを見ているとなんだか不思議な気分になる。何度も何度も同じ期間を繰り返していたせいで、高校生だった頃の記憶がまるで昨日のように思えてしまうのだ。だから今目の前に映る成長した自分の姿は違和感しかなかった。
 記憶が混ざる。何度も何度も見た夢の中の現実と今まさに俺が生きている現実がぐるぐるとかき混ぜるように混ざり合って、奇妙な思いだった。そう感じた瞬間喉の奥が引き攣り、気づけば俺は洗面台に向かって嘔吐していた。

「弓月……っ!」

 ぐらぐらと世界が揺れる。……いや、俺が揺れているのか。そう思った時には既に足元はふらつき、身体が傾いでいた。

「っ……大丈夫?!」

 律樹さんの焦ったような大きな声が耳を打つ。倒れる直前、咄嗟に瞑っていた目を開いて顔を上げると、心配気に揺れる愛しい琥珀色の瞳と視線がかち合った。
 びっくりして目をぱちくりと瞬かせていると、真剣な目をした律樹さんが俺の身体を手のひらで満遍なく触り始めた。どうやら俺に怪我がないかどうかを調べているらしい。服の上からでもわかるその温もりにいつもなら胸を高鳴らすところなのだが、今はどうしてか足の先から恐怖が一気に湧き上がった。

「……っ」
「ゆづき……?」

 喉から引き攣ったような音が漏れ、気づけば俺は律樹さんの腕から逃げるように腕を伸ばしていた。……元々おかしかった俺の目も頭も、ついに本格的にぶっ壊れてしまったのかもしれない。目の前にいるのは確かに律樹さんのはずなのに、俺の身体は兄とシュンに感じていた恐怖と同じものを抱いている。さっきまで律樹さんだと認識していた目は、今はもう兄やシュンに見えて仕方がない。

 どこからが夢で、記憶で、現実なのかがわからない。繰り返し見たあの日々は過去の夢か、それとも現実か。

 勝手に震え出す体を抱きしめながら俺はきゅっと目を閉じた。耳に届くのは慌てているような律樹さんの低い声。なのに徐々にその声が歪みを帯びていき、ここ数日ですっかり聴き慣れてしまった律樹さんよりも少し高い声に変わっていく。

「――……ぁ」

 やだ、いやだ、律樹さんを返してと涙が溢れる。体に触れる体温は相変わらず優しいのに、俺はどうしてか恐怖を抱いていた。


 
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