111 / 200
第四章
閑話 瀬名律樹は決意する 中編
しおりを挟むその日は結局注文品の受け取りには行かなかった。いや、行けなかったという方が正しいかもしれない。
あまりにも険しい顔つきをしていたからか、このまま帰ることを慶士と偶々通りかかった同じ数学教師である和泉先生に止められてしまった。それでも大丈夫だと帰ろうとする俺の腕を慶士が掴む。その力は強く、絶対に離してやらないという意思が込められているようだ。
「じゃあ保科先生、あとはお願いしますね」
職員室から保健室へと移動している最中、生徒に呼ばれた和泉先生はそう言ってにっこりと笑った。それにこくりと強く頷いた慶士は俺の腕を強く握ったまま、保健室の扉を開けて中へと入っていく。掴まれているせいで引き摺られるような形のまま、俺は慶士の後に続いて保健室の中に入っていった。
中に入り、腕が開放されると同時に大きな溜息が出た。なんなんだ一体……と慶士を睨みつけるも、あいつは水を入れてスイッチを入れたケトルの様子を見ているため俺の視線には気付いていないようだ。はあ……と大きく息を吐き出しながら、保健室に置かれている黒のソファーに腰掛けると、視界がくらりと揺れた。確かに少し眠いかもしれない。このままだと車の運転にも差し支えるかもしれないなと背もたれに深く腰掛けながら、ぼんやりと慶士の背中を見た。
コーヒーの苦味を含んだ香ばしい香りが鼻腔を擽る。仮眠の場合はコーヒーを飲んでから寝る方がいいのだと誰が言ったんだったか。俺はそんな言葉を思い出しながら、素直に差し出されたコーヒーを飲み、ソファーの座面に体を倒して横になった。
仮眠なのだから二十分くらい眠れればそれでいい。睡魔が襲わない程度眠れたら上々だ。
そう思いながら目を瞑ったというのに、俺の目が覚めたのは一時間が経った頃だった。
「少しはすっきりしたか?」
ソファーから上体を起こしながらカーテンが半分閉められた窓の外を見るともう真っ暗だった。眠る前には聞こえていた様々な喧騒は、今や虫の声だけになっている。
本当であればもっと早くに起きるつもりだったのに一時間も熟睡してしまったのは、それほどまでに疲れが溜まっていたということだろうか。それだけも寝たんだ、当然頭はすっきりしていた。
俺は慶士の言葉に肯定を返すと、彼は眉尻を下げながらそれならよかったと笑った。いつもあまり表情を変えることのない友人の珍しい顔に、思わず呆然と見つめてしまう。
「お前……最近なんか、変わったな」
この一、二ヶ月余りで慶士は変わったと思う。なんというか、表情や雰囲気が柔らかくなったようなそんな感じだ。
そう言うと慶士は驚いたように目を見開いた後、眉間に皺を寄せた。
「……お前ほどじゃないと思うが」
「はあ……?」
何処が、とこぼす前に慶士が溜息をつく。
それには呆れが含まれているように感じられた。
「気付いていないのか?……お前、夏休み明けから雰囲気が柔らかくなって、笑うことが増えただろ。文化祭が終わってからは一人で百面相することが多くなったが……」
「百面相……」
前よりも表情がころころと変わるようになったと言われたが、自覚なんてものはなかった。……そうなのか。でももし本当に変わったのならば、それは弓月とまた出会えたからだろう。俺の知らないところで俺が変わっていく、昔はそれが嫌だったのに弓月に影響されたのかもしれないというだけでこんなにも嬉しい。
「刈谷が言っていたが、以前よりもとっつきやすくなったから女子人気がまた上がってるらしい」
「だからそれはお前もだろ」
最近の慶士は取っ付きやすくなったと生徒たちの間でも評判になっている。刈谷曰く「保科先生に会いたいがために保健室に行く奴らが増えた」だそうだ。
お前も人のこと言えた立場かと睨みつけるが、慶士はふっと笑みを浮かべただけだった。
それから少し話をしてから俺たちは各々の帰路に着いた。
外はすっかり真っ暗になっている。室内にいた時よりも虫の声がよく聞こえた。昼間はまだ暑い日もあるが、こうして日が暮れるとほんの少し肌寒く感じることも増えてきたように思う。ついこの間まで夏だったのに、一気に秋が来たようだ。
玄関から家の中に入ると、そこはしんと静まり返っていた。少し前まではほとんど毎日欠かさずあった弓月のお迎えだが、ここ数日はない。理由は、ここにきた初めの頃のように居間のソファーや寝室のベッドでぼんやりと過ごすことが増えてきたためだ。抑制剤の点滴ですら身体が受け付けなくなってしまったことがよほどショックだったのだろう。やっと笑顔が増えてきたというのに、これではまた振り出しに戻ってしまうかもしれない。
俺は洗面台で手を洗い、荷物を置いてから居間に向かった。居間に行くと弓月は案の定ソファーで横になっており、すーすーと寝息を立てながら眠っていた。その顔色はあまり良くはない。首には朝出勤する前よりも引っ掻き傷が増えている。きっとまた魘されていたんだろう。額に浮かび上がった汗を袖で拭ってやると、ほんの少しだけ表情が和らいだような気がした。
