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第五章
九十話 新しい日々のための第一歩
しおりを挟む鳥の囀りに目を覚ました。もう朝か、と思いながら身体を起こそうとするが、お腹に回った律樹さんの腕にしっかりと囲われているため寝返りも打てない。背中から伝わる温もりと鼓動に、ああ幸せだなぁとしみじみと思う。
首元に手をやると、固くて冷たい感触が指先に触れた。その感触にほっと息が溢れる。
ふた月程前に二度目のプロポーズ――現行の法律では同性同士の結婚が出来ないので二人だけの約束のようなものだ――を受けた時に律樹さんから貰ったこの黒色の首輪は、今では俺の一番の宝物だ。
このひと月ほどで、朝起きてすぐにこの首輪に触れることが俺の大事なルーティーンになった。この首輪に触れることで律樹さんとのつながりを確認できるからか、ルーティーン化した辺りから俺の精神も本能的な欲求も安定しだしたような気がする。
季節はもうすぐ冬。
十一月に入ってから急に肌寒い日が増えてきた。
夏の頃とは違い、日の出は遅い。今ちょうど日の出の時間なのか、カーテンの僅かな隙間からは溢れる光がだんだんと強くなっている。
時計を見れば六時を少し過ぎたところだった。あと三十分ほどで起きないといけないというのに、布団と律樹さんのぬくもりから離れがたくてついまた布団に潜ってしまう。背中から伝わるぬくもりにほんの少し後ろに身体を擦り寄せれば、んん、という低い声が聞こえてきた。
起こしたかなと思ったが、すぐにまた寝息が聞こえてきたので、どうやら起きてはいないらしい。頭のすぐ後ろから聞こえてくる規則正しい呼吸に、ほっと息を吐き出した。
「……ん……ゆづき?」
暫く経った頃、背中に触れたぬくもりがもぞもぞと動き出した。起きたのかなと思っていると、寝起きの舌足らずで低い声が俺の名を呼んだ。おはよう、というかわりに腹部に回った律樹さんの腕を軽く二度とんとんと指先で叩くと、おはようと甘く蕩けるような声が返ってきた。
俺を囲っていた律樹さんの腕が緩み、俺はごろんと身体の向きを変える。目の前には寝ぼけ眼で俺を見つめながらふわりと笑む律樹さんの顔。いつもは綺麗で格好良い印象の彼だが、今は可愛く感じる。俺はくすりと笑い、おはようと口を動かした。
ここふた月ほどは大変だった。
まず一つ目は抑制剤が全く服用出来なくなってしまったことだ。これに関しては今まで以上にプレイを行うこと、そして貰った首輪をつけることである程度安定させることが出来てきた。
まあ、まだ不安定になることはあるけれど、ひと月経った今ではそれも少なくなったような気がする。相変わらず通院は続いているが、担当医の竹中先生も「今のままで様子を見ましょう」と言っていたので経過は良いのだろう。
二つ目は高等学校卒業程度認定試験――つまり高卒認定試験の受験だ。このふた月は死に物狂いで勉強に励み、ついに先日受験日を迎えた。
本当は来年の八月に受験する予定だった。けれどこの十一月の試験を受けてみることにした理由は、律樹さんの一声があったからである。
「中学校の範囲はほとんど出来ているし、一回挑戦してみたらどうかな?」
初めは戸惑っていた俺も、勉強を進めていくにつれてどんどんと解けていく問題たちにいつの間にかやる気になっていた。すらすらと解けていく問題に楽しくなり、気づけば締め切りぎりぎりだったが自分の意思で出願していた。
正直、そんな前向きな自分に俺自身が一番驚いていたと思う。俺と一緒に勉強をするために家に来ていた友人の壱弦に俺の中学時代の様子を聞いてみたところ、どうやら俺はかなり真面目だったらしい。試験の順位もそれなりに高かったようだ。ただ数学だけは苦手だったようで、数学だけは残念ながらどれだけ頑張っても順位はそこまで高くなかったらしいが。
「真面目で頑張り屋だったけど、要領は悪かったかもな」
そう言って笑った壱弦は何かを思い出したのか、俺を見ながらもどこか遠くを見つめるような目をしていた。
「数学だったら瀬名先生に教えてもらったらいいんじゃないか?先生の担当教科なんだから」
その言葉を聞いて、そういえばそうだったなと思い出した。その日から俺は平日は数学以外を、律樹さんの休みの日には数学の勉強に朝から晩まで励んだ。
正直、かなり頑張ったと思う。この一度で受かれば良いが、もし不合格だったらもう一度勉強をしなおして受け直すしかない。早く律樹さんの隣に立ちたい、その一心で俺は勉強を頑張った。
「今日はなるべく早く帰って来るから。何か食べたいものがあれば送っておいてね。慶士と一緒に買って帰るから」
スーツに身を包んだ律樹さんが俺の頭を撫でながらそう言う。どうして律樹さんの友人であり同僚である保科さんの名前が出たのかというと、今日の夜は俺たち二人と保科さんの三人でご飯を食べることになったからだ。なんでも俺の試験が終わったのでお疲れ様会をしようということになったらしい。
こくりと頷いて笑うと、おもむろに律樹さんの大きくて筋張った手が俺の頬に触れた。この次に起こることを俺は知っている。熱を帯びていく頬に知らないふりをしながら、少し高い位置にある綺麗な顔を見上げて目を瞑った。
律樹さんのくすりと小さな笑い声が聞こえてすぐ、ちゅっという小さな音と共に唇が重なる。それは貪るような深いものではなく、啄むような触れるだけの軽いものだった。
「いってきます」
最近恒例になりつつあるいってきますのキスだが、やっぱりまだ慣れない。やっぱり律樹さんに触れられると、もっと深く欲しいと思ってしまう。
名残惜しそうに離れていく律樹さんの唇や手に、俺も寂しくなる。けれどもうすぐ時間だ。
俺はぐっと込み上げてくるものを飲み込んだ。そしていってらっしゃいと口を動かしながらひらひらと手を振る。それを見た律樹さんは眩しそうに目を細めた後、もう一度、いってきますと呟いた。
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