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第四章

八十四話 焦りと葛藤

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 投与できる抑制剤がないという衝撃的な話を聞いてから一週間が経った。今日は土曜日なので律樹さんは午前中だけ仕事に行っている。本当なら午後からデートの予定だったのだが、正直今は出かける気力はおろか動く気力さえない。

 そもそも俺が抑制剤も無しに外に出られるかということなのだが、多分無理だ。今はまだいいとしても、きっと近くで誰かがコマンドを発すれば俺はそれに自分の意思とは関係なく従ってしまうだろう。下手をすればサブドロップするかもしれない。そうすれば律樹さんだけじゃなくて他の人にも迷惑がかかってしまう。折角恋人以上になれたというのに、こんなんじゃまた出会ったばかりの頃みたいだ。

 俺はベッドに仰向けに寝転びながらため息をついた。
 一人でいると自然とネガティブな思考になってしまう。こんな俺なんかいなくなればいいのにと俺の中の何かが囁いてくる。なのにそのくせ、誰か俺をめちゃくちゃにして助けてくれと思ってしまうのだ。
 難儀だと自分でもわかっている。わかってるけど、止められない。

(会いたいなぁ……)

 早く律樹さんに会いたい。会って抱き締めて、それからキスをして。プレイだっていっぱいしたい。いっぱい褒めて欲しい。それで律樹さんにぐちゃぐちゃにされたい。

 そう思った瞬間、自嘲が溢れた。
 抑制の効かないSubの俺の思考はこんなにも浅ましかったのか。律樹さんに助け出してもらってすぐの頃はDomが怖いとか言っていたのに、俺はどうしてかDomによる支配を求めている。それはDomじゃなくて律樹さんにだろ、と言いたいところだが、正直今のまともじゃない思考回路ではそれもよくわからない。
 ただ支配されたい。抵抗も出来ないままにぐちゃぐちゃにされたいと本気で思ってしまう自分が、気持ち悪い。

(俺はただ律樹さんと幸せになりたいだけなのに……どうして……)

 男同士じゃなかったらすぐにでも結婚していたかもしれない。けれど生憎俺も律樹さんも男だ。この国ではパートナーにしかなれない。それがこんなにも苦しい。

 律樹さんのいないベッドの上は広く感じる。手を伸ばしても足を伸ばしても何にも当たらず開放的なはずなのに、心が寒い。何だか虚しくなって、俺は律樹さんの部屋を出た。
 向かうのは自分用にと用意された部屋。この一週間は勉強をする気も起きず、この部屋に来ることもなかった。元々勉強以外ではほとんど使うことのない部屋だからか、なんだか空気がひんやりとしていた。
 勉強机の前の椅子に腰掛け、机に突っ伏す。ため息を吐きながら固い机に額を押し当てるとコツンと音がした。

 頭を傾けて窓を見ると、外は快晴だった。俺の心とは裏腹に青く澄み切った空には雲ひとつない。肺が空になるくらい息を吐き出し、再び机に沈む。
 伸ばした腕に不意に何かが触れた。何だろうと思いながら腕を伸ばし、机の上を指先で撫でる。指に何かが触れると同時にカサッと音がした。それを指先で掴みながらそっと引き寄せると、それは丸めた白い紙だった。

(あ……これ、もしかして……)

 のそのそと起き上がり、ゆっくりと紙を開いていく。くしゃくしゃに丸められた紙の中にあったのは、いつぞやの抑制剤たちだった。そういえば机の引き出しに入れる前はここに隠していたんだっけかと自嘲が溢れる。
 皺だらけの紙に包まれていた白い錠剤はおよそ十錠。一度も口にすることなく入れられていたそれは、入れた時のままそこに入っていた。

「……っ」

 体が薬を拒否しているのだと律樹さんにバレてから、一度もこの薬を飲んでいない。だって飲んだとしてもすぐに吐き出してしまって意味がなかったから。俺が嘔吐する姿を見た律樹さんが辛そうな表情をするのも見たくなかったというのもある。

 一瞬、もしかしたら今ならこの錠剤を飲めるかもしれないなんて馬鹿な考えが浮かぶ。
 点滴すらも身体が拒否を始めたという事実に多大なショックを受けていた俺の頭は、正常な思考を放棄し始めていた。……いや、これはやけくそなのかもしれない。抑制剤の服用が出来ないということは、俺は今まで以上にプレイをしなければならない。それも欲求を完全に満たすくらいの――

(っ……駄目だ、律樹さんは仕事もあるんだから……)

 俺自身、どれほどの欲求があるのかわからない。ランクが高ければ高いほど欲求の度合いが高いというけれど、それが実際どのくらいのものなのかなんてわからなかった。

 ……なんて面倒な身体なんだろう。
 皺くちゃの紙に包まれた白い錠剤を見つめながら、唇を噛み締める。視界が歪み、目尻から涙が溢れた。
 なんで俺はSubになんかなってしまったんだろう。第二性がSubじゃなければ――せめて高ランクのSubじゃなかったらこんな風にはならなかったかもしれないのに。

 気付けば衝動的に行動していた。
 俺はその薬たちを引っ掴むと、すぐに台所へと向かった。ガラスのコップに冷蔵庫が取り出したミネラルウォーターを注ぎ、ぐっと握り込んだ白い錠剤たちを拳越しに睨みつける。

(これを飲めば……もしかしたら……っ)

 そう思うのに身体はそれ以上動かない。錠剤を握りしめたままの拳は力を込めすぎて白くなり、震えていた。
 この薬を飲めば楽になれるかもしれない。そう思うのに、あの苦しさを思い出した身体は拒否を示している。また嘔吐するのが目に見えているのに本当に飲むのかと頭の中で自分の声が響く。
 かたかたと震えた手の中からガラスのコップが滑り落ちた。床に叩きつけられたそれはパリンッと鋭い音を立てて方々へと飛散する。足の裏に冷たい水が染み込んでいく感覚に俺は思わず足を上げ、そしてたたらを踏んだ。

「……ッ!」

 鋭い痛みが走る。白くなるまで強く握りしめられていた拳が開き、白い錠剤が全て床に落ちていった。ころん、ころんと転がりながら散らばっていく白色。それをぼんやりと見つめていると、慌てたような足音とともに俺を呼ぶ大きな声が聞こえてきた。

「――っ、弓月!今の音……っ!?」
「……」

 息を切らしながら現れた律樹さんは、俺と目があった瞬間目を見開いた。手に持っていたパンパンに膨れたエコバッグがどすんっと音を立てながら床に落ちる。律樹さんは俺を見て、それから床の惨状を見た。その悲惨さに息を呑む音が聞こえる。
 ごめんなさいって謝らないといけないのに、俺はまだ動けないでいた。足の裏がじんじんと痛む。

「弓月、そこを動かないで待ってて。……今片付けるから」

 そう言った律樹さんが台所から消える。しかしすぐに箒と塵取りを手に戻ってきた。手にはピンク色の厚手のゴム手袋が嵌められている。飛び散ったガラス片を丁寧にゴム手袋を装着した手で集めてから箒と塵取りで小さな破片を集めていった。水浸しになったところを厚手のティッシュのようなもので拭いていき、気付けばそこは元通りの床になっていた。

「足上げて……あー、これは切ってるね……」

 片方の足の裏を見た律樹さんが痛そうに顔を歪める。律樹さんが俺を抱き上げ、居間のソファーへと下ろした。そしてテレビ台の下に常備している救急箱を取り出し、俺の治療を始める。冷たくなっていた俺の足に触れる彼の手が熱くて、俺はきゅっと唇を噛み締めた。
 
 
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