93 / 199
第四章
七十話 夢と記憶
しおりを挟む「え……」
あまりの突然のことに、ぺたりと座り込みながら呆然とそれを見上げる。住宅街の中で他の家よりも少し大きい一軒家。ふらふらと彷徨わせた視線が表札を捉えた瞬間にぴたりと止まった。
「……さかなぎ…………えっ?」
耳に届いた音に、俺はゆっくりと喉を押さえる。
控えめな主張の喉仏にそっと指先を這わせながら、ほんの少し口を開いて「あ」と言ってみた。すると指先を通して喉が微かに震え、か細い声が小さく耳に届く。
声が出ている――そう気がついた瞬間、歓喜よりもまず得体の知れない恐怖が足元から湧き上がってきた。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
さっきまでの夢とは全く違う。早く目を覚ませと、そう頭の中ではわかっているのに夢は終わらない。兎に角ここから離れないと、と震える体を叱咤しながら立ちあがろうと地面に手をついた時だった。
「――弓月?」
「……っ!」
頭上から降ってきた声に全身が固まる。まるで石にでもなったかのようだった。
この声の人を俺はよく知っている。何度もう聞きたくないと思ったことだろう。全身から嫌な汗が吹き出しているのがわかる。声を聞いて脳裏に浮かぶのは、あの苦しくて痛くて辛い日々。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのはやっぱり兄だった。けれども俺が最後に見た兄よりも随分と幼い顔立ちをしているような気がする。
兄が手を動かすのが見え、俺はぎゅっと目を瞑った。しかしいくら待っても想像していたような衝撃は一切なく、俺は恐る恐る瞼を開いていく。そんな開いた視界に映ったのはこちらに差し出された手の平だった。えっ、えっと思わずその手と見慣れた兄の顔を見比べてしまう。
そんな不安げというよりも挙動不審な俺の様子に、中学の頃に着ていた制服に身を包んだ兄は不思議そうな表情を浮かべていた。待てども手を握らない俺に焦れたのか、ほら早くと差し出した手をぷらぷらと揺らしている。
慌てて伸ばした腕はいつもよりも短くて細い。あんなにも不健康で白かったはずの手は、今はとても健康的な色をしていた。
「そんなとこで座ってたらまた母さんに怒られるぞ」
「あ……う、うん」
そう言って重ねた手に力を込めた兄が思い切り腕を引いた。勢いよく引かれたためによろけた俺の身体を兄は優しく受け止める。
「あっ……ぶね……」
「あ、ごっ、ごめん!」
「ん?……いや、俺の方こそ勢いよく引きすぎた、ごめん」
兄が眉尻を下げながらしおらしく謝った。
……これは一体どういうことなのだろう。目の前にいる兄は兄ではないのかという疑問が頭の中に浮かんで、消えていく。まるでシャボン玉のように、疑問は次々と浮かんでくるのにそれらは全てすぐにぱんっと弾けて消えてしまった。
俺の知っている兄はこんな人だっただろうか。
俺の知っている兄は俺に……俺に、なんだったっけ。
繋がれた手を見下ろしながら、俺は首を傾げた。
俺はこの温もりを知っている。けれどこんなにその手は小さかっただろうか。もっと大きくて、骨張っていて――そう、大人の男の人のような手だったはずだ。
今繋いでいる手は子どもと大人の中間といった感じだ。子どもというには大きいが大人よりも小さく、そして子どもにしては少しゴツゴツとしているが大人よりも肉付きがいい。温もりもまだまだ子ども体温と言われるような温かさだった。
「え、あ……」
「……どうした?お前今日おかしいけど、なんかあった?」
「あ、いや……えっと……」
「……外だと話しづらいだろうし、家に帰ったら話そうか」
重なった手がまた引かれる。今度は力の加減がしっかりとされていたのでよろけることもなかった。
門がギィ……と音を立てながら内側に開く。引かれるがままに中へと入っていき、玄関から家の中へと入っていった。家の中に入るまではうるさく鳴り響いていた警鐘だったが、玄関扉が閉まった瞬間にぱたりと止んだ。
しん、という静けさが耳を打つ。カチャンッと背後で鍵が閉まる音がした。まるでもう逃がさないとでもいうような音に、身体がビクッと跳ね上がる。
「ただいま」
「た……ただいま……?」
「なんで疑問系なんだよ」
ここはお前の家でもあるだろと言われ、ぼんやりとああ、そうかと思った。そうだ、ここは兄の家であるのと同時に俺の家でもあるんだ。そう思うとなんだか不思議な気持ちになった。
