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第三章

四十五話 気付かないふり

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 全身がぶるりと震えた感覚で目が覚めた。
 なんだか寒いような気がする。何かに触れているらしい右半身は、触れた場所が俺の熱を吸い取っているのか僅かに温かかったがそれ以外は寒かった。
 目を閉じるとぐらぐらと揺れているような感覚がして、仕方なく再び目を開ける。するとほんの少しだけ気持ち悪さが去ったような気がした。
 
 目の前に映るのは白色と灰色の床のようなもの。ぴくりと動いた指先がその灰色の表面の凹凸を僅かになぞっていく。固くもなく、かといってそんなに柔らかくもないそれには見覚えがあった。確か律樹さんが俺の為に引いてくれたんだっけと思った時、漸くここがお風呂場であることに気がついた。

(あれ、俺……なんでお風呂で寝て……?)

 今の自分の状況が理解できず少しの間うつ伏せに寝転んだ状態のまま考えていると、ふと自分は倒れたのかと思い至った。目を動かしていくと俺の腕や脚が視界に入り、この時やっと自分が裸のままだったことを知る。通りで寒いわけだ。
 厚みのあるお風呂マットを敷いていたお陰で身体はどこも痛くはないし、触れた箇所は冷たさを全く感じないが、僅かに濡れているせいで空気に晒された素肌は思った以上に冷え切っているようだ。
 
 気怠さの残る力の入らない身体を懸命に起こし、湯船の淵に背中を預けるようにして座る。するとさっきまで触れていた箇所から熱が遠ざかり、代わりに濡れた部分に空気が触れたことによって寒さが増した。

(ああ、そうか……俺、病院から帰ってきて……風呂に入って……?)

 いつものように抑制剤の点滴をして帰っただけなのに、どうしてこんなことになったのかがわからない。確かに抑制剤を点滴した後は身体が少し怠くなることが多かったが、ここまでではなかったと思う。
 だとすれば普段とは違った事――煙草の煙や匂いが原因だとでもいうのだろうか。

(……いやまさか、な……)

 なんとかお風呂場から出てバスタオルに身を包んだ俺は、カタカタと震える身体でどうにか部屋着を着て律樹さんのベッドに潜り込んだ。
 
 もう九月とはいえ、まだ外は残暑厳しいというのに俺の身体は氷のように冷え切っている。小刻みに震える身体を自分の二本ある腕で抱きしめてぎゅっと小さく丸まった。
 布団に包まりながらすんと鼻を鳴らすと律樹さんの香りが肺を満たしていく。彼のベッドなのだから当たり前なんだけど、それでも嬉しいものは嬉しかった。
 大好きな人の大好きな香りに包まれていると、なんだか律樹さんに抱き締められているような感じがして嬉しくなる。安心できる居場所を見つけたとでもいうように、俺の身体から力が抜けていくのがわかった。

 それから律樹さんが帰ってくるまでの間、ずっと布団に包まって眠っていた。少しでも体調が良くなるように、発熱することのないようにと願いながら眠っていたお陰か、寝る前よりも体が軽く体調は良さそうだ。そのことにほっとしながら、俺はベッドから立ち上がってガチャガチャと音を立てる玄関へと向かった。

「ただいま、弓月。ふふっ、もしかして寝てた?ここ、寝癖ついてる」

 律樹さんの前に立っておかえりと口を動かしながら見上げると、彼はくすくすと笑いながら俺の頭を優しく撫でた。それが気持ち良くてつい目を細めてしまう。

「今日は病院だったよね、どうだった?」

 一瞬考えるように俯いてしまったが、いつも通り何もなかったよと頭を静かに横に振る。心配をかけたくなかったからお風呂場で倒れたことは言わないことにした。秘密事が増えた所為か、彼の目を見ることが出来ない。
 俺は顔を俯かせたままちらりと律樹さんの表情を盗み見たが、彼はもう俺のことを見てはいなかった。それにほっとしつつも、同時にちくりとした痛みを感じた。

 ちらりと見えた律樹さんの横顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。目の下には薄らと隈が浮かびます、肌の色は青白い。連日遅くまで仕事をしている彼にこれ以上心労を増やすわけにはいくまいと、俺はぐっと拳を握りしめた。

「もうお風呂は入った?」
「……っ」

 バレないようにと気合を入れたばかりだというのに、お風呂という単語にぴくりと肩が跳ねてしまう。ドッドッと大きくなっていく鼓動を他所に、俺は慌てて頭を横に振った。勢いよく振りすぎたせいで頭がくらりと揺れ、俺は体勢を崩す。

「っと……もしかして、体調悪い?」

 前に倒れかけた俺を律樹さんの腕が支えてくれた。服越しに伝わる彼の熱にほっと息を吐きながら、なんでもないと小さく首を振る。
 ちょっとくらっとしただけだというようにへらりと笑うと律樹さんは一瞬怪訝そうな表情をしたが、すぐにしょうがないなと困ったように笑ってくれた。そして俺の身体を包み込むように抱き締めてくれる。

 その後はいつも通りだった。
 律樹さんと一緒にお風呂に入り、俺は頭の先から足の爪先まで綺麗に律樹さんに洗われた。本当はもう体も動くのだから自分で洗うと言いたいところだが、俺を洗う律樹さんがあまりにも楽しそうで俺には何も言えない。寧ろそんな彼の表情に嬉しくなってしまうんだ。
 お風呂から出ると今度はふわふわの柔らかなタオルで全身を包み込むようにして抱き締められる。タオル越しに伝わる熱や力に、俺は昼間のことなんてすっかり頭から抜け落ちてしまうくらい心が落ち着いていく。

 それからご飯を食べて歯を磨き、二人で寝室に向かった。そしてぎゅうっと律樹さんに抱き締められながらベッドに横になる。

「ねぇ……今日は病院、だったんだよね?」
「……」

 腕の中で小さく頷く。どうしたんだろうと思いながらちらりと彼を見上げるが、俺の大好きな琥珀色は見えなかった。続けて抑制剤と血液検査だったよねと聞かれ、もう一度首を縦に振る。

「……本当?」

 聞かれている言葉はわかるけれど意図が掴めずに小さく首を傾げる。何が引っ掛かっているんだろうと疑問に思いながらも、もしかして今日の昼間のことがバレたのではと内心冷や汗が止まらない。
 しかし俺の心配とは裏腹に律樹さんは俺の額に軽く唇を落として、そっかと笑った。

「ねぇ……少しだけ、プレイ……する?」
「……?」

 いつもなら病院に行った日は疲れているだろうし、薬のおかげでよくも治っているだろうからとしないはずだ。なのにどうしてか律樹さんはそう言った。

 俺は律樹さんとするプレイが好きだ。一緒にいるのも勿論好きだけど、プレイは特別。誰とでも出来るわけではないし、誰としても幸せな気持ちになれるわけではない。律樹さんとだからプレイをするし、幸せな気持ちになれるんだ。

 けれど俺は、首を横に振った。
 今日はしない、このまま寝るのだと彼の胸に顔を埋めてもう一度頭を擦り付けるように横に振る。本当は俺だってしたい。でもそれは絶対に独りよがりな気持ちでしてはいけないとも思っているからこそ、俺はあえて今日はしないという選択肢をとった。
 だって律樹さんは今仕事がとても大変で疲れているんだから、俺なんかのことよりもゆっくり休んでほしい。恋人だからって……いや、恋人になったからこそ俺は律樹さん自身に無理をしてほしくなかった。

 暫く待ってみたが、律樹さんからの反応はない。もしかして俺は答えを間違えたのかと恐る恐る顔を上げると、律樹さんは目を瞑っていた。すーすーと穏やかな寝息が耳に入り、俺はふぅと息を吐き出す。

(寝てる……よっぽど疲れてたんだな……)

 思い返せばプレイをするかと聞いてきた彼の声も眠そうだったように思う。どこか譫言のような、そんな呟きだった。
 どうしてすぐに眠ってしまうほどだったにも関わらず、そんな質問をしてきたのかはわからない。当の本人も眠ってしまったために答えを得ることはできない。

 彼の腕の中から抜け出し、枕元にぺたんと座り込む。手を足の前につき、俯き加減になりながら律樹さんの寝顔を見下ろした。起きている時よりも少し幼い顔に胸が高鳴る。
 
 俺よりも五つ年上の同性の従兄弟であり、俺が知る限りで一番優しくて穏やかなDomであり、そして恋人。

 栗色の柔らかな髪を優しく撫でると、彼の表情がほんの少しだけ柔らかなものになった。前髪を指先で掻き分け、顕になった額に軽く口付けを落とす。

(好き……大好き、律樹さん)

 心の中で言うだけでは足りない。口を開け、声を出そうと力を入れるが、息が詰まって空気すら出なかった。
 やっぱりまだだめかと自嘲気味に笑って、もう一度額にキスをする。おやすみなさい、そう口を動かして俺はまた律樹さんの腕の中に戻っていった。


 
 明日、俺は律樹さんに内緒で文化祭に行く。
 何かを思い出せるかもしれない、そうすればもしかしたら声が出るかもしれないと淡い期待を胸に抱きながら、俺は律樹さんの腕の中で眠りについた。

 
 
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