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第三章
幕間 高校最後の文化祭準備 前編(壱弦視点)
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※このお話は弓月と再会する前の刈谷壱弦のお話です。
高校最後の文化祭準備が始まった。
まず決めたのはクラス全員が着るクラスTシャツの色やデザインである。学級委員二人が教卓に立ち、担任が貸してくれたというカタログを片手に一人が黒板に色を書いていく。青や赤、黄などの原色からパステル系まで様々な色があるようで、あっという間に黒板を白い文字が埋め尽くしていった。
「まずは原色かパステルかを多数決で決めます。公平を期すため、全員顔を伏せて下さい」
静まり返った教室に桃矢の声が響き渡る。桃矢の声は昔からよく通るとは思っていたが、ここまでだっただろうか。高くもなく低くもない心地良い声が脳に直接届いているかのようにすんなりと身体が言うことを聞く。
机に突っ伏し、耳に届く桃矢の声を頼りに手を挙げる。しんとした教室内にぱらぱらと聞こえてくる机を打つ小さな音に、ああこれは原色に決まったなと思った。
顔を上げて下さいという桃矢の声に従って顔を上げるとやはり原色の方が多かったようで、黒板にはピンク色のチョークで大きく丸が描かれていた。その後、色も同じ方法で多数決を取っていく。時間かかるだろうなぁ、なんて思いながら机に突っ伏したまま視線を窓の方へと向けた。
青々とした夏の空が広がり、その中に明暗がくっきりとしたホイップクリームのような雲が浮かんでいる。閉め切った窓から聞こえてくる蝉の声に、夏だなぁと思った。
予想よりも随分と早く色が決まり、次にどんなデザインにするかを考えていくらしい。どんな文字を入れるか、どんな絵を入れたいかなどを出し合い、ある程度決まったところでデザイン担当を選ぶ。
美術部でもなんでもない俺は、自分は関係ないとばかりに机に肘をついてぼんやりと窓の外を眺めたままだった。このクラスには美術部員や絵が上手い奴が何人かいるからそいつらがやるんだろう。……そう思っていたのに。
「壱弦」
よく通る声が俺を呼ぶ。聞き慣れた、けれど最近はあまり呼ばれることがなくて少しの懐かしさを感じるそれに、俺は教室の中に視線を戻した。
あいつと同じ黒色の瞳が、あいつよりも鋭い視線で俺の目を射抜く。ここ日本という国において黒い瞳は決して珍しくはない。なのにどうしてこんなにも胸がざわつくのだろう。
「……なに」
いつの間にかそばに来ていた桃矢が俺を見下ろしながら眉を顰める。俺を睨みつけてくるその瞳をぼんやりと見つめながら首を傾げた。
「デザイン作成、お願いしてもいい?」
「……なんで俺?」
「壱弦、絵上手いから」
「……俺なんかより美術部に頼めよ」
「なんで?」
「なんでって……」
俺は開いた口を噤んだ。本当に純粋にどうしてかわからないというような視線に言葉が続かなかったんだ。
窓から差し込む陽の光が桃矢の顔を照らし出す。久しぶりに桃矢の顔を間近で見たような気がする。一瞬、一緒に遊んでいた頃を思い出して懐かしいような気分になったが、それももう一度名前を呼ばれたことで一気に霧散した。
初めて知ったのだが、よく見ればこいつの瞳は黒ではなく茶色だった。限りなく黒に近いが光に反射したそれは俺と似たような色をしている。あいつとは違うその色に、俺はどこかほっとしていた。
「兎に角、絵なんて最近全く描いてないし……俺には無理だ。……他を当たれ」
高校に入ってすぐ、俺は絵を描くことをやめた。
理由なんてない。ただ描く気力が湧かなくなった、それだけだ。
絵を描けばあいつが褒めてくれた、喜んでくれた、笑ってくれた――たったそれだけの理由で描いていた絵だった。だからあいつがいなくなった瞬間から書く意味を失って、描かなくなったのかもしれない。