天井を見上げてみると、そこには凹凸の少ない白い壁紙が一面に貼られていた。それに激しい違和感を感じて、俺は首を傾げる。どうして違和感を感じるのかがわからない。だってここははじめからそうだったじゃないか。
靴を脱いで上り框に足を掛けて、また違和感。ここは二段だったような気がするけれど、でもそんな高かっただろうかと。
なんだか頭の中がぐるぐると回っているような感覚に襲われ、俺はその場にしゃがみ込んだ。何かがおかしいと身体中が訴えかけてくるのに、その正体が分からなくて気持ちが悪い。
幾つかの光景が古いフィルム映画のように頭の中を流れていく。知らない光景のはずなのによく知っているようなこの感覚は何なのだろう。
俺は咄嗟に手を伸ばし――何かを掴んだ。
しかし目の前を見ても何もない。さっきまで目の前にいたはずの兄もいなければ、周りの景色も黒く塗り潰されていた。
「……」
口を開くが言葉が喉の奥につっかえてしまったかのように声が出なかった。
――ああ、まただ。
そう思った瞬間、身体が謎の浮遊感に襲われる。何とも言えない心地にぎゅっと目を瞑っていると、いつの間にか浮遊感は綺麗さっぱり無くなっていた。
「――弓月!」
「……っ!?」
再び瞼を押し上げる。すると慌てたような大きな声が耳のすぐ近くで聞こえ、身体がびくりと跳ね上がった。
きょろきょろと目を動かす。何が起こったのかがわからなくて頭の中が混乱していた。
「よ、良かった……!呼び掛けても中々起きないから……はぁ……本当によかった……!」
「……?」
どうやら俺は居間のソファーで眠っていたようだ。そう言えば今日は病院に検査に行って、帰ってきてすぐに暇だなぁってここに寝転んだんだったと思い出し、ふぅと息を吐き出す。
「随分魘されてたけど、大丈夫?……怖い夢だった?」
そう聞かれ――俺は、首を傾げた。
そういえば夢を見ていたような気がするのに内容が思い出せない。どんな夢だったっけと首を捻っていると、律樹さんが「まあ夢ってそんなものだよね」と苦笑を浮かべている。
確かに見た夢の内容を覚えていることは少ない。内容をはっきり覚えていたり、覚えているうちにメモに残すという人もいるようだが、それはごく少数のことだ。
今回の俺に関してで言えば、そもそも夢の内容どころか夢を見ていたかどうかさえも曖昧だった。なんだか覚えていないといけなかったような気がするんだけど……と顎に手を当てながら首を傾げていると、律樹さんが優しげな笑みを浮かべながら俺の目の前にしゃがみ込んだ。
「きっと疲れてたんだね。覚えていないってことはそれだけ熟睡したってことなんじゃないかな?」
そう……かもしれない。
多分そうなのだろうと自分を納得させるように心の中でそう呟きながらこくりと頷くと、律樹さんも同じように一つ頷いた。
「じゃあ、お風呂が沸いたから先にお風呂に入ろっか」
差し出された手に手を重ねる。それに既視感を抱いたが、結局何だったのかもわからないままに俺は律樹さんとお風呂へと向かった。
179
お気に入りに追加
1,154
あなたにおすすめの小説
平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです
おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの)
BDSM要素はほぼ無し。
甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。
順次スケベパートも追加していきます
【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集
あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。
こちらの短編集は
絶対支配な攻めが、
快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす
1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。
不定期更新ですが、
1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
書きかけの長編が止まってますが、
短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。
よろしくお願いします!
