上 下
41 / 199
第二章

閑話 保科慶士は珈琲が飲みたい 前編

しおりを挟む
※このお話は「二十七~二十九話 夢の中の人」の保科慶士視点のお話です。



 とある休日の朝、熟睡していた俺を起こしたのはとある人からの一本の電話だった。
 
 今日は日曜日で休みだというのに誰だよと内心ぐちぐちと文句を垂れながら電話に出ると、それは高校からの友人であり現在は同じ職場で働く同僚からだった。普段の彼からは想像もできないような何やら慌てた様子のその声に、さっきまで寝ていた頭が急速に覚醒していく。取り敢えず保健室を開けて欲しいとのことだったので、俺はわかったと返事をして通話を切った。

 軽くシャワーを浴び、歯磨きや着替えを終えたあと、必要最低限の中身しか入っていないボディバッグを手に家を出た。今俺が住んでいるアパートと職場である高校は目と鼻の先にあり、普段から徒歩通勤をしている。たまの荷物が多い時などは車で通勤することもあるが、大抵は歩きだった。
 特に最近はトラブル防止のため、学校内で怪我をした際に俺たちのような養護教諭が病院に連れていくこともほとんどないためにあまり困ることがない。特に急を要する場合は救急車等を要請するので、学校の駐車場に車があってもなくても変わらないのだ。

 そうこう言っているうちに校門の前に着き、警備員と話をして中に入った。今日は日曜日、本来であれば休日なのだが、受験生である三年生だけは模試があるため学校に来ている。今は丁度休憩時間のようで、校内は少し賑やかだ。まあそれも次の模試が始まるまでの数分のこと。そんな僅かな喧騒を背に、俺はまず職員室に向かった。
 職員室内の自分の机の引き出しから保健室の鍵を取り出し、すぐに廊下に出る。九月とはいえまだ残暑厳しく、明るいはずなのだが、職員室から保健室への道はどこか薄暗い。自分の足音が響き渡る廊下はどこか不気味さを感じる。カツン、カツンと足音を響かせながら歩いていくと、突き当たりに人影が見えた。

「律樹」

 その人影に声を掛けると、その人物は俯いていた顔をあげてへらりと笑った。いつも余裕綽々といった様相が今は剥がれ落ちているように見える。表面上は冷静に見えるが、なんというか内心では焦っているのだろうなと思えるような感じだった。

「休みにごめん、助かった」
「ああ、いやそれはいいんだが……」

 壁に凭れ掛かるようにして廊下に座り込んだ律樹が誰かを抱えていることに気付いたと同時に、普段とは違う彼の様子に納得した。俺の視線が腕の中に移ったことがわかったのか、律樹の腕に力がこもる。それはまるで大事な宝物を奪われないようにする子供のようだった。

 律樹に背を向けて保健室の扉に向き直る。鍵を開け、扉を開いて中に入って行き、部屋の奥にいくつかある窓を全て開け放った。たった一日締め切っていた部屋の中の空気を全て入れ替えるために開けた窓から、心地よい風が入ってくる。
 後ろから足音がして振り返ると、そこには見知らぬ誰かを大事そうに抱えた律樹が立っていた。俺は自分が今いる窓からほど近い部屋の奥に位置するベッドを指差し、そこを使うように指示をする。すると彼は返事もそこそこにベッドに駆け寄り、抱えていたその人を横たわらせた。

「少し出てくる、何かあったら呼んでくれ」
「ああ……ありがとう」
「……もしこの部屋の中を見学したいのならしてもいい。その代わりあまり備品には触れるな」
「わかった」

 そう言って俺は足早に保健室をでて後ろ手に扉を閉めた。くしゃりと前髪を掻き上げ、壁に背を預ける。

 律樹がベッドに横たわらせた人物に俺は心当たりがある。顔も、どんな奴なのかさえ知らないが、名前だけは知っていた。

 ――坂薙弓月。
 律樹の母方の従兄弟であり、律樹の想い人。
 長い付き合いであるからこそ、律樹の本気度がどれほどのものなのかを俺は嫌というほど知っている。もし知らなかったとしても、律樹のあの表情を見れば彼がどれほどその人を想っているのかいやでもわかるだろう。

「……はぁ」

 別に俺は律樹に恋愛感情を抱いているわけではないが、それでもあの表情には当てられてしまったらしい。
 あんな愛おしいという感情を全面に押し出した表情なんて俺は今まで見たことがなかったが、こんなにも人の心を揺さぶるものなのだなとは思った。