俺は自嘲を浮かべながらふいっとそっぽを向く。窓の外はこんなにも晴れ渡っているのに、俺の心はずっと曇ったままだ。
「僕は……壱弦に描いて欲しいと、思ってる」
「…………は?」
突然何を言い出すんだというように桃矢を見る。
いつも親の仇でも見るかのように鋭く睨んできたり、何か言いたそうな目をしていたり、顔を逸らしたりと俺に正の感情を抱いていなさそうな反応をしているくせに、今の桃也の目や表情は真剣そのものだ。なんで、と内心呟く。どうしてこいつはそこまでして俺に描かせたいのかがわからなくて、俺はぽかんと口を開いたまま桃矢を見つめていた。
「その……勿論、他にも頼む予定だけど、僕は壱弦にもして欲しい」
お願いしますと軽く頭を下げられ、俺は驚きのあまり何も言えなくなってしまった。あの桃矢が俺に頭を下げるなんてどういうことだという驚きだ。
俺も教室にいるはずなのに、同じ教室内にいるクラスメイトたちの話し声が遠くに聞こえる。
呆然と瞬きを繰り返して桃矢の顔を見つめていると、それまで鋭い眼光が放たれていた瞳が微かに揺れた。
「……駄目?」
「……」
さっきまでの威圧感は何処へやら。眉尻を下げて僅かに伏せられた目がまるで捨てられた子犬のように見え、ぐっと言葉に詰まる。
どうしてこいつが頭を下げてまで俺に描いて欲しいと思っているのかはわからない。昔とは違いそんなに仲が良いわけでもないただの幼馴染である俺に、ここまでする意味や価値があるとも思えなくて悩む。
だが問題はそれだけじゃない。俺にこれ以上描くことを拒否する理由がないということも問題だ。描く気力がなくてただ描いていなかっただけで、そこに高尚な理由があるわけでもない。だからこれ以上拒否することが不誠実なようにも思えてくる。
「……考えとく」
「!……うん、ありがとう」
少しくらいなら考える時間もあるだろう。他にも決めなければならないことは沢山あるのだから、その中でやりたいことがなければ考えてみても良いだろうとは思う。
俺は黒板の前に戻っていく桃矢の背中を眺めながら、そっと溜息をこぼした。
高校最後の文化祭準備が始まった。
まず決めたのはクラス全員が着るクラスTシャツの色やデザインである。学級委員二人が教卓に立ち、担任が貸してくれたというカタログを片手に一人が黒板に色を書いていく。青や赤、黄などの原色からパステル系まで様々な色があるようで、あっという間に黒板を白い文字が埋め尽くしていった。
「まずは原色かパステルかを多数決で決めます。公平を期すため、全員顔を伏せて下さい」
静まり返った教室に桃矢の声が響き渡る。桃矢の声は昔からよく通るとは思っていたが、ここまでだっただろうか。高くもなく低くもない心地良い声が脳に直接届いているかのようにすんなりと身体が言うことを聞く。
机に突っ伏し、耳に届く桃矢の声を頼りに手を挙げる。しんとした教室内にぱらぱらと聞こえてくる机を打つ小さな音に、ああこれは原色に決まったなと思った。
顔を上げて下さいという桃矢の声に従って顔を上げるとやはり原色の方が多かったようで、黒板にはピンク色のチョークで大きく丸が描かれていた。その後、色も同じ方法で多数決を取っていく。時間かかるだろうなぁ、なんて思いながら机に突っ伏したまま視線を窓の方へと向けた。
青々とした夏の空が広がり、その中に明暗がくっきりとしたホイップクリームのような雲が浮かんでいる。閉め切った窓から聞こえてくる蝉の声に、夏だなぁと思った。
予想よりも随分と早く色が決まり、次にどんなデザインにするかを考えていくらしい。どんな文字を入れるか、どんな絵を入れたいかなどを出し合い、ある程度決まったところでデザイン担当を選ぶ。
美術部でもなんでもない俺は、自分は関係ないとばかりに机に肘をついてぼんやりと窓の外を眺めたままだった。このクラスには美術部員や絵が上手い奴が何人かいるからそいつらがやるんだろう。……そう思っていたのに。
「壱弦」
