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第二章
閑話 保科慶士は珈琲が飲みたい 中編
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※このお話は「二十七~二十九話 夢の中の人」の保科慶士視点のお話です。
暫く三人で会話をしていたが、律樹がトイレに行くと言い出したことでそれまで和やかだった空気に戸惑いが混じる。あれ程離れたがらなかったのに、驚くほどあっさりと立ち上がった律樹を見る。俺と二人になるがいいのかと、そう視線を送るとあいつはふっと微笑むだけだった。その視線はどこか「頼む」という意味を含んでいるようで、俺は一つ溜息を吐いた。
確かに長い付き合いではあるし、それだけ俺のことを信頼してくれているからこそ頼ってくれるのだろうとは思うが、初対面同士二人きりというのはやはり気まずいものだ。しかしそんな視線も律樹は笑って流し、俺たちに背を向けて保健室を出ていった。
それにしてもただトイレに行くだけなのに「頼む」なんて、余程坂薙と離れたくないんだなと思った。それだけ大事にしているのか、それともただ執着しているだけかはわからない。だがただの執着にしては空気が甘く、律樹が穏やかすぎるように感じる。やはりこれはただあいつが坂薙弓月という人間に好意を寄せているが所以の甘さと穏やかさなのかもしれない。
「あいつ……本当に君のことを大事にしてるんだな」
律樹が出ていった扉を茫然と見つめながら、そんな言葉が口をついて出た。
そういえば高校、大学とあいつが彼女を取っ替え引っ替えしていた時期があったが、お世辞にも歴代の彼女達に優しくしていたとは言えなかったように思う。勿論それは冷たくしていたりだとか暴力を振るっていたというわけでは決してない。だがあの頃のあいつは付き合ったはいいもののそれほど相手に興味が湧くわけでもなく、大事にしようという気があまりなかったように思う。……いや一人だけ様子が違う相手がいたような気がするが、思い出せない。
あの頃のあいつからは考えられない言動に、余程大事なんだろうなぁ…なんて思ったことが口に出ただけなのだが、隣にいた彼はそうは思わなかったようだ。
電子パッドの上をペンが滑っていく音がする。時折鳴るカチッと固いもの同士が当たる音が少し心地いい。少しの間鳴り響いていた音が止まり、俺は終わったのかと顔を向ける。案の定書き終わっていたようだ。こちら側に画面を見せながら眉尻を下げながら笑う彼に内心首を傾げつつ、向けられた画面に書かれた文字を見た。
『それは多分俺がかわいそうな子だからですよ。りつきさんは俺がかわいそうな親戚の子だから、優しいんです』
「は……え、いやあいつは……え?」
予想だにしていなかった返答に頭が混乱し、思わず声を上げた。いやまさか、あいつに限ってそんなことはないだろうと思いつつも、本人にこう言わせている時点で本当はそうなのではないかという考えが湧き起こる。
しかしただの可哀想な親戚の子というだけであんな表情をするだろうか。俺の知る限り、あいつが彼女たち相手にあんな愛おしそうな表情をしているところを見たことがない。
そこで俺ははたと思った。
もしかして律樹の言動や想いにこの子は気づいていないのではないかと。
「……少し、聞いてもいいか?」
何度も電子パッドの画面と坂薙の間を行き来していた視線を彼に固定し、顎に手を当てながらそう呟く。すると彼は不思議そうな表情でこくりと頷いた。
「坂薙は……どうなんだ?」
目の前の細い肩がぴくりと跳ねた。質問に反応したのか、それとも別の理由があったのかはわからない。けれど顔を強張らせながら首を傾げている彼の様子から、もしかすると質問の意図がいまいち分かっていないのかもしれないと思った俺は、言葉を慎重に選びながら発していく。
