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第二章

閑話 保科慶士は珈琲が飲みたい 後編

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 刈谷壱弦という生徒は、この学校では派手な部類に入る見た目の割に大人しい生徒だった。
 見た目が派手とは言っても彼の明るい髪色は一切染めたことのない地毛だそうだし、制服を改造したり大きく着崩しているわけでもない。素行や成績も決して悪いものではないのに、校則でアクセサリー類が禁止されているにも関わらず耳のピアスは決して外さないという矛盾が目立つ生徒だった。
 
 以前律樹が教えてくれたのだが、坂薙弓月はこの高校の生徒だったらしい。この高校に入学し、ある時までは通っていたにも関わらず辞めざるを得なくなったのだと言っていた。もし辞めずにそのまま通っていれば今頃は刈谷と同じ三年だったのだと思い出したのは、彼ら二人が向かい合って話し始めた時だ。

 声が出ない坂薙は筆談で会話をする。その為同じベッド横とはいえ、少し離れた場所にいる俺と律樹からは会話の全貌は見えない。先ほどとは打って変わって落ち着いている刈谷が、ペンを走らせていく坂薙の様子をじっと眺めていた。その表情はとても穏やかで、俺は既視感を覚える。
 刈谷から視線を外し、目の前の律樹を見た。後ろ姿からは表情なんてわかるわけがないのに、どうしてか手に取るようにわかった。きっと今のあいつは俺が見たことのないような表情をしているのだろう。刈谷という生徒に対してか、それとも坂薙という従兄弟に対してか。どちらにしろ面白くなさそうな顔をしているに違いない。

「俺の名前は刈谷壱弦。弓月は俺のことを壱弦って呼んでた。小学校も同じだったんだけどその頃はあまり話さなかったかな……でも中学に入ってからはたまに弓月と話すようになって、三年の頃には……それなりに仲が良かったと思う。だから一緒の高校を受けてこの高校に入った」

 そんな刈谷の声が耳に届く。ぽつりぽつりと独り言でも呟いているように穏やかで凪いだ声色に、俺はさっき抱いた既視感の理由がわかった。

(そうか……刈谷も、律樹と同じなのか)

 久々に会ったからというのもあるかもしれない。けれどただの友人にしては好意が溢れすぎているように感じる。それは律樹も同じだ。坂薙弓月という従兄弟のことを話す律樹からは好意がだだ漏れで、彼にとってはただの従兄弟ではないんだろうなということは、本人から伝えられる前からなんとなくわかっていた。今の刈谷も同じなのだろう。話す声色もそうだが、坂薙を見つめるその瞳からは彼を愛おしく想う感情が溢れているようだった。

「高校に入ってからも同じ。……あ、でも同じクラスになれたな。弓月が来なくなるまでは多分ずっと一緒にいたと思う。……あぁ、でもあの時だけは」

 そこで不意に刈谷の声が途切れた。何か言いにくいことでもあるのだろうか、僅かに震えた唇が言うべきかどうか迷うように小さく開閉している。開いた窓から聞こえてくる蝉の合唱が耳を打つ。静寂を切り裂くように大きさを増していく蝉の声に、俺はふと窓の外に視線を向けた。もう九月に入ったというのにまだまだ夏が続きそうな景色に、俺はそっと息を吐き出す。

 ガタンッ、と音がして俺は視線を室内へと戻した。続いて律樹の声が聞こえてくる。先程の音は律樹が椅子から慌てて立ちあがろうとした時に鳴った音のようだ。体の横に添えられた両の手が僅かに動いている。今すぐに抱き締めたい衝動に駆られているのだろうが、それでも今は目の前の二人を見つめるだけにとどめていた。
 坂薙の視線がこちらを向く。真っ直ぐに律樹を見つめながら眉尻を下げ、申し訳なさそうに笑った。その瞬間律樹の手がぴくりと反応し、坂薙に向かって伸ばされそうになったのを俺は止めた。

「待て、律樹」
「……わかってる」

 随分不満気な了承だったが、それでもこいつなりに色々と葛藤しているんだろうなと思い、それ以上は何も言えなかった。
 刈谷が手のひらに金色の玉のようなものを乗せて坂薙と話をしている。刈谷は何かを思い出しているのか、その金色を見つめながら穏やかで少し憂いを帯びた笑みを浮かべていた。

 不意に律樹が俺の方を向いた。腕を組み、俺を見つめる日本人にしては少し薄めの瞳は相変わらず強く輝いている。何か言いたいことでもあるのかと視線を送ると、律樹は一瞬青年二人の方に視線を移して眉間に皺を寄せた。恐らく「そろそろ弓月とこいつを離れさせたい」と言ったところだろうか。その仕草だけでも大体の意図が汲み取れたため、俺は返答として静かに首を振った。

 目の前の二人は今肩を寄せ合いながら電子パッドに何かを書いて会話をしているようだ。坂薙が目を僅かに伏せ、電子パッドの画面を指先で撫でていく。何の文字に触れているのかはわからないが、恐らく彼にとっては大事な言葉なのだろう。

「あ、そうだ。弓月はスマホ持ってる?もしよかったら俺と連絡先、交換しないか?スマホだったら声が出なくても会話できるだろ?」

 突然聞こえてきたそんな言葉に、律樹の肩がぴくりと動く。今日呼ばれてから思っていたことだが、こいつは結構独占欲が強いらしい。……いや俺は昔からこいつの独占欲が強かったことを知っているような気がする。それを思ったのがいつだったかは思い出せない。喉の奥に詰まった小骨のように、あと少しのところで出そうなのに出ない気持ち悪さがあるが、やはりどれだけ思い出そうとしても無理だった。

 目の前で何かが動いた気がして顔を上げると、坂薙が文字の書かれた電子パッドの画面をこちらに向けていた。全身からそわそわとした気持ちが感じ取れる。その様子がまるで待てと言われている犬のように見えて思わず口許が緩んだ。
 対して律樹の方はというと、腕を組んだ状態のまま眉間に皺を寄せている。教えたくないと言いたいが坂薙のお願いは叶えてやりたいといったところだろうか。青年二人の表情が少しずつ暗くなっていくのを視界の端に捉えた俺は、小さく息を吐き出してから律樹の肩に手を置いた。ぐ、と言葉を詰まらせつつさらに眉間の皺を深くした彼は、やがて諦めたように深い深い溜息を吐き出した。
 坂薙は不安そうにしながらも笑みを浮かべている。それがどういった意味なのかはわからないが、二人で会話した時のように変な方向に考えていなければいいと思った。

「律樹」
「……わかってる」

 中々言い出さない律樹を急かすように呼ぶと、あいつは不貞腐れた子どものような反応を返してきた。それに溜息で返すと、さらに溜息が返ってくる。落ち着かせるように一度瞼を閉じた律樹が再び目を開いた時、そこにさっきの子どものような律樹はいなかった。

「……いいよ。弓月が連絡先を交換したいならしてもいいんだよ。……はい、スマホ」

 そう言って自身のスラックスのポケットからスマホを取り出し、坂薙の手のひらに置く。彼の花の綻ぶような笑みに律樹は一瞬驚いたようだったが、すぐに同じように笑みを返すところは流石だなと思った。



「じゃあまたな、弓月」

 律樹達が帰り、室内には俺と刈谷だけが残った。刈谷は俺から何を聞かれるのかわかっているようだったし、何かを話す決意もしているようだ。俺達は向かい合うように椅子に腰を下ろした。