 保健室を出たとはいえ何かをするわけでもない。取り敢えず起きてから何も飲んでいなかったことを思い出し、学食の前にある自動販売機へと向かった。三台並んだうちの一つから冷たいブラックコーヒーを選択し、ガコンという音と共に取り出し口に出てきたそれを取り出す。
 九月とはいえまだまだ残暑は厳しい。それでも真夏の猛暑日と比べれば大分ましにはなった方だが、未だ外気は熱を含んでいる。その証拠に買ったばかりだというのに冷たい缶の表面は小さな水滴に覆われていった。
 自動販売機の隣に設置されている赤色のベンチに腰掛け、缶コーヒーを飲む。口の中に広がる苦味と香りに少し気分が晴れていく気がした。ぼんやりと空を見上げながらコーヒーをちびちびと飲んでいく。
 
 今日は休日だが、校内にはそれなりに人がいる。今は模試の最中なのだろう、しんと静まってはいるがそれも今だけだ。そういえば模試は何時までだったか。昨日も模試をしていた気がするが、自分に関係があるわけではないので日程や時間割が曖昧だ。
 
 どれくらいそうしていたのか、静寂を切り裂くようにチャイムが鳴り響いた。それを合図に重い腰を上げ、ベンチの横に設置されているゴミ箱に缶を押し入れる。そして口元に手を当ててため息をこぼした。

「……はぁ」

 気持ち急いで出てきたために髭を剃り忘れたらしく、顎の辺りを手で撫でるとざらざらとして痛い。今日は休日だから髭が生えていたところで誰かに指摘されることもないだろうが、明日は気をつけないとなとは思った。

 そういえば律樹の連れはもう目が覚めただろうか。あの連れが本当に坂薙弓月だったとすると、確か彼は声が出なくなっていたはずだ。もし目を覚ましていたとして、声が出ないことには意思の疎通が出来ない。痛いところがあってもなくてもわからなければどうすることも出来ないのだ。それは困るなと俺はまず職員室に向かい、あるものを手に保健室に向かった。
 さっきよりも少し明るくなったような気がする廊下を歩き、足音を反響させながら保健室の前に辿り着いた。少し躊躇いはしたが、扉をコンコンと叩く。本当はノックなんてしなくてもいいのだろうが、この扉の向こうにいる人物たちを思えばそうせざるを得ないだろう。

「どうぞ」

 そう部屋の中から声がした。入ってもいいのかと思いながら扉を開けて中に足を踏み入れると、心地いい風が頬を撫でた。
 一番奥、窓際に位置するベッドの前まで歩いて行き、仕切り用のカーテンを開けるとそこには一人の青年が横たわっていた。黒色の艶やかな髪に病的なまでに白い肌、ほっそりとした印象の、とても儚そうな綺麗な青年だった。

「……この子が坂薙弓月か」

 気付けばそう口にしていた。
 これが、この子が律樹が思いを寄せる坂薙弓月という青年か。確かに少し前に律樹が言っていた通り、目を離したら消えてしまいそうな儚さを持った青年だった。――いや、本当に青年か?歳は十八と聞いていたはずだが、それにしては少し幼い気がする。それも握ったら折れてしまいそうな体躯のせいでそう見えるだけなのだろうか。

「保科先生、そこじゃ弓月が見えなくて怖がるのでこっちに来てください」
「……お前に敬語を使われると寒気がする」

 律樹の声にはっと我に返り、その言葉に眉間に皺を寄せる。今までこいつに敬語を使われるとことなんて仕事の時だけだったからか変な感じがした。俺は律樹に促されるがままに窓側のベッド脇に移動し、彼の横に立つ。

「弓月、紹介するね。この学校の養護教諭の保科慶士、俺の高校からの友人なんだ」
「……よろしく」

 お前のその口調はなんなんだと律樹を睨むと、あいつは普段からは考えられないほど穏やかな表情を貼り付けながら俺を見てきた。多分黙ってろってことなんだろうなと思いながら、俺はベッド脇に置いてあった椅子を引き寄せて腰を下ろす。この弓月って子の前ではこういう感じで振る舞いたいんだろうなってことは伝わってくるが、それにしては俺に対してボロが出過ぎではないだろうか。

 俺は座ると同時に手に持っていた黒い板のようなものを差し出した。弓月と呼ばれた青年が俺を見て戸惑っているのがわかる。どういうわけかさっきよりも顔や体から強張りが解けているような気がするが、実際のところはわからない。戸惑ったまま受け取ろうとしない彼を見兼ねてか、律樹が俺の手からその板を取った。

「これはね電子メモパッドだよ。このペンで書いて……このボタンを押すと消えて、また書くことができる」

 まるで実演販売のような紹介の仕方だなと思った。律樹の説明に使い方を知った彼は、横たわったまま律樹の手からペンを受け取るとさらさらと画面にペン先を滑らせていく。書き終わったのか、律樹が俺の方にパッドの画面を向けるとそこには『ありがとうございます』と書かれていた。最初に書く言葉がそれか、と何だか胸が温かくなったような心地がして、俺は思わず頬を緩めていた。

 その後は起きた後の調子なんかを聞いたり、律樹と話をしていたのだが、この短時間で分かったことは坂薙弓月という子はとても礼儀正しい子だということだ。いくら声が出ないとは言ってもしっかりと礼をするその行動に感心した。
 そしてもう一つ分かったことは、不安や戸惑いがあればすぐに律樹を見るということだ。余程律樹を信用し、信頼しているのだろうということはわかるが、それに対する律樹の反応がそれはもう甘かった。多分本人たちは気づいていないだろうが、二人が視線を合わせた瞬間からこの場の空気が砂糖ほどの甘さになっている。これで付き合ってないのかと言いたくなるほどの甘さに、俺は早速帰りたくなった。


しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

隠れSubは大好きなDomに跪きたい

みー
BL
⚠️Dom/Subユニバース 一部オリジナル表現があります。 ハイランクDom×ハイランクSub

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

悪役令息に転生して絶望していたら王国至宝のエルフ様にヨシヨシしてもらえるので、頑張って生きたいと思います!

梻メギ
BL
「あ…もう、駄目だ」プツリと糸が切れるように限界を迎え死に至ったブラック企業に勤める主人公は、目覚めると悪役令息になっていた。どのルートを辿っても断罪確定な悪役令息に生まれ変わったことに絶望した主人公は、頑張る意欲そして生きる気力を失い床に伏してしまう。そんな、人生の何もかもに絶望した主人公の元へ王国お抱えのエルフ様がやってきて───!? 【王国至宝のエルフ様×元社畜のお疲れ悪役令息】 ▼この作品と出会ってくださり、ありがとうございます!初投稿になります、どうか温かい目で見守っていただけますと幸いです。 ▼こちらの作品はムーンライトノベルズ様にも投稿しております。 ▼毎日18時投稿予定

【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集

あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。 こちらの短編集は 絶対支配な攻めが、 快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす 1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。 不定期更新ですが、 1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 書きかけの長編が止まってますが、 短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。 よろしくお願いします!

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

【完結】別れ……ますよね?

325号室の住人
BL
☆全3話、完結済 僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。 ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。

愛され末っ子

西条ネア
BL
本サイトでの感想欄は感想のみでお願いします。全ての感想に返答します。 リクエストはTwitter(@NeaSaijou)にて受付中です。また、小説のストーリーに関するアンケートもTwitterにて行います。 (お知らせは本編で行います。) ******** 上園琉架(うえぞの るか)四男 理斗の双子の弟 虚弱 前髪は後々左に流し始めます。髪の毛の色はご想像にお任せします。深い赤みたいなのアースアイ 後々髪の毛を肩口くらいまで伸ばしてゆるく結びます。アレルギー多め。その他の設定は各話で出てきます! 上園理斗(うえぞの りと)三男 琉架の双子の兄 琉架が心配 琉架第一&大好き 前髪は後々右に流します。髪の毛の色はご想像にお任せします。深い緑みたいなアースアイ 髪型はずっと短いままです。 琉架の元気もお母さんのお腹の中で取っちゃった、、、 上園静矢 (うえぞの せいや)長男 普通にサラッとイケメン。なんでもできちゃうマン。でも弟(特に琉架)絡むと残念。弟達溺愛。深い青色の瞳。髪の毛の色はご想像にお任せします。 上園竜葵(うえぞの りゅうき)次男 ツンデレみたいな、考えと行動が一致しないマン。でも弟達大好きで奮闘して玉砕する。弟達傷つけられたら、、、 深い青色の瞳。兄貴(静矢)と一個差 ケンカ強い でも勉強できる。料理は壊滅的 上園理玖斗(うえぞの りくと)父 息子達大好き 藍羅(あいら・妻)も愛してる 家族傷つけるやつ許さんマジ 琉架の身体が弱すぎて心配 深い緑の瞳。普通にイケメン 上園藍羅(うえぞの あいら) 母 子供達、夫大好き 母は強し、の具現化版 美人さん 息子達(特に琉架)傷つけるやつ許さんマジ。 てか普通に上園家の皆さんは顔面偏差値馬鹿高いです。 (特に琉架)の部分は家族の中で順列ができているわけではなく、特に琉架になる場面が多いという意味です。 琉架の従者 遼(はる)琉架の10歳上 理斗の従者 蘭(らん)理斗の10歳上 その他の従者は後々出します。 虚弱体質な末っ子・琉架が家族からの寵愛、溺愛を受ける物語です。 前半、BL要素少なめです。 この作品は作者の前作と違い毎日更新(予定)です。 できないな、と悟ったらこの文は消します。 ※琉架はある一定の時期から体の成長(精神も若干)がなくなる設定です。詳しくはその時に補足します。 皆様にとって最高の作品になりますように。 ※作者の近況状況欄は要チェックです! 西条ネア

処理中です...