悪役令息に転生して絶望していたら王国至宝のエルフ様にヨシヨシしてもらえるので、頑張って生きたいと思います!
梻メギ
BL
「あ…もう、駄目だ」プツリと糸が切れるように限界を迎え死に至ったブラック企業に勤める主人公は、目覚めると悪役令息になっていた。どのルートを辿っても断罪確定な悪役令息に生まれ変わったことに絶望した主人公は、頑張る意欲そして生きる気力を失い床に伏してしまう。そんな、人生の何もかもに絶望した主人公の元へ王国お抱えのエルフ様がやってきて───!?
【王国至宝のエルフ様×元社畜のお疲れ悪役令息】
▼この作品と出会ってくださり、ありがとうございます!初投稿になります、どうか温かい目で見守っていただけますと幸いです。
▼こちらの作品はムーンライトノベルズ様にも投稿しております。
▼毎日18時投稿予定
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
【完結】別れ……ますよね?
325号室の住人
BL
☆全3話、完結済
僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。
ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。
愛され末っ子
西条ネア
BL
本サイトでの感想欄は感想のみでお願いします。全ての感想に返答します。
リクエストはTwitter(@NeaSaijou)にて受付中です。また、小説のストーリーに関するアンケートもTwitterにて行います。
(お知らせは本編で行います。)
********
上園琉架(うえぞの るか)四男 理斗の双子の弟 虚弱 前髪は後々左に流し始めます。髪の毛の色はご想像にお任せします。深い赤みたいなのアースアイ 後々髪の毛を肩口くらいまで伸ばしてゆるく結びます。アレルギー多め。その他の設定は各話で出てきます!
上園理斗(うえぞの りと)三男 琉架の双子の兄 琉架が心配 琉架第一&大好き 前髪は後々右に流します。髪の毛の色はご想像にお任せします。深い緑みたいなアースアイ 髪型はずっと短いままです。 琉架の元気もお母さんのお腹の中で取っちゃった、、、
上園静矢 (うえぞの せいや)長男 普通にサラッとイケメン。なんでもできちゃうマン。でも弟(特に琉架)絡むと残念。弟達溺愛。深い青色の瞳。髪の毛の色はご想像にお任せします。
上園竜葵(うえぞの りゅうき)次男 ツンデレみたいな、考えと行動が一致しないマン。でも弟達大好きで奮闘して玉砕する。弟達傷つけられたら、、、 深い青色の瞳。兄貴(静矢)と一個差 ケンカ強い でも勉強できる。料理は壊滅的
上園理玖斗(うえぞの りくと)父 息子達大好き 藍羅(あいら・妻)も愛してる 家族傷つけるやつ許さんマジ 琉架の身体が弱すぎて心配 深い緑の瞳。普通にイケメン
上園藍羅(うえぞの あいら) 母 子供達、夫大好き 母は強し、の具現化版 美人さん 息子達(特に琉架)傷つけるやつ許さんマジ。
てか普通に上園家の皆さんは顔面偏差値馬鹿高いです。
(特に琉架)の部分は家族の中で順列ができているわけではなく、特に琉架になる場面が多いという意味です。
琉架の従者
遼(はる)琉架の10歳上
理斗の従者
蘭(らん)理斗の10歳上
その他の従者は後々出します。
虚弱体質な末っ子・琉架が家族からの寵愛、溺愛を受ける物語です。
前半、BL要素少なめです。
この作品は作者の前作と違い毎日更新(予定)です。
できないな、と悟ったらこの文は消します。
※琉架はある一定の時期から体の成長(精神も若干)がなくなる設定です。詳しくはその時に補足します。
皆様にとって最高の作品になりますように。
※作者の近況状況欄は要チェックです!
西条ネア
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる