上 下
115 / 199
第四章

八十七話 繰り返す日常

しおりを挟む

 前回とは違い、今回は洗面台の前で前髪を切るらしい。俺専用にと用意されている椅子に腰掛け、洗面台の鏡を見る。鏡に写っているのは、以前カットした時にも使用した下側の部分が受け皿のようにくるりと上がっているケープを身につけた自分の姿。なんだか面白い光景だなと思いながらくすくすと笑っていると、鋏を携えた律樹さんが鏡越しにどうしたのと首を傾げたのが見えて、俺は思わず「なんでもない」と口を動かした。

「本当に?……あ、こっち向いてくれるかな?」

 律樹さんに促されるがままに、鏡に向かっていた顔や体を真横に向ける。そして真正面に立つ律樹さんを見上げると、真剣な色を含んだ琥珀色の瞳と視線があった。真っ直ぐに俺を見つめる瞳が少し上の方を向く。前髪の長さを見ているのだと気づいたのは、律樹さんの指先が前髪を軽く掬い上げた時だった。
 律樹さんが俺の顔――正確には目に掛かっている前髪をじっと見つめている。想像以上の近さに、心臓が高鳴りっぱなしだ。
 何度もキスをしているというのに、息が掛かるほどの距離に律樹さんの整った顔があるというのは心臓に悪いなと、ドキドキと忙しなく動く鼓動に思った。うるさく鳴り響く鼓動は大きくて、近くにいる彼に聞こえてやいないかと不安になる。けれどそんな不安は一気に霧散した。

「眉と目の間くらいで……でも短すぎるのも……」

 きっと今の律樹さんの目には俺の前髪しか写っていないのだろう。だから俺の心臓の鼓動なんて彼の耳にはこれっぽっちも入っていない。
 それが良かったのか、それとも残念だったのかはわからない。少なくともこの鼓動の音を聞かれているかもなんて不安はすぐに消し飛んでしまった。

 元々端正な顔立ちの律樹さんだが、真剣な表情はいつも以上に格好良い。もっと見ていたいなぁ、と思いながら見つめていたのだが、もう切るよという合図で渋々目を閉じざるを得なくなってしまった。残念だ、非常に残念だ。

「ほら、切った髪が入るから目を閉じて」
「……」
「そう、上手だね」

 言われた通りに目を瞑ると、律樹さんは俺の頭を撫でながらそう言った。今の言葉はコマンドではなかった。なのにコマンドで褒められた時のような足元から多幸感や満足感が湧き出てくる。しかし今は髪を切ってもらう時だ。そっと目を閉じ、動かないように動きを止めるのに集中する。
 鋏が髪を切っていく音が聞こえる。うるさい鼓動の合間に聞こえてくるのはチョキンという軽い音ではなく、ジョキンという重い音だ。慎重に切っているのだろう、音はかなりゆっくりだった。
 
 切れたて落ちた短い髪が顔の表面についていくのが目を閉じていてもわかった。息を吸い込むと髪が鼻や口に入りそうで、ゆっくりや浅くしか呼吸ができない。気にする必要は多分ない。けれど律樹さんにあんまり変な姿を見せたくなくて、俺は必死に息を止めながら耐えていた。、

「んー……もう少しかなぁ」

 額に律樹さんの指先が触れる。ほんの少し掠っただけだというのに、俺の胸は驚くほどに高鳴っていた。

「……ん、出来た」
「……!」

 優しい声色がそう告げ、俺は閉じていた瞼を開いた。たった数センチ切っただけだというのに視界が広く感じる。

「どう?」

 俺はカット用のケープを着けたまま、こくこくと頷いた。良かったとほっとしたように言葉をこぼした律樹さんにありがとうと笑えば、彼も同じようにふわりと微笑んでくれる。それが嬉しくて、俺の笑みもまたさらに深まっていく。

 その後はケープを外し、お風呂に入った。切った後の短い髪が残らないように、いつもよりも少し念入りに頭の先から足の先まで洗ってから湯船に浸かる。熱くもなく、かといってぬるくもないちょうど良い温度にほうとため息が溢れた。
 暫くして俺と同じように全身を洗い終えた律樹さんが湯船に足を入れ、ゆっくりと腰を下ろしていった。僅かに容量がオーバーしたのか、湯船から溢れたお湯が排水口へと流れていく。律樹さんが湯船の縁にもたれ掛かるように体勢を変えると、さらにお湯が溢れ出ていった。

 排水口に水が流れていく音だけが浴室内に響いている。特に何かを話すでもない静かな時間が流れていた。

「弓月、こっちにおいで」

 お湯の中で膝の上を叩くように手のひらが動き、水面が揺らぐ。その様子にふとチョコレート事件のことを思い出した。そんなこともあったなぁ……くらいの記憶だが、目の前に広がる肌色に顔が朱を帯びていく。
 今素肌同士が触れ合えばきっと俺のモノは反応するだろう。でも今は正気だ。この先に起こることを期待はしているけれど、ほんの少し緊張してしまって膝の上に座ることを躊躇してしまった。