「あー……その……律樹のこと、どう思って……いやこれは流石にお節介が過ぎるか……?」
確かにこれはお節介が過ぎる気がする。だがあれだけ想い人のために献身的になっている律樹の姿を見てしまったからか、どうにかその誤解だけでも解いてやれたらと思ってしまうのだ。それが例えお節介だとしても。
そう思いながら逸らしていた視線を目の前の人物に戻すと、何故か彼の顔が真っ赤に染まっていた。いきなりのことに俺は呆然と彼の赤い顔を見つめる。この反応はもしかして――
「……律樹のこと、好きか?」
そう心の中で呟いたつもりだったのだが、いつの間にか口から出ていたようだ。俺の言葉にますます顔を赤くした坂薙が戸惑った様子で視線を彷徨わせた後、小さくこくっと頷いた。その頷きがどういう意味を持っているかまではわからないが、まあそういう意味での頷きなんだろうなと思う。
ふと坂薙が電子メモパッドに視線を落とし、再びすらすらと何かを書いていく。今の頷きの意味を書いているのかと思いきや、今までの話なんてなかったかのような話題がそこには書かれていた。
『俺の体どこかおかしいみたいなんです』
その文章を見てまず思ったのは、どういうことだ?だった。あまりに急すぎる話題転換に混乱し、間抜けな声が口から溢れる。
「は……?それは……病院とか」
『病院の先生に言ったら、良い傾向ですねって言われました。でもどういうことなのかわからなくて』
「良い傾向……?……あー……因みになんだが、その症状を聞いても良いか?」
『体が熱くなったり、心臓の鼓動が速くなって痛かったりです』
俺は額に手を当て、それはもう大きな溜息を吐きながら「そうか」とだけ答えた。その病院の先生とやらがどんな奴かはわからない。俺が坂薙について知っていることといえば、声が出ないこと以外には家族から虐待されていたということだけだ。もしそれが本当だとすれば、その医者の言う通り確かに良い傾向なのだろう。
しかし、だ。ここで気になるのは彼の中に燻る気持ちに彼自身が気づいていないのでは、ということだ。寧ろ虐待されていたことによって愛情というものを受け入れづらかったり、認識しづらくなっている可能性がある。もしここで無理矢理自覚をさせたとしてもパニックになるだけだろうことはわかった。パニックになってしまえば今後思いを自覚することがあったとしても、一度パニックを起こしたという事実が彼の意識を閉ざしてしまう可能性もある。
そんな考えが過り、俺は徐々に俯いていく坂薙の頭にぽんと手のひらを乗せた。
「あんまり考えすぎるなよ。……お前はお前のペースで理解していけばいい」
ゆっくり時間を掛けたとしても、恐らく律樹は待つだろう。坂薙が答えを出すまであいつはきっといつまでも待つつもりだ。出来るなら友人の想いも叶えばいいと思っているが、そこは男同士ということもあって難しいかもしれない。だからせめてこいつらがお互い納得する形で幸せになってくれたらいいなと思う。
そんなことを思っていると、不意に保健室の扉が叩かれた。俺たちはお互いに顔を見合わせて首を傾げた。初めは律樹かとも思ったが、ただトイレに行っているだけのあいつが、戻ってきたからといってわざわざ扉をノックしてから入ってくるとは思えない。俺は坂薙から視線を移し、扉を睨みつけるように見た。
今この校舎にいるのは片手の指ほどの人数のみだ。他の校舎にいけば模試を受けているだろう三年生達や試験監督をしている先生がいるが、生憎この校舎には教室はない。それに今保健室が空いていることを知っているのは、俺たち三人と警備員、それから職員室にいた僅かな先生たちだけ。それもわざわざこうしてノックをしてやってくるとも思えない。
坂薙の頭の上に置いたままだった手が小刻みに揺れ出し、俺ははっとして坂薙を見る。血の気の引いた顔は真っ青で、全身がカタカタと震えていた。
「おい……大丈夫か?」
声をかけても反応はない。それどころか震えは大きくなっていく一方だ。虚な目はこことは違うどこか遠いところを見ているようだった。
呼吸が荒い。それが過呼吸だと気付くと同時に両肩を掴みながら大きな声で名前を呼んだ。しかし坂薙は何かに怯えているような目で苦しそうに喘いでいる。掴んでいた肩を離し、背中を摩ろうと手を伸ばした時だった。
「弓月……っ!」
扉の方から慌てたような声が聞こえたかと思えば、次の瞬間には律樹が隣にいてベッドの上で震えている細い体を腕に閉じ込めていた。
俯く二人の表情はわからない。だがどうやら律樹に抱き締められたことで坂薙は次第に落ち着きを取り戻していったようだ。律樹が僅かに顔を上げたため表情を窺い見ることが出来たのだが、あれはなんというか、他に人がいなくてよかったなと思う程度には衝撃的だった。
「――弓月?」
そんなことを思っていると、すぐ近くでそう声がした。いつの間に室内に入ってきたのか、隣にはこの学校の制服を着た生徒が一人立っている。今ここにいるということは三年生、名前は確か刈谷だっただろうか。この学校は一応進学校のため見た目が派手な奴が少なく、色素の薄い髪色や幾つも開いたピアスという格好はかなり目立つ。勿論悪い意味で、である。何度か彼が指導されている現場に遭遇したことがあったのだが、その時に聞こえてきた名前がそんな名前だったように思う。
律樹が坂薙を腕に囲いながら刈谷と話をしている。しかしその空気は重い。徐々に声量を上げ、焦りや怒気を含みヒートアップしていく刈谷の声。俺は室内を見回して状況を確認し、溜息をついた。
「刈谷」
「っ……保科、先生」
「保健室で騒ぐな」
俺の声に弾かれたように反応する刈谷に、俺は静かに言い放った。しかし対する刈谷は納得がいかないのか、唇を噛み締め、体の横に置いた手を白くなるくらいまで握りしめている。
「っ、でも!」
「でもも何もない。……少し落ち着け」
俺は重い腰を上げ、刈谷のそばまで歩いていく。その音にびくりと肩を跳ねさせた彼の頭に手を乗せると、ぽんぽんと二回軽く叩いた。
「伝えたい気持ちがあるのなら、あまり大きな声で勢いに任せて話さない方がいい。相手が驚いて話どころではなくなる」
「……でも」
「少し落ち着け。律樹――瀬名先生もお前が落ち着いたら話くらい聞いてくれるだろう」
多分、と心の中で付け加える。今は大事な宝物を守るために威嚇しているだけなんだと、言いかけてやめた。この刈谷という一生徒にそこまで話をする必要はないだろう。まあ俺が言わなかったとしても、必要だと思えば律樹の方から言うに違いない。
これ以上は俺が出るべきではない。俺は第三者として双方がまともに会話できるように落ち着かせるだけだ。
「……落ち着いたか?」
「……はい……すんません」
大分落ち着いたらしい刈谷が小さく頭を下げる。これなら落ち着いた話し合いができそうだなと思った時、俺の背後で楽しそうなくすくすと言う笑い声が聞こえてきた。振り返った先、まるで俺たちの存在を忘れたらしい二人が自分たちの空間が出来上がっている。その光景に呆れにも似た気持ちで深い深い溜息を吐き出した俺は、額に青筋を浮かべながら律樹の背後に立って腕を振り下ろした。
「律樹、いつまでそうしてるつもりなんだ?」
「いっ、た……!」
「お前も教師だろ、生徒の話も聞いてやれ」
「あ、いや……俺は別に弓月と話せればそれで……」
刈谷は遠慮がちにそう言うが、多分こいつが離れない限りは坂薙と話すことなんて夢のまた夢だろう。
俺と刈谷の言葉にぐっと押し黙った律樹から視線を外し、俺は彼の腕の中に囲われている坂薙に視線を移した。
「……坂薙はどうしたい?」
さっきとは違い今度は口を出す気はないようで、律樹は何も言ってこない。
俺の言葉に坂薙の頭が動く。もしこれで嫌だと言われば、残念だが刈谷には諦めてもらうしかない。そう思いながら刈谷の背中をそっと撫でると、彼の瞳が不安げに揺れた。
断られたらどうしようなんて考えが浮かんでいるのだろう。まあわからないでもない。
しかし目の前の様子を見るに、そんな不安も心配も杞憂だったようだ。
暫く三人で会話をしていたが、律樹がトイレに行くと言い出したことでそれまで和やかだった空気に戸惑いが混じる。あれ程離れたがらなかったのに、驚くほどあっさりと立ち上がった律樹を見る。俺と二人になるがいいのかと、そう視線を送るとあいつはふっと微笑むだけだった。その視線はどこか「頼む」という意味を含んでいるようで、俺は一つ溜息を吐いた。
確かに長い付き合いではあるし、それだけ俺のことを信頼してくれているからこそ頼ってくれるのだろうとは思うが、初対面同士二人きりというのはやはり気まずいものだ。しかしそんな視線も律樹は笑って流し、俺たちに背を向けて保健室を出ていった。
それにしてもただトイレに行くだけなのに「頼む」なんて、余程坂薙と離れたくないんだなと思った。それだけ大事にしているのか、それともただ執着しているだけかはわからない。だがただの執着にしては空気が甘く、律樹が穏やかすぎるように感じる。やはりこれはただあいつが坂薙弓月という人間に好意を寄せているが所以の甘さと穏やかさなのかもしれない。
「あいつ……本当に君のことを大事にしてるんだな」
律樹が出ていった扉を茫然と見つめながら、そんな言葉が口をついて出た。
そういえば高校、大学とあいつが彼女を取っ替え引っ替えしていた時期があったが、お世辞にも歴代の彼女達に優しくしていたとは言えなかったように思う。勿論それは冷たくしていたりだとか暴力を振るっていたというわけでは決してない。だがあの頃のあいつは付き合ったはいいもののそれほど相手に興味が湧くわけでもなく、大事にしようという気があまりなかったように思う。……いや一人だけ様子が違う相手がいたような気がするが、思い出せない。
あの頃のあいつからは考えられない言動に、余程大事なんだろうなぁ…なんて思ったことが口に出ただけなのだが、隣にいた彼はそうは思わなかったようだ。
電子パッドの上をペンが滑っていく音がする。時折鳴るカチッと固いもの同士が当たる音が少し心地いい。少しの間鳴り響いていた音が止まり、俺は終わったのかと顔を向ける。案の定書き終わっていたようだ。こちら側に画面を見せながら眉尻を下げながら笑う彼に内心首を傾げつつ、向けられた画面に書かれた文字を見た。
『それは多分俺がかわいそうな子だからですよ。りつきさんは俺がかわいそうな親戚の子だから、優しいんです』
「は……え、いやあいつは……え?」
予想だにしていなかった返答に頭が混乱し、思わず声を上げた。いやまさか、あいつに限ってそんなことはないだろうと思いつつも、本人にこう言わせている時点で本当はそうなのではないかという考えが湧き起こる。
しかしただの可哀想な親戚の子というだけであんな表情をするだろうか。俺の知る限り、あいつが彼女たち相手にあんな愛おしそうな表情をしているところを見たことがない。
そこで俺ははたと思った。
もしかして律樹の言動や想いにこの子は気づいていないのではないかと。
「……少し、聞いてもいいか?」
何度も電子パッドの画面と坂薙の間を行き来していた視線を彼に固定し、顎に手を当てながらそう呟く。すると彼は不思議そうな表情でこくりと頷いた。
「坂薙は……どうなんだ?」
目の前の細い肩がぴくりと跳ねた。質問に反応したのか、それとも別の理由があったのかはわからない。けれど顔を強張らせながら首を傾げている彼の様子から、もしかすると質問の意図がいまいち分かっていないのかもしれないと思った俺は、言葉を慎重に選びながら発していく。
「あー……その……律樹のこと、どう思って……いやこれは流石にお節介が過ぎるか……?」