「弓月……弓月、起きて」
よく眠っているところを起こすのは可哀想だったが、涼しくなってきた室内で布団もかけずに汗をかいた状態で眠っていると風邪をひくかもしれない。俺は心を鬼にして弓月の肩を掴んで小さく揺らした。
眉間に皺が寄り、長い睫毛がふるふると震える。閉じていた瞼が開き、隠されていた夜空のような瞳が姿を現した。
『りつきさん、おかえり』
弓月の唇がそう形作る。安心したようにふにゃりと笑う弓月に愛しさが増し、俺はただいまと言いながら弓月をぎゅっと抱きしめた。
出会ってすぐの頃はどうしたらいいのかわからないと彷徨っていた手は、今ではすぐに俺の背に回される。帰ってきてくれて嬉しいと全身で告げる弓月の額に軽く口付けをすると、彼は嬉しそうにはにかみながら俺の首に腕を回し直した。そして俺がしたのと同じように俺の額に軽く唇を触れさせると、恥ずかしそうに笑った。
本当に弓月は可愛い。惚れた欲目なのかもしれないが、それでも俺にとって弓月はとても可愛くて綺麗だった。けれどその表情には何処か疲れが浮かんでいるようにも見えて、高鳴る鼓動とは反対に胸は苦しくなる。
(不安……だよな……)
不安がる弓月に俺が出来ることなんて限られている。けれど俺は少しでも弓月の不安をどうにかしてやりたいとも思う。でもどんなに考えても、他のDomを弓月に近づけることに抵抗があった。
(ごめん、弓月……俺の独占欲が強いばっかりに……)
Subを支配したいというDomの本能がそうさせているのか、それともそうじゃないのか。
弓月を守りたい、彼のそばにいたいとは思うが、弓月を支配したいとは思わない。どちらもDomの本質ではあるが、似て非なるものだ。だから俺自身としては、この独占欲は俺の中のDomの本能でもあるが、同時に俺自身の思いの強さなんじゃないかって思いたかったのかもしれない。
腕の中の身体は少し肉がついてきたとは言え、まだまだ薄い。少し力を入れればすぐに折れてしまいそうな身体を俺は抱きしめながら、心の中でもう一度謝罪の言葉を紡いだ。
232
お気に入りに追加
1,161
あなたにおすすめの小説
【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集
あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。
こちらの短編集は
絶対支配な攻めが、
快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす
1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。
不定期更新ですが、
1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
書きかけの長編が止まってますが、
短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。
よろしくお願いします!
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
市川先生の大人の補習授業
夢咲まゆ
BL
笹野夏樹は運動全般が大嫌い。ついでに、体育教師の市川慶喜のことも嫌いだった。
ある日、体育の成績がふるわないからと、市川に放課後の補習に出るよう言われてしまう。
「苦手なことから逃げるな」と挑発された夏樹は、嫌いな教師のマンツーマンレッスンを受ける羽目になるのだが……。
◎美麗表紙イラスト:ずーちゃ(@zuchaBC)
※「*」がついている回は性描写が含まれております。
平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです
おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの)
BDSM要素はほぼ無し。
甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。
順次スケベパートも追加していきます
待てって言われたから…
ふみ
BL
Dom/Subユニバースの設定をお借りしてます。
//今日は久しぶりに津川とprayする日だ。久しぶりのcomandに気持ち良くなっていたのに。急に電話がかかってきた。終わるまでstayしててと言われて、30分ほど待っている間に雪人はトイレに行きたくなっていた。行かせてと言おうと思ったのだが、会社に戻るからそれまでstayと言われて…
がっつり小スカです。
投稿不定期です🙇表紙は自筆です。
華奢な上司(sub)×がっしりめな後輩(dom)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる