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第二章

閑話 瀬名律樹と告白前夜

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※このお話は「三十六話 やってしまった」と「三十七~三十九話 お出掛け」の間の律樹視点のお話です。



 昨日は土曜日だったにも関わらず朝から晩まで仕事をして、帰ってきた時には既に夜九時を回っていた。金曜日にしたプレイの影響か、俺が家を出る時にもまだ弓月は眠ったままで何も話せなかったために夜こそはと意気込んでいたのだが、帰宅出来たのは既に弓月は眠った後だった。
 
 居間のソファーで眠る弓月の寝顔を確認したあと、すぐにシャワーを浴びてからもう一度居間に向かう。
 
 もしかして俺が帰ってくるのを待っててくれたのだろうか。眠る前はしっかりとソファーに腰掛けていたのか、足は床についたまま腰から上が倒れ込むような形で座面に横たわっていた。
 そんな弓月の身体の膝裏と背中に腕を回して慎重に抱き上げ、いつも一緒に眠っている寝室のベッドへと運ぶ。ベッドの真ん中よりも右側にそっと身体を寝かせると、弓月が声もなく身じろぎをした。どうやらひんやりとしたマットの感触が気に入らなかったようだ。
 幼い子どもを寝かしつけるように、大丈夫と小さく言い聞かせながら胸の辺りをとんとんと優しく叩くと、弓月の眉間から皺が消えて代わりにふにゃりとした柔らかな笑みが浮かぶ。その表情があまりにも愛らしくて、俺の心臓は大きく音を立てて跳ね上がった。

「おやすみ、弓月」

 そう言って顔にかかっ前髪を指先で掻き分け、顕になった白くてまろい額に軽く唇を当てた。
 ここに住み始めた頃よりも短くなった黒髪は相変わらず艶やかで触り心地がいい。髪を梳くように撫でると指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていく。そこに窓から注ぎ込んだ月の光が反射し、まるで光を纏っているかのようにキラキラと輝きながら流れ落ちていった。

 白く滑らかな頬にそっと指先で触れる。ここに来てすぐの頃は骨と皮しかないくらいに痩せ細り、少しやつれた印象があったのだが、今は違う。まだまだ少ないとはいえご飯もしっかりと食べられるようになってきた彼の頬には、薄らとではあるが肉が戻ってきているようだ。少し前まではあまりなかった頬のふにふにとした感触に思わず笑みが溢れた。
 
 未だ幼さの残るあどけない寝顔に胸がとくとくと音を立てる。愛しいという感情が際限なく溢れ、俺を満たしていくようだ。
 これを幸せって言うんだろうなぁ、なんて思いながら俺は弓月の身体に、彼のお気に入りのタオルケットをそっと掛けた。


 
 明日は待ちに待った日曜日なんだから早く寝ろよと自分でも思うのだが、現実はそう上手くはいかない。もうすぐ日付が変わる時間だと言うのに俺の目は昼間と変わらずぱっちりと覚めていた。
 理由はわかっている。それはまるで遠足前の小学生のような理由であり、思わず自嘲の含んだ笑みと共に溜息が出てしまうくらいに酷い理由だ。
 つまり明日が楽しみすぎて眠れないのである。

 今回は学校に忘れ物をしていないことは既に確認済みだ。学校を出る前に何度も何度も念入りに持ち物の確認をしたため、本来出かける予定だった先週のように取りに学校に行くことはまずない。純粋に明日は弓月とのお出掛けを楽しむだけだ。
 
 とはいえ、明日を思い切り楽しむ為には寝ないわけにもいかない。このままだと運転にも支障が出るかもしれないし、そうなれば弓月の命にも関わってくる。
 俺は微塵も感じられない睡魔を呼び寄せる為に、一人晩酌をすることにした。

 そうと決まればとすぐにキッチンへと向かった。冷蔵庫や冷凍庫を漁り、必要なものを必要な分だけシンク横の調理スペースに出していく。
 まず冷凍庫から冷凍した鶏皮を取り出した。これは一昨日棒棒鶏を作った際に余ったものである。今回は冷凍庫や冷蔵庫の整理も兼ねているので、こういうものも積極的に使っていくつもりだ。あとは期限の近い豆腐やらサラダの余りのカット済みトマトやらを冷蔵庫から取り出し、数種類の簡単なおつまみを作った。

 居間のテーブルに作ったおつまみたちを並べていく。鶏皮ポン酢や塩昆布と胡麻油で味付けをした角切りトマトを乗せた冷奴やチーズ煎餅などが並び、最後に大きな氷が入った透明のグラスを置いた。このグラスには、少し前に開けたばかりのウイスキーを注いでいく。
 グラスを持ち上げると中の氷がグラスに軽く当たり、涼しげな音を立てた。照明の光がグラスに当たり、ゆらゆらと揺れる黄金色が光を反射するように煌めいている。

「いただきます」

 誰に言うでもなく、一人宙に向かって小さくグラスを掲げて乾杯のような仕草をした後、グラスの中身を半分ほど一気に煽った。瞬間、喉がカッと熱くなる。氷で冷えた液体が喉を通り、体の中で熱に変わっていく心地に思わずはあぁ……と気の抜けたような声がこぼれた。一週間激務に耐えた体にアルコールが隅々まで染み渡っていくようだ。

 たまに料理を挟みながらグラスの中身を煽る。本来ならばちびちびと飲んでいくものなのだが、なんとなく今日はそんな気分にはなれなくていつもよりも少し早いペースで飲んでいった。
 二杯目となるウイスキーをグラスに注ぎ、こくりと喉を鳴らしながら一口飲み込んだ。一杯目とは違い、二杯目は香りや味を楽しむように少量ずつ口に含んでいく。口いっぱいに広がる芳醇な香りがとても心地よく感じた。

 グラスの上の方に指をかけながら持ち上げ、ほんの少し斜めに傾ける。カランと音を立てた氷を再度居間の照明に照らしながら、キラキラと輝く透明な氷と透き通った黄金色を眺めた。
 なんとなく視線を向けた先、僅かに表面が溶けた氷から滲み出た水がウイスキーの黄金色の中で靄のようなものが波打っている様子が見える。ほんの少し傾ける角度を変えると、靄のようなものが光を帯びながら黄金色の液体の中で揺らめいた。

 ぐっと一口ウイスキーを飲む。冷たさと熱さが一気に湧き立つような感覚にほうと息を吐き出した。
 持っていたグラスをテーブルの上に置いて手を離す。グラスの縁に人差し指の先を添え、ゆっくりと沿うように滑らせていきながらぽつりと呟きがこぼれた。

「……明日は、話したいなぁ」

 誰と、なんて決まっている。
 俺が話したいのはただ一人、弓月だけだ。
 
 金曜日のあの夜から俺と弓月は話せていない。まあ今はまだ弓月の声が出ないのだから話せないと言う表現はおかしいのかもしれないが、それでも思いを確認し合うという点では話し合いという言葉であっているような気もする。
 
 何を話したいかといえば、もちろん昨日のことだ。昨日弓月が形作った『すき』という言葉の意味を、もう一度確認したかった。それが家族愛としての『好き』なのか、それとも恋愛の『好き』なのか。俺はただそれが知りたい。
 勿論俺は弓月のことを恋愛の意味で好いているけれど、相手もそうだとは限らない。もし仮に彼の『すき』が家族愛の意味でだと言うのならば、俺はこの想いを永遠に心の中に閉じ込めておくつもりだ。
 けれどもし……もしも弓月の『すき』が俺と同じ意味を持っているのだとしたら、その時は――

「……っ」

 手に持ったグラスの中身を一気に煽り、喉の奥へと流し込む。ウイスキーが通った後の器官が焼けるように熱くなったが、そんなことはどうでもいい。冷たいはずのそれが熱を持ったまま各器官へと染み渡っていくのと同時に、俺の体は別の熱に胸を高鳴らせていた。


 
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