確かにこれはお節介が過ぎる気がする。だがあれだけ想い人のために献身的になっている律樹の姿を見てしまったからか、どうにかその誤解だけでも解いてやれたらと思ってしまうのだ。それが例えお節介だとしても。
そう思いながら逸らしていた視線を目の前の人物に戻すと、何故か彼の顔が真っ赤に染まっていた。いきなりのことに俺は呆然と彼の赤い顔を見つめる。この反応はもしかして――
「……律樹のこと、好きか?」
そう心の中で呟いたつもりだったのだが、いつの間にか口から出ていたようだ。俺の言葉にますます顔を赤くした坂薙が戸惑った様子で視線を彷徨わせた後、小さくこくっと頷いた。その頷きがどういう意味を持っているかまではわからないが、まあそういう意味での頷きなんだろうなと思う。
ふと坂薙が電子メモパッドに視線を落とし、再びすらすらと何かを書いていく。今の頷きの意味を書いているのかと思いきや、今までの話なんてなかったかのような話題がそこには書かれていた。
『俺の体どこかおかしいみたいなんです』
その文章を見てまず思ったのは、どういうことだ?だった。あまりに急すぎる話題転換に混乱し、間抜けな声が口から溢れる。
「は……?それは……病院とか」
『病院の先生に言ったら、良い傾向ですねって言われました。でもどういうことなのかわからなくて』
「良い傾向……?……あー……因みになんだが、その症状を聞いても良いか?」
『体が熱くなったり、心臓の鼓動が速くなって痛かったりです』
俺は額に手を当て、それはもう大きな溜息を吐きながら「そうか」とだけ答えた。その病院の先生とやらがどんな奴かはわからない。俺が坂薙について知っていることといえば、声が出ないこと以外には家族から虐待されていたということだけだ。もしそれが本当だとすれば、その医者の言う通り確かに良い傾向なのだろう。
しかし、だ。ここで気になるのは彼の中に燻る気持ちに彼自身が気づいていないのでは、ということだ。寧ろ虐待されていたことによって愛情というものを受け入れづらかったり、認識しづらくなっている可能性がある。もしここで無理矢理自覚をさせたとしてもパニックになるだけだろうことはわかった。パニックになってしまえば今後思いを自覚することがあったとしても、一度パニックを起こしたという事実が彼の意識を閉ざしてしまう可能性もある。
そんな考えが過り、俺は徐々に俯いていく坂薙の頭にぽんと手のひらを乗せた。
「あんまり考えすぎるなよ。……お前はお前のペースで理解していけばいい」
ゆっくり時間を掛けたとしても、恐らく律樹は待つだろう。坂薙が答えを出すまであいつはきっといつまでも待つつもりだ。出来るなら友人の想いも叶えばいいと思っているが、そこは男同士ということもあって難しいかもしれない。だからせめてこいつらがお互い納得する形で幸せになってくれたらいいなと思う。
そんなことを思っていると、不意に保健室の扉が叩かれた。俺たちはお互いに顔を見合わせて首を傾げた。初めは律樹かとも思ったが、ただトイレに行っているだけのあいつが、戻ってきたからといってわざわざ扉をノックしてから入ってくるとは思えない。俺は坂薙から視線を移し、扉を睨みつけるように見た。
今この校舎にいるのは片手の指ほどの人数のみだ。他の校舎にいけば模試を受けているだろう三年生達や試験監督をしている先生がいるが、生憎この校舎には教室はない。それに今保健室が空いていることを知っているのは、俺たち三人と警備員、それから職員室にいた僅かな先生たちだけ。それもわざわざこうしてノックをしてやってくるとも思えない。
坂薙の頭の上に置いたままだった手が小刻みに揺れ出し、俺ははっとして坂薙を見る。血の気の引いた顔は真っ青で、全身がカタカタと震えていた。
「おい……大丈夫か?」
声をかけても反応はない。それどころか震えは大きくなっていく一方だ。虚な目はこことは違うどこか遠いところを見ているようだった。
