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第四章

七十八話 瀬名家襲来 前編

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「……で?これはどういうことなのか、説明してもらおうか」

 居間のソファーに座りながら律樹さんがそう低い声で言い放つ。さっきまでの甘い空気なんて一片もなく、鋭く重い空気が漂っていた。
 テーブルを挟んだ向かい、そこに並んで座っているのは二人。そのうちの一人は律樹さんの姉である六花さんだが、もう一人は俺の知らない人だった。しかし相手の方はどうやら俺のことを知っているようで、律樹さんではなく彼の膝に抱えられた俺に視線を向けてきている。その所為なのか、律樹さんの機嫌は益々悪くなっていった。



 事の始まりは一時間前に遡る。
 プレイではなく、恋人として触れ合っていた最中のことだ。二人同時に吐精した直後、玄関のチャイムが家の中に鳴り響いた。俺も律樹さんも色んなものでベトベトだったために、どうしようと慌てる俺に彼は静かに首を横に振る。まあ確かにこのままで出るわけには行かないからそうするしかないよなぁ……と思いながら戸惑いつつも小さく頷くと、額にキスが降ってきた。再び甘い空気が漂い始めた頃、二度目となる玄関チャイムの音が鳴り響いたのだった。

「……弓月はここで待ってて」

 そう言って身支度を整え、手や顔を洗いに洗面所に向かった律樹さんの背を呆然と見送った。本当は俺も手を洗いたいけど、もしお客さんだったとしたら俺がこのまま出ていって鉢合わせるのは非常にまずい。
 取り敢えずベッド脇に置いてあったウェットティッシュで手や腹部を軽く拭い、服を脱いだ。律樹さんの部屋の箪笥の中に入っている俺用の服を取り出して身に纏い、そろそろと廊下を覗いた。

 部屋の扉を開けて顔をひょこっと出してみると、微かに人の話し声が聞こえてきた。低い方は律樹さんなのはわかるが、あとは……女性だろうか。なんだか聞き覚えがあるような気がする。誰だろうと首を捻っていると、ガタンッと大きな音が響き渡った。突然のことにビクッと肩が跳ねる。そして聞き慣れた足音が近づいてきたかと思えば、眉間に皺を寄せて険しい表情をした律樹さんが俺の前に立っていた。

「……ごめん、弓月。ちょっと厄介なことになった」

 ……はて、厄介なこととは?と頭に疑問符を浮かべていると、ひょいと抱き上げられた。そのままどこかに連れて行かれる。まさかこの状態でお客さんのところに行くのでは、と内心ハラハラしていたがそんなことはなく、連れて来られたのは脱衣所だった。

「まずは一緒にシャワーを浴びて、歯磨きしよっか」

 え、いいの?と困惑した視線を向けると、大丈夫だと苦笑が返ってきた。一時間後にもう一度来ることになったからそれまでに用意をすれば大丈夫だという彼に、まあそれなら大丈夫なのか……?と曖昧に頷く。納得する、しないにしろ、流石にこのままでいるわけにもいかないので、促されるがまま律樹さんと一緒にシャワーを浴びた。
 シャワーの後は歯磨きをし、律樹さんが髪を乾かしてくれた。服は脱衣所に置いてあったものに袖を通し、俺はひと足先に今へと向かう。
 
 設定した約束の時間は最初に訪れた時間から一時間後。廊下に設置されている掛け時計を見れば、約束の時間まではあと二十分ほどだった。それまでソファーの上やテーブルの上に置いたままにしていたものを片付けようと思ったのだが、居間への扉を開けた瞬間に俺は固まった。

「……あら?貴方もしかして……弓月、なの?」
「……っ⁈」

 知らない人が知らない声で俺の名前を呼ぶ。どうして家に知らない人がいるんだと頭の中がパニックになる。
 この女の人のことを知らないはずなのに、この人を見ているとどうしてかあの人を思い出して身体が震えてしまう。あの冷たくて憎悪の含まれた眼差しを俺に向けてきた、あの人に。

 カタカタと身体を震わせる俺の様子に気づいているのかいないのか、その女性は感極まったという様子で目に涙を溜めながら両手で口元を覆っている。立ち上がり、こちらに向かってくるその人から視線を逸らすことができない。

「大きく、なったわね……最後に貴方に会ったのはいつ頃だったかしら」

 目の前の女性が何かを話しているのはわかるが、耳鳴りがひどくて何を言っているのかは聞こえない。俺の頭の中を占めるのはただ一つ、あの人のことだけだった。
 体の奥底から湧き上がる恐怖が俺を支配していく。体の震えが止まらない。やだ、こないでと言いたいのに声が出ない。
 
 足から力が抜け、俺はその場にぺたりと座り込んだ。その様子を不思議に思ったのか、女性が近づいてくる。
 
(お願い、だから……もう、そんな目で……俺を見ないで)

 ――母さん。
 いっぱいに溜まった涙が目尻から溢れていく。ぽろぽろと溢れ出た雫は頬を伝い、着替えたばかりの服を濡らしていった。

 目を開き、身体を小刻みに震わせながら涙を流す俺の姿が目の前の人にはどう映っているのだろうか。けれど今の俺にはその姿があの頃の母親の姿に見えてしまい、もう動くことすらもできない。

 ごめん、ごめんね……母さん。俺が高ランクのSubだったばっかりに、あんなことになって……本当にごめんなさい。

 無意識にそう口が動く。あの頃何度も何度も言った言葉。泣き崩れ、やがて心を壊してしまった母親――俺はどうすればよかったんだろうと思う。
 目の前が滲んで見えない。なのにどうしてこんなにもはっきりと母の姿が見えるんだろうか。止まらない、言葉も涙も震えも、みんなみんな止まらない。俺は――……

「――大丈夫、大丈夫だよ、弓月」

 不意に視界が真っ暗に閉ざされた。暗い世界の中、水面落ちる雫のようにその声は俺の中へと輪を描いて広がっていく。

 温もりが全身を包み込み、呼吸が戻っていく。引き攣っていた喉から聞こえていた変な音も小さくなっていき、やがて消えた。目を覆っていた温もりが離れ、穏やかで落ち着く香りが鼻腔を掠める。のろのろと顔を上げ、視線を後ろの方に向けると、そこにいたのは律樹さんだった。

 その後すぐにインターホンが鳴り、六花さんが慌てたようにやってきた。ぽかんとする二人をテーブルを挟んだ向かい側に座らせ、俺は律樹さんに抱き上げられたままソファーへと座った。落ち着いてくるとこの体勢はかなり恥ずかしかったのだが、足に力が入らないためどうすることもできない。そのまま話すことになり、冒頭に至るというわけだった。

 
 
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