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第五章

九十七話 記憶の欠片

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 何度も見ては忘れていた夢を、今度は忘れることが出来なかった。あの苦しみも、どうしようもない辛さも、断片的にではあったけれど今の俺の頭には残っている。
 忘れていられるなら忘れていたかった過去の断片。粉々に砕けた記憶の欠片のほんの一部でしかないが、それでも俺の中にはしっかりと刻まれてしまった。

 

 高校に入学してすぐの頃から始まった兄と兄の親友であるシュンからの暴力。初めのうちは抵抗もしていたが、それもある時から完全になくなってしまった。
 兄とシュンが地面に横たわる俺を見下ろしながら楽しそうに笑っている。この頃はまだ俺がSubだと俺自身すらも知らなかったにも関わらず、兄とシュンは俺がSubだと言っていた。

「俺は……Subじゃ、ない」
「いや、お前はSubだ」

 なんで、なんて言っても決して答えてくれなかった二人が答えたのはいつだっただろうか。
 シュン曰く、匂いがするそうだ。甘くて芳醇な香りだとかそんなことを言っていたが、その時の俺は頭を打っていたせいで意識が朦朧としていてよく覚えていない。

「欲求不満なSubからは匂いがするんだよ。低ランクのSubはそもそもの欲求も低いから匂いが出ることはほとんどないらしいが……弓月、お前からは出てる」

 俺を見下ろしながら淡々とそう告げるシュンに、俺は朦朧とする意識の中で彼に視線を移した。多分何か良いことがあったんだろう、いつもなら兄よりも口数が少ないシュンがこの時ばかりは饒舌だった。

「お前から甘い匂いがすんだよ。俺は……高ランクのDomだからわかるんだといえばそうなんだろうが、少なくとも今俺たちにこうされているお前から匂いが出ている時点で、お前が高ランクのSubだってことは確定だ」

 その言葉を聞いて初めに思ったのは、いやだなぁ、だった。
 Subだってことはこういうことをされて悦ぶ性だってことだ。事実なんて知らないけれど、少なくとも世間の認識ではそうなっている。Subにもいろんなタイプがあるらしいが、それでも少なからず暴力を受けて喜ぶSubがいるのは確かだ。
 人間は、自分とは違う人間や、自分の理解が及ばない人間のことを排除しようとする。Subと同様、Domも排除対象となっているところもあるだろうが、俺がいるここではどうしてかSubだけが偏見の目で見られていた。
 
 だからこそ俺は俺自身の第二性がSub――それも高ランクだなんて信じたくなかったんだ。

 夢の中で俺は兄に対して恐怖を抱いていたが、もう一つ抱いていた感情があった。それは、戸惑いだ。
 記憶が曖昧だった時は、ずっと兄の下僕として扱われていたのだと思っていたのだが、実際には俺に対しても優しい時期があったらしい。具体的な時期はわからないけれど、記憶の中の俺はどこか戸惑っているようだった。

「兄ちゃん……なんで……」

 暴力を受けている間、そう俺自身が呟くことが何度もあった。兄ちゃん――どうやら俺はそう呼んでいたらしい。
 
 夢の中で首を絞められている時も夢の中の俺は「なんで」「どうして」と思っていた。けれど同時に「やっぱり」という感情もあった。
 どれが本当でどれが間違いなのかなんて、全ての記憶がはっきりとしているわけではない俺にはわからない。ただ今の俺が記憶として知っているのは、高校生活が始まると同時に兄とその友人であるシュンからの暴力も始まったということだけだ。
 
 きっと本来ならばこんな被害は家族や先生に相談をするところなんだろうが、生憎俺にはそんなふうに相談できる相手がいなかった。家族は当事者の俺と兄を除いて二人。相談したところで、父親も母親も俺の味方にはならないことは初めからわかっていたからしなかった。相談していれば何か変わったかもと思わなくもないが、結局俺が兄に監禁されている間も助けてはくれなかったのだから結果は変わらなかったような気もする。
 
 では先生はというと、家族とあまり変わらなかった。先生に相談して初めに言われた言葉は「兄弟喧嘩は家でしろ」だった。つまりただの兄弟喧嘩として処理されたのだ。
 外面だけは良かった兄が一言「兄弟喧嘩です。弟と喧嘩しました」と言えば、程々にしておけよと苦笑いされるだけで終わった。この時、薄々は気づいていたが信じたくなかった現実が見えた気がした。誰も俺のことなんて見てなんかいないんだなって。

(せめて兄弟喧嘩で首を絞めるなんてやり過ぎだろうって気づいてくれたら……)

 そう考えもしたが、すぐに首を横に振った。
 首を絞められたなんて事実はきっと兄に隠される。当たっただけだとか、先に仕掛けたのは俺だとか、言い訳のような取り繕いの方がどうしてか優先されるんだ。
 そしてそれはダイナミクスの検査結果が出た後からさらにひどくなっていった。

「俺はDomで弟はSub。弟のSub性を受け入れて弟の望むようにプレイしているだけです」

 ……なんて、口から出まかせを言っていたっけ。
 世の中、Subがどれだけ訴えたところで聞いてなんてもらえない。世間に浸透しているSub性の特性が偏見に満ちているせいだった。学校側は生徒が第二性によって問題を起こすことを酷く嫌う傾向にあるようで、俺の訴えよりも兄の言い訳の方を信じた――いや、信じたかったんだろう。

 俺の心は確実に疲弊していた。服に隠れている場所は元の色がどんなだったかもわからないくらい、赤紫や青色を通り越して黒く変色している。それが動く度に鈍い痛みを発するものだから、俺は高校に入ってから一度も体育の授業を受けたことがない。

「弓月、次体育だから早く着替えに――」
「あっ……えっと……ごめん、今日も休むんだ」
「え?大丈夫なのか?風邪?」
「う、うん……そんな、ところ」

 壱弦に聞かれ、そう誤魔化すのも何度目だろう。嘘をつくことに対しての罪悪感がないわけじゃない。でも今の俺が更衣室で体操服に着替えようものならきっと悲鳴が上がるだろうし、俺を気持ち悪いと思う人も出てくるだろう。
 他の人はまだ百歩譲って良い……かもしれないが、壱弦たちから気持ち悪がられたり嫌われたら多分俺はもう立ち直れない。だから俺は壱弦をはじめとした友人たちに一言も相談することをしなかった。
 
 ……そういえばあれは誰だったんだろう。
 夢の中に俺と同じ一年の男子生徒が出てきたことがあった。

「ゆづき……?」

 呆然とした声に顔を上げると、兄の後ろに同じ一年の男子生徒が立っていた。なぜ同じ一年だとわかったのかというと、ネクタイの色が俺と同じ臙脂色だったからだ。
 桜の木に寄りかかるように座る俺の足に跨った兄は今俺の首を絞めている。夢の中の俺はその男子生徒を見て、愕然とした様子でぽつりと呟いた。

「とうや、くん……」

 ……ああ、もう、いいや。
 
 俺がその時に思ったのは、それだけだった。


 
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