よく通る声が俺を呼ぶ。聞き慣れた、けれど最近はあまり呼ばれることがなくて少しの懐かしさを感じるそれに、俺は教室の中に視線を戻した。
あいつと同じ黒色の瞳が、あいつよりも鋭い視線で俺の目を射抜く。ここ日本という国において黒い瞳は決して珍しくはない。なのにどうしてこんなにも胸がざわつくのだろう。
「……なに」
いつの間にかそばに来ていた桃矢が俺を見下ろしながら眉を顰める。俺を睨みつけてくるその瞳をぼんやりと見つめながら首を傾げた。
「デザイン作成、お願いしてもいい?」
「……なんで俺?」
「壱弦、絵上手いから」
「……俺なんかより美術部に頼めよ」
「なんで?」
「なんでって……」
俺は開いた口を噤んだ。本当に純粋にどうしてかわからないというような視線に言葉が続かなかったんだ。
窓から差し込む陽の光が桃矢の顔を照らし出す。久しぶりに桃矢の顔を間近で見たような気がする。一瞬、一緒に遊んでいた頃を思い出して懐かしいような気分になったが、それももう一度名前を呼ばれたことで一気に霧散した。
初めて知ったのだが、よく見ればこいつの瞳は黒ではなく茶色だった。限りなく黒に近いが光に反射したそれは俺と似たような色をしている。あいつとは違うその色に、俺はどこかほっとしていた。
「兎に角、絵なんて最近全く描いてないし……俺には無理だ。……他を当たれ」
高校に入ってすぐ、俺は絵を描くことをやめた。
理由なんてない。ただ描く気力が湧かなくなった、それだけだ。
絵を描けばあいつが褒めてくれた、喜んでくれた、笑ってくれた――たったそれだけの理由で描いていた絵だった。だからあいつがいなくなった瞬間から書く意味を失って、描かなくなったのかもしれない。
俺は自嘲を浮かべながらふいっとそっぽを向く。窓の外はこんなにも晴れ渡っているのに、俺の心はずっと曇ったままだ。
「僕は……壱弦に描いて欲しいと、思ってる」
「…………は?」
突然何を言い出すんだというように桃矢を見る。
いつも親の仇でも見るかのように鋭く睨んできたり、何か言いたそうな目をしていたり、顔を逸らしたりと俺に正の感情を抱いていなさそうな反応をしているくせに、今の桃也の目や表情は真剣そのものだ。なんで、と内心呟く。どうしてこいつはそこまでして俺に描かせたいのかがわからなくて、俺はぽかんと口を開いたまま桃矢を見つめていた。
「その……勿論、他にも頼む予定だけど、僕は壱弦にもして欲しい」
お願いしますと軽く頭を下げられ、俺は驚きのあまり何も言えなくなってしまった。あの桃矢が俺に頭を下げるなんてどういうことだという驚きだ。
俺も教室にいるはずなのに、同じ教室内にいるクラスメイトたちの話し声が遠くに聞こえる。
呆然と瞬きを繰り返して桃矢の顔を見つめていると、それまで鋭い眼光が放たれていた瞳が微かに揺れた。
「……駄目?」
「……」
さっきまでの威圧感は何処へやら。眉尻を下げて僅かに伏せられた目がまるで捨てられた子犬のように見え、ぐっと言葉に詰まる。
どうしてこいつが頭を下げてまで俺に描いて欲しいと思っているのかはわからない。昔とは違いそんなに仲が良いわけでもないただの幼馴染である俺に、ここまでする意味や価値があるとも思えなくて悩む。
だが問題はそれだけじゃない。俺にこれ以上描くことを拒否する理由がないということも問題だ。描く気力がなくてただ描いていなかっただけで、そこに高尚な理由があるわけでもない。だからこれ以上拒否することが不誠実なようにも思えてくる。
「……考えとく」
「!……うん、ありがとう」
少しくらいなら考える時間もあるだろう。他にも決めなければならないことは沢山あるのだから、その中でやりたいことがなければ考えてみても良いだろうとは思う。
俺は黒板の前に戻っていく桃矢の背中を眺めながら、そっと溜息をこぼした。
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