呼吸が荒い。それが過呼吸だと気付くと同時に両肩を掴みながら大きな声で名前を呼んだ。しかし坂薙は何かに怯えているような目で苦しそうに喘いでいる。掴んでいた肩を離し、背中を摩ろうと手を伸ばした時だった。
「弓月……っ!」
扉の方から慌てたような声が聞こえたかと思えば、次の瞬間には律樹が隣にいてベッドの上で震えている細い体を腕に閉じ込めていた。
俯く二人の表情はわからない。だがどうやら律樹に抱き締められたことで坂薙は次第に落ち着きを取り戻していったようだ。律樹が僅かに顔を上げたため表情を窺い見ることが出来たのだが、あれはなんというか、他に人がいなくてよかったなと思う程度には衝撃的だった。
「――弓月?」
そんなことを思っていると、すぐ近くでそう声がした。いつの間に室内に入ってきたのか、隣にはこの学校の制服を着た生徒が一人立っている。今ここにいるということは三年生、名前は確か刈谷だっただろうか。この学校は一応進学校のため見た目が派手な奴が少なく、色素の薄い髪色や幾つも開いたピアスという格好はかなり目立つ。勿論悪い意味で、である。何度か彼が指導されている現場に遭遇したことがあったのだが、その時に聞こえてきた名前がそんな名前だったように思う。
律樹が坂薙を腕に囲いながら刈谷と話をしている。しかしその空気は重い。徐々に声量を上げ、焦りや怒気を含みヒートアップしていく刈谷の声。俺は室内を見回して状況を確認し、溜息をついた。
「刈谷」
「っ……保科、先生」
「保健室で騒ぐな」
俺の声に弾かれたように反応する刈谷に、俺は静かに言い放った。しかし対する刈谷は納得がいかないのか、唇を噛み締め、体の横に置いた手を白くなるくらいまで握りしめている。
「っ、でも!」
「でもも何もない。……少し落ち着け」
俺は重い腰を上げ、刈谷のそばまで歩いていく。その音にびくりと肩を跳ねさせた彼の頭に手を乗せると、ぽんぽんと二回軽く叩いた。
「伝えたい気持ちがあるのなら、あまり大きな声で勢いに任せて話さない方がいい。相手が驚いて話どころではなくなる」
「……でも」
「少し落ち着け。律樹――瀬名先生もお前が落ち着いたら話くらい聞いてくれるだろう」
多分、と心の中で付け加える。今は大事な宝物を守るために威嚇しているだけなんだと、言いかけてやめた。この刈谷という一生徒にそこまで話をする必要はないだろう。まあ俺が言わなかったとしても、必要だと思えば律樹の方から言うに違いない。
これ以上は俺が出るべきではない。俺は第三者として双方がまともに会話できるように落ち着かせるだけだ。
「……落ち着いたか?」
「……はい……すんません」
大分落ち着いたらしい刈谷が小さく頭を下げる。これなら落ち着いた話し合いができそうだなと思った時、俺の背後で楽しそうなくすくすと言う笑い声が聞こえてきた。振り返った先、まるで俺たちの存在を忘れたらしい二人が自分たちの空間が出来上がっている。その光景に呆れにも似た気持ちで深い深い溜息を吐き出した俺は、額に青筋を浮かべながら律樹の背後に立って腕を振り下ろした。
「律樹、いつまでそうしてるつもりなんだ?」
「いっ、た……!」
「お前も教師だろ、生徒の話も聞いてやれ」
「あ、いや……俺は別に弓月と話せればそれで……」
刈谷は遠慮がちにそう言うが、多分こいつが離れない限りは坂薙と話すことなんて夢のまた夢だろう。
俺と刈谷の言葉にぐっと押し黙った律樹から視線を外し、俺は彼の腕の中に囲われている坂薙に視線を移した。
「……坂薙はどうしたい?」
さっきとは違い今度は口を出す気はないようで、律樹は何も言ってこない。
俺の言葉に坂薙の頭が動く。もしこれで嫌だと言われば、残念だが刈谷には諦めてもらうしかない。そう思いながら刈谷の背中をそっと撫でると、彼の瞳が不安げに揺れた。
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