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第三章

五十一話 熱と鼓動

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「……最近何かこそこそしてるなぁ、とは思ってたけど……はあぁ……」

 俺の目の前でしゃがみ込んだ律樹さんが片手で顔を覆って項垂れながら、それはもう深い深い溜息をついた。柔らかな栗色の髪の中、律樹さんの旋毛が見える。普段見ることのできないそれを見れたことに胸を高鳴らせつつ、俺はへらへらとした頼りなくて曖昧な笑みを浮かべた。

 顔を覆っていた手が動き、隙間から琥珀色が顔を覗かせた。ベンチに座っている俺の方が高いので必然的に律樹さんは上目遣いになるのだが、彼の拗ねたような表情と相まって心臓が騒がしくなる。

「……隣、座ってもいい?」

 ぱちりと視線があうと同時にそう聞かれた。俺はほんの少し視線を彷徨わせた後、小さくこくりと首を縦に振ってたこ焼きの入った容器を反対側へと移動させる。空いた場所をするりと撫でると、熱々のたこ焼きを置いていたからかベンチは熱を帯びていた。
 指で触れただけでも熱いそこに律樹さんが座ったとしたら火傷をするかもしれない。だから俺は彼がその上に座らなくて済む様にとほんの少し自分の座る位置をずらした。
 僅かに太腿が温かい気がするが、火傷をする程でもなさそうだ。そう思って律樹さんの方に視線を移すと、彼の眉間にぐっと皺が寄っていた。

 ざりっという音と共に律樹さんが立ち上がる。彼の影が俺の上に落ち、全身を覆い尽くした。
 なんとなく肌がぴりっとする。どうやら律樹さんは俺に対して少しお怒りの様で、眉間に刻まれた皺がさらに深くなっていた。俺は射抜く様に見つめてくる琥珀色を見上げながら、ぱちくりと目を瞬かせた。

「はあ……」
「……っ」

 溜息と共に律樹さんは俺の隣に腰を下ろした。いつものような柔らかさを含んだ動作ではなく、少し荒々しいその座り方に俺の心臓がどきりと跳ねる。
 それに、距離が近い。お互いの肩や太腿の側面が触れ合い、そこから生まれる熱が全身を覆っていく。

(えっ……あ、ちか……っ)

 律樹さんが俺の身体をぐっと横へと押しやるかのようにさらに身体を引っ付けてくる。されるがままに座る位置を少しずらすと、彼は眉間に寄った皺を少し和らげた。

「それ、食べないの?」
「……?」

 それ、と彼が指を差したのはさっき避けたたこ焼きだった。もしかしてベンチが熱くなってる所から俺を退かそうとしてくれた?と気づいた瞬間、さらに顔が熱くなる。

 食べる、と律樹さんを見上げながら口を開く。ベンチの上に置いていたたこ焼きの容器を膝の上に移して蓋を開けると、ほんのりと湯気が上った。美味しそうな香ばしいソースの香りに、ごくりと喉が鳴る。
 たこ焼きに刺さっている爪楊枝は二本。本来なら二本使って食べるものなのかもしれないが、別に一本でも問題はない。たこ焼きが刺さったままの一本を律樹さんに差し出した。

「……くれるの?」

 驚いたように目を瞬かせる彼にこくりと頷く。もう一本あるから大丈夫と反対の手でもう一本の爪楊枝を指し示すと、ほっとしたようなふわりとした笑みを浮かべた律樹さんが俺の手をそっと握った。そして顔を近づけさせながら口を開き、そっと目を閉じ――

「……?」

 俺の大好きな香りがふわりと香ったかと思えば、次の瞬間には爪楊枝の先に刺さっていたたこ焼きが消えていた。あれ?と思いながら隣を見ると、はふはふとしながら口を動かしている律樹さんの姿。

「…………?」

 ……今、何が起こった?
 視線を自分の手元に戻す。俺の手に残っているのは爪楊枝のみ。先に刺さっていたたこ焼きは、ともう一度隣を見ると丁度口の端についたソースを指の腹で拭っている所だった。

「……ッ!」
「ん、ありがとう。美味しかった」

 目を細め、口元を緩めた律樹さんがあまりにも優しい声を出すものだから、俺の心臓はもう破裂しそうなほどにドキドキしていた。触れているところから伝わってしまうんじゃないかってくらい大きな鼓動で視界が小さく揺れる。

「……顔、真っ赤だね」

 そう言う律樹さんの頬もほんの少し色づいていた。
 さっきまでの喧騒は聞こえず、自分の心臓の音と律樹さんの声だけが耳に届く。律樹さんには秘密だったのになんてことも頭から抜け落ち、俺はただ彼に会えたと言うだけで満たされた気持ちになっていた。

 律樹さんから視線を逸らし、俺はまだ微かに湯気が上るたこ焼きを一つ口に入れた。口いっぱいに広がるソースの香り、そして噛んだところから出てくる熱くてとろとろとした中身に思わず笑みが溢れる。はふはふと口を小さく開閉しながら食べたあとこくりと飲み込んだ。
 美味しい。久々に食べたからというのもあるだろうけれど、思わず顔が綻ぶほどにそれは美味しかった。

「ふふっ、弓月こっち向いて」
「……?」
「ソースついてた」

 俺の口元に冷たい指先が触れる。離れていく指を呆然と見つめていると、律樹さんが徐にその指先をぺろりと舐めた。全身が沸騰したかのように一気に熱が湧き上がる。悪戯げに笑う彼の表情に、俺はぱくぱくと口を動かすことしかできない。完全にキャパオーバーだ。

「ねぇ、弓月」

 真剣な声色が俺を呼び、漸く我に返った。
 さっきまでの甘い空気は一変し、またピリついた空気が漂い始める。風邪をひきそうなくらいの温度差に、体がぴしりと固まった。

「誰と来たの?」

 そう言うと同時に律樹さんがポケットから取り出したスマホを俺に差し出した。今まで気づかなかったけれど、律樹さんの服装は今朝のスーツではなくて動きやすそうな服装になっている。やっぱり文化祭だと動くことも多いのかなぁ……なんて考えていると、不意に手が少しひんやりとした大きな手に包まれた。

「……誰から貰った?」

 ぎらりと目が光ったような気がした。こくりと喉が上下し、無意識に視線が下がる。包み込まれた手の中にあるスマホを指先で撫でると、添えられた手の力が少しだけ緩んだ。

「……弓月?」
『ここには六花さんと来た。チケットは壱弦から貰った』
「あの二人か……なるほどねぇ……」
『ごめんなさい』

 スマホに視線を落としたまま上げることができない。律樹さんが怒っているのか呆れているのかを確かめるのが怖くて、早々に謝罪の言葉を綴る。するとスマホを持つ俺の手の甲を律樹さんがするりと撫でた。触れるか触れないかを行き来する指先に背筋がぞくぞくとする。

 今は家の中じゃなくて外なのに、変な気分になりそうだ。足元から湧き上がる熱に、徐々に大きくなる鼓動。自分の体なのに意思とは関係なく動き始める。

「帰ったら……お仕置きだね」
「……っ」

 心臓が痛いほどに高鳴っている。お仕置きだって言われているのに、どうしてこんなにも全身が喜びに打ち震えているのかがわからない。律樹さんは何があっても痛いことや俺が嫌がることをしないってわかっているからだろうか。
 律樹さんの方を見れば、彼は目を細めながら微笑んでいる。今はそこに微かな怒気も感じなかった。秘密にされていたのだから怒ればいいのにと思う反面、優しげな相貌に安堵している自分がいる。

 俺は静かに視線を膝に落とし、小さく頷いた。
 

 
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