声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第三章

五十三話 現実か幻聴か

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 聞こえた声にはっと我に返り、思考が一気に霧散する。驚きのせいか、不思議なことに数秒前まで陰鬱としていた思考が一瞬にして消え去っていた。
 呆然としながら顔を上げると、そこにいたのはさっきまで屋台の前でクラスメイトたちに囲まれていた壱弦だった。彼は両手に中身がいっぱい入っていそうなビニール袋を携えながら、人混みを掻き分けてこちらに向かってくる。

「あー……」

 俺たちの目の前に着くと同時に、壱弦は不思議そうに律樹さんと俺を交互に見つめる。そして何かを察したように、顔をこちらに向けながら周囲を窺うように視線を動かしたあと溜息をこぼした。
 壱弦の額には薄らと汗が浮かんでいる。暑いのも勿論あるだろうが、下がった眉を見る限りそれだけではなさそうだと思った。

「……そういえば瀬名先生って弓月の従兄弟でしたっけ?俺たち、今から体育館の方へ行こうと思ってるんですけど、先生もよかったら一緒にどうですか?」

 壱弦は苦笑を浮かべながら少し大きな声でそう言った。その言葉に俺の背に添えられた律樹さんの腕がぴくりと動いた。律樹さんがどんな表情なのかはわからないが、彼を見つめる壱弦の瞳が僅かにきゅうと細まる。

「弓月も……従兄弟の瀬名先生が一緒だと嬉しいと思いますし」

 眉尻を下げつつもにっこりと笑いながらそう続ける壱弦に、背中に触れた律樹さんの手がまた小さく動く。少しの沈黙の後、隣から溜息が聞こえてきた。
 
「……ああ、そうだな。じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらうよ」

 そういうや否や、律樹さんの手が背中から脇腹へと移動していく。不意に弱いところを触れられ、俺の身体は反射的にぴくんっと小さく跳ねた。そんな自分の反応に驚きつつもそっと隣を見れば、その表情は柔らかな笑みを湛えている。

「……立つよ」
「……っ」
 
 腰を掴んだ手に力が込められ、ぐっと引き寄せられる。そして律樹さんが立ち上がると同時に、腰を掴まれた俺もつられて立ち上がった。急に立ち上がったせいで立ちくらみを起こしたのか、一瞬目の前がぶれる。しかししっかりとした腕に支えられていたお陰でよろけることも、倒れることもなかった。

 あれだけはっきりと聞こえていた声も向けられていた視線も、いつの間にかなくなっている。壱弦越しに周囲を見回してみるがそこに人だかりはなく、文化祭を楽しむ人々で溢れかえっているだけだった。
 もしかして俺の幻聴だったのだろうか?と首を傾げながら二人を見ると、彼らは揃って困ったような表情を浮かべていた。

 その後はグラウンドには陽を遮るものが殆どなかったこともあり、長居は無用とばかりに足早にその場を離れた。先程の宣言通り体育館の方へと向かうのだと思っていたのだが、二人は体育館らしき建物の入り口に見向きもせずに通り過ぎていく。

(……あれ?体育館に行くって……?)
 
 遠ざかっていく出入り口に困惑する俺を尻目に、二人は歩みを止めることなくずんずんと進んでいく。
 どこに向かうのだろうという疑問は割とすぐに晴れた。体育館らしき建物の横を通り過ぎた先、二人が足を止めたのは人気のない体育館の裏だった。
 
 祭りの喧騒が遠くから聞こえてくる。文化祭の最中であるにも関わらず、ここだけ空間が切り離されたかのように静かで寂しげな空気が漂っていた。

「ここなら大丈夫だろ……弓月、そこに座って」

 そこと指し示された先にはまたベンチがあった。グラウンドにあったものとは違い、こちらは背もたれがあるタイプのようだ。それは酷く色褪せ、所々に残る微かな青色が哀愁を漂わせている。
 ベンチの座面を手のひらで軽く撫でてみるが、誰かが手入れをしているのか何もつかない。俺はベンチの真ん中あたりに腰掛けると、目の前に立つ二人を見上げた。
 ここは日陰で、少し薄暗い。明るい空間に慣れた視界では彼らの表情を窺い見ることは出来なかった。

 俺が座ったのを確認した二人は、俺と同じようにそれぞれベンチに腰を下ろした。左側から壱弦、俺、律樹さんの順番で座る。
 壱弦が背もたれに背中を預けると同時にギィ……と軋むような音が鳴った。小さな音だったにも関わらず、喧騒から離れたこの場所ではよく聞こえた。

「……あーあ……もう少し弓月と二人でいたかったなぁ……なんて」
「……?」
「瀬名先生に秘密、バレちゃったね」
「!」

 綺麗な青空を見上げた後、俺の方を向いた壱弦が苦笑混じりにそう言う。あっ……と申し訳なさに目を伏せると、彼は眉尻を下げながら「まあいいんだけどね」と笑った。声色からは怒りや悲しみといった負の感情は感じ取れない。けれど再び空を見上げる壱弦の横顔がどこか寂しさを帯びていて、胸がきゅうっと締め付けられるようだった。

「でも、まあ……先生の方は良くなさそうですね」

 壱弦が苦笑混じりにそう言うと俺の方――いや、俺の奥に座る律樹さんを見た。俺も同じように律樹さんを振り返る。眉間に皺を寄せながら不機嫌といった様子で黙ったままだったが、俺と目が合うと少し罰が悪そうに視線が逸らされた。

「ねぇ弓月、今日は……ってまだ終わってないんだけど……文化祭楽しかった?」

 再び壱弦の方へと視線を戻し、俺は頷きを返した。
 まだ数時間しか回っていないが、それでも楽しかったなと思う。さっきは人の視線が怖くなってああなってしまったけれど、でもずっと楽しかった。俺がしたくても出来なかったこと、それが形は違えど叶ったことが嬉しかった。
 この思いが伝わればいいなと顔を綻ばせながらもう一度頷く。すると伝わったのか、「そっか、よかったな」と笑顔が返ってきた。

「明日はどうする?もう一日あるけど……」

 確かに文化祭はもう一日あったはずだ。
 どうしようと言うように、再度律樹さんの方を振り返って服を摘んでちょいちょいと引っ張る。律樹さんは僅かに視線を彷徨わせた後、ふうと息を吐き出して困ったような笑みを浮かべながら俺の頭に手を置いた。

「……弓月がしたいようにしていいんだよ」
「……?」
「……帰ったらチケットあげるね」
「……!!」

 俺の頭をぽんぽんと優しく撫でた律樹さんがふっと笑いながら、俺の右手にそっと手を添えた。どきっと胸が高鳴る。しかし視線を落とした先にあった光景に慌てた。
 重なった手の中、さっき貸してもらっていた彼のスマホがしっかりと握られたままになっている。そういえば返していなかったなと思い出し、すぐに律樹さんにスマホを手渡した。

「ん……もうこんな時間か。俺はもう戻るけど……刈谷、弓月のことを頼む」
「……言われなくてもそうするつもりですよ」
「……そうか」

 ギィという音を立てながらベンチから立ち上がった律樹さんがもう一度俺の頭を撫でる。見上げると少し寂しげに笑う彼と視線が合い、心臓がきゅっと締め付けられた。


 
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