「弓月、膝においで」

 今の言葉もコマンドではなく、ただ彼の願いとして口にされた言葉だった。『プレイじゃなくて恋人として触れ合いたい』という言葉通りに彼はコマンドを使う気はないようだ。いっそのことコマンドを使ってくれれば、何も考えずにただ本能に従って甘えたり大胆な行動もできるというのに。
 ――いや、寧ろそれがわかっているからこそコマンドを使わないのか。
 
 俺は赤くなった頬を隠すように俯きながら、そろそろと律樹さんに近寄る。そして俺を迎えるために開かれていた足の間に移動し、体を縮こめながら腰を下ろした。もちろん律樹さんに背を向けて、だ。
 どうして俺が俯いているのかも、背中を向けているのかも律樹さんは全部わかっているに違いない。ああもう、本当にもうコマンドが欲しい。もっと触れ合いたいのに、このままじゃ羞恥が邪魔をしてどうもこうもない。

 俺はきゅっと唇を引き結び、律樹さんの膝に指を滑らせた。ちゃぷんと音が鳴り、水面がまた揺れる。

「弓月」

 律樹さんの優しくて低い声が俺を呼ぶ。
 俺が返事をするその前に、俺の身体は律樹さんの肌に包まれていた。

 
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

隠れSubは大好きなDomに跪きたい

みー
BL
⚠️Dom/Subユニバース 一部オリジナル表現があります。 ハイランクDom×ハイランクSub

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集

あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。 こちらの短編集は 絶対支配な攻めが、 快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす 1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。 不定期更新ですが、 1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 書きかけの長編が止まってますが、 短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。 よろしくお願いします!

悪役令息に転生して絶望していたら王国至宝のエルフ様にヨシヨシしてもらえるので、頑張って生きたいと思います!

梻メギ
BL
「あ…もう、駄目だ」プツリと糸が切れるように限界を迎え死に至ったブラック企業に勤める主人公は、目覚めると悪役令息になっていた。どのルートを辿っても断罪確定な悪役令息に生まれ変わったことに絶望した主人公は、頑張る意欲そして生きる気力を失い床に伏してしまう。そんな、人生の何もかもに絶望した主人公の元へ王国お抱えのエルフ様がやってきて───!? 【王国至宝のエルフ様×元社畜のお疲れ悪役令息】 ▼この作品と出会ってくださり、ありがとうございます!初投稿になります、どうか温かい目で見守っていただけますと幸いです。 ▼こちらの作品はムーンライトノベルズ様にも投稿しております。 ▼毎日18時投稿予定

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

【完結】別れ……ますよね?

325号室の住人
BL
☆全3話、完結済 僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。 ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。

愛され末っ子

西条ネア
BL
本サイトでの感想欄は感想のみでお願いします。全ての感想に返答します。 リクエストはTwitter(@NeaSaijou)にて受付中です。また、小説のストーリーに関するアンケートもTwitterにて行います。 (お知らせは本編で行います。) ******** 上園琉架(うえぞの るか)四男 理斗の双子の弟 虚弱 前髪は後々左に流し始めます。髪の毛の色はご想像にお任せします。深い赤みたいなのアースアイ 後々髪の毛を肩口くらいまで伸ばしてゆるく結びます。アレルギー多め。その他の設定は各話で出てきます! 上園理斗(うえぞの りと)三男 琉架の双子の兄 琉架が心配 琉架第一&大好き 前髪は後々右に流します。髪の毛の色はご想像にお任せします。深い緑みたいなアースアイ 髪型はずっと短いままです。 琉架の元気もお母さんのお腹の中で取っちゃった、、、 上園静矢 (うえぞの せいや)長男 普通にサラッとイケメン。なんでもできちゃうマン。でも弟(特に琉架)絡むと残念。弟達溺愛。深い青色の瞳。髪の毛の色はご想像にお任せします。 上園竜葵(うえぞの りゅうき)次男 ツンデレみたいな、考えと行動が一致しないマン。でも弟達大好きで奮闘して玉砕する。弟達傷つけられたら、、、 深い青色の瞳。兄貴(静矢)と一個差 ケンカ強い でも勉強できる。料理は壊滅的 上園理玖斗(うえぞの りくと)父 息子達大好き 藍羅(あいら・妻)も愛してる 家族傷つけるやつ許さんマジ 琉架の身体が弱すぎて心配 深い緑の瞳。普通にイケメン 上園藍羅(うえぞの あいら) 母 子供達、夫大好き 母は強し、の具現化版 美人さん 息子達(特に琉架)傷つけるやつ許さんマジ。 てか普通に上園家の皆さんは顔面偏差値馬鹿高いです。 (特に琉架)の部分は家族の中で順列ができているわけではなく、特に琉架になる場面が多いという意味です。 琉架の従者 遼(はる)琉架の10歳上 理斗の従者 蘭(らん)理斗の10歳上 その他の従者は後々出します。 虚弱体質な末っ子・琉架が家族からの寵愛、溺愛を受ける物語です。 前半、BL要素少なめです。 この作品は作者の前作と違い毎日更新(予定)です。 できないな、と悟ったらこの文は消します。 ※琉架はある一定の時期から体の成長(精神も若干)がなくなる設定です。詳しくはその時に補足します。 皆様にとって最高の作品になりますように。 ※作者の近況状況欄は要チェックです! 西条ネア

処理中です...