「刈谷、今日は模試だったはずだがこんなところで話していても良かったのか?」

 そう、今日三年は模試だったはずだ。ただ俺には模試の時間割なんてものはわからない。だから一応形だけでも教師として聞いておかなければならなかった。

「模試は終わってから来ましたよ。他の教科も開始から三十分経ったら退出可能だったんですけど、最後の教科だけは開始から三十分経ったら帰ってもいいと言われたので、急いで三十分で解いて出ました」
「……そうか」
「あ、でも俺は昨日も受けてるんで、そもそも今日受ける科目は少なかったのもあります」
「……そうか」

 そう言えば三年の学年主任が嘆いていたのを思い出した。ピアスさえ外せば、少し見た目が派手なだけの優等生なのにと。
 しっかりと模試を終わらせてからここに来たのであればもう何も言うことはあるまい。俺は溜息を吐いてから保健室内にある自分の机に肘をついた。

「保科先生は瀬名先生と、その……仲が良いんですね」
「……まあ、悪くはないと思うが……それがどうした?」

 俺の質問に対する返答の時とは打って変わり、急に歯切れの悪くなった刈谷に首を傾げる。
 てっきり坂薙弓月と律樹の関係を知りたいのかと思っていたが、まさか俺と律樹の関係を聞かれるとは思わなかった。

「俺、瀬名先生とあまり話したことないですけど……なんか噂と違うような……?いつもあんな感じなんですか?」
「あんな、とは?」
「ええと……なんというか……よく切れるナイフ、みたいな?いやそれは言い過ぎか……獰猛な獣……?」

 真剣に悩みながらぶつぶつと呟く刈谷の言葉に思わず吹き出してしまいそうになる。刈谷の言う噂がどんなものなのかは知らないが、今までの経験から大体の予想はつく。しかしよく切れるナイフや獰猛な獣か。確かに今日の律樹はまさにそんな感じだったなと思い返して、内心薄く笑う。

「女子たちが王子様とか、物腰が柔らかくて穏やかな大人の男性とか言ってたからそんな奴だとばかり思ってたのに、今日実際に会ったら圧がすごくて……正直、ちょっと怖かった」

 刈谷の口から溢れ出た噂の内容にやっぱりかと思う。あいつは見た目が綺麗で整っていて、尚且つ外面が良いものだからそう言われがちだ。高校時代も俺を含めた数人しかあいつの素を知らなかった。
 だが今日のあれは俺も初めて見た。刈谷の言う獰猛な獣のような圧もそうだが、どちらかと言うと坂薙に対する態度の方が驚いた。普段も割と物腰柔らかで穏やかな青年といった風だが、特に彼に対する柔らかな態度は格段に甘く、そして優しかったように見えた。本気であの子のことを想っているのだろうなと伝わってくるそれに、何も言えなくなってしまうくらいには驚きに満ちていた。

 でもまあ圧に関してはあいつがDomだからというのもあるのかもしれない。DomのグレアはNormalにも威圧感として捉えられることがある。それが無意識に出ていたのかもしれないとも思う。

「弓月が瀬名先生の従兄弟だと聞いて、俺……」
「坂薙が心配か?」
「あっ、いや…………はい」

 慌てたように言い繕おうとしたその口を閉じ、頭を下げて俯いたまま小さく頷く。

「……大丈夫だ」
「え……?」
「律樹が坂薙を害することは絶対にないと言い切れる。あいつは……まあ、この話はまた本人から聞けば良い。他に話したいこともあるんだろ?」
「あ、え……そう、ですね。先生にも相談したいことがあったんですが……また今度にします」
「そうか、わかった」

 会話が終わり、俺達は席を立った。
 お互い持ってきていた荷物を持ち、保健室を出る。鍵を掛けて職員室に向かおうとしたところで背後から声が掛かった。
 
「保科先生って噂とは違って話しやすいんですね」
「…………そうか」

 ふいと振り返った顔を前に戻してそのまま職員室に向かう。背後から俺の後に続くように足音が聞こえてくる。
 
 俺は顔が熱いような気がして口許に手を当てた。九月とはいえまだ外は暑い。早く家に帰って冷たい珈琲が飲みたいと思った。
 

 
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