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第五章

九十三話 夢であって欲しかった

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 どこを見ても真っ黒な世界――どうやらまた夢を見ているらしい。

 チリリンと透き通った綺麗な音が空間の中に響き渡り、俺は音を頼りに歩みを進めていく。相変わらず進んでいるのかもわからないような黒い空間だが、音が徐々に大きくなっているところをみるとどうやら進んでいるようだ。
 まるでこっちだよと誘うように鳴る鈴の音に導かれるように歩いていけば、真っ黒な空間の中に小さな金色の光が現れた。優しくて温かいその光を見ていると自然と安堵のような吐息が溢れる。

 はやる気持ちを押さえながらも駆け足でその光に近づいていくと、突然鈴が慌てたように激しく鳴り始めた。チリリン、チリリンと今までに聞いたことのないような鳴り方をする鈴に、俺の足がぴたりと止まる。すると鈴もぴたりと鳴り止んだ。
 俺はきょろきょろと辺りを見回して何もない事を確認した後、もう一度足を踏み出す。その瞬間鼓膜を突き刺すような鋭く鈴が鳴った。まるでこっちにくるなとでも言っているようだ。痛いほど強くなった音に思わず耳に手当て、目を強く瞑ってその場に蹲る。何が起こったのかなんてこの真っ黒な世界ではわからない。けれど確実にあの鈴は俺に何かを知らせようとしていた。

 キーンとした耳の痛みもなくなってきた頃、俺は耳から手を離して目を開いた。目の前にはまだ小さな金色の光がか弱く光っている。俺はその様子にほっと息をついた。

(なんだったんだ、今の……)

 俺はその場に立ち上がり、じっと光を見つめる。さっきまでキラキラと暖かだった光は、今はまるで怯えているかのように小さく光っていた。それに首を傾げながら手を伸ばした瞬間、光が消えた。
 ――いや、消えたというよりも黒い何かが覆い隠したように見えた。

「……っ?」

 心臓がばくばくと激しく音を立て始める。それはまるで危険だとでも言うかのようだ。

 黒い世界の中、視界の端で何かがゆらめくのが見えた。気のせいかとも思ったがどうやら気のせいではないらしい。最初は一つだったそれは徐々に数を増やしていく。
 そのうちの一つの影が俺の背後に回り、何が起こったのか理解できずに固まっていた俺の脇から何かを差し込んできた。それが腕だと気がついた時には既に影によって羽交締めにされ、身動きが取れなくなっていた。必死で腕や足を使って抵抗するが、他の二つの影によって腕を掴まれて座らされ、抵抗すらも出来なくなる。

「……っ」

 やめて、と言いたいのに喉は機能しない。
 俺は湧き上がる恐怖を抑え込むようにぎゅっと唇を噛み締めた。

「――お前が総一郎そういちろうの弟か」

 突然耳に届いたその声に、俺は目を見開いた。
 下げていた頭をゆっくりと上げていく。黒かったそれは徐々に色をつけていき、やがて完全な人の姿になった。

 どうして今まで忘れていたんだろう。
 目の前で歪んだ笑みを浮かべるこの人もまた、俺の人生を大きく変えた一人だというのに。

「弟が入ったとは聞いていたが……本当に似てないな」
「――だろ?俺は父親似でこいつは母親似だからな」

 ざり、ざりと小さな砂粒を踏み締める音と一緒に聞こえてきた声に喉が引き攣る。ぎぎぎ……と音を立てながら首を動かすと、俺のよく知る顔がそこにはあった。
 
 坂薙総一郎――俺の実兄であり、俺が知る限り一番最悪なDomだ。隣でにやにやと下卑た笑みを浮かべながら俺を見下ろしているのは、そんな最低な兄の親友だった人。……名前は知らない。本人も兄も一度も紹介なんてしていなかったから。でも兄がなんて呼んでいたのかは覚えている。

「シュン」

 ――そう、『シュン』だ。
 このシュンという男は兄と同い年であり、最悪なことに兄と同じDomだった。ランクが何だとかはわからないが、残念なことにそれなりに高いということだけはわかる。兄と同じか、あるいはその上か。

 シュンと呼ばれた男が腕を伸ばし、俺の頬と顎を力任せに掴んだ。力加減がされていない手は俺の肉に食い込み、思わず顔を顰める。無理矢理に上を向かされ、目と目があった瞬間、ぞくぞくとした感覚が全身を襲った。

 これは夢の筈だ。なのにどうしてこんなにも痛いのだろうか。夢の中では痛みなんて感じない筈だろ?なのになんで、掴まれた頬が、顎が痛いんだ……?

「俺を見ろ」

 聞きたくない。聞きたくないのに、どうしてか逆らえない。強いコマンドを使われた時のように身体の自由がきかず、俺の意思とは関係なく身体が動いていく。
 心臓がバクバクと激しく脈打っている。ここから逃げろと警鐘が鳴り響いている。
 
 でも……どこに?これが夢の中なら覚めて欲しいと思う。今すぐに覚めて、あの温もりに……温もり?温もりを感じたことなんて今までにあったっけ?
 頭が痛い。ガンガンと殴りつけられているかのような痛みに目を瞑りたかったが、目の前の人物の視線から逃れられない今、俺にはどうすることも叶わない。

「お前――Subだろ」
「……っ」

 俺の中の誰かが、嘘だと言っている。
 そんなはずはないと誰かが叫んでいる。
 俺は俺自身がSubであることを知っているのに、どういうわけかその誰かは俺はSubなんかじゃないと言っているのが聞こえてきた。その声が遠い昔によく聞いた自分の声に似ているような……そう思った時、俺はこの光景が自分の過去であることを唐突に思い出した。

 それは高校一年生の春、俺の人生が大きく変わった頃の記憶だった。
 

 
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