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第二章

二十九話 夢の中の人 後編②

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 律樹さんがベッド横のパイプ椅子に腰掛けたことを確認し、俺はいつの間にか近くまで来ていた刈谷という人の方に向き直った。枕のそばに無造作に置いていた電子パッドを手に取り、俺は言葉を選びながら文字を連ねていく。誤解をさせないように、けれど無感情になり過ぎないように注意するのは想像以上に気を遣った。
 書いている途中、顔を俯かせたまま垂れ落ちる髪の隙間から彼を窺い見る。どうにも不思議そうな表情で俺の手元を見ているようだ。書き終わったボードを彼に向けると、初めは不思議そうだった表情が徐々に驚いた風に変わっていった。

『俺は今声が出ないので筆談でならお話しできます。ただ記憶もあいまいで、覚えていないことも多いです』
「……わかった」

 こくりと頷いたことを確認して一度まっさらな状態に戻す。そして『君は誰ですか?』と書きかけ、流石に言葉が直接的かと悩んでもう一度クリアボタンを押した。
 ペンの先が俺の心情を表すかのように宙に浮いたまま動いている。どうすれば相手が傷つかないように言葉を伝えられるのか、それがわからない。するとそんな迷いが伝わっていたのか、目の前にいた相手がおもむろにしゃがみ込んで困ったように笑った。

「俺のこと、覚えてないんでしょ?」
「……!」
「はは、驚いてる。うん……わかるよ、弓月のことなら。ずっと……見てたから」
「……?」

 言われた言葉の意味がよくわからない。
 まるで独り言のようなそれに俺はどう反応すればいいのかわからず、俺は彼をじっと見つめた。

「俺の名前は刈谷壱弦。弓月は俺のことを壱弦って呼んでた。小学校も同じだったんだけどその頃はあまり話さなかったかな……でも中学に入ってからはたまに弓月と話すようになって、三年の頃には……それなりに仲が良かったと思う。だから一緒の高校を受けてこの高校に入った」

 刈谷壱弦――心の中でその名前を呟いてみるとなんだか懐かしいような気がした。話す彼の表情は穏やかだ。

「高校に入ってからも同じ。……あ、でも同じクラスになれたな。弓月が来なくなるまでは多分ずっと一緒にいたと思う。……あぁ、でもあの時だけは」

 そこで言葉が途切れた。代わりにチリリンというあの鈴の音が耳に届き、俺は息を呑む。それは外から聞こえてくる喧騒に掻き消されるくらいの小さな小さな音だった。それなのにどうしてか俺の耳ははっきりとその音を拾う。

「弓月……?……あぁ、この鈴か?」
「……っ」

 俺の視線が彼の瞳から外れて違うところを見ていることに気がついたのか、その人は俺の視線の先にあったものを取り出して俺の方に差し出した。俺よりも少し大きい手が目の前でゆっくりと開いていく。そこに乗っていたのは俺の想像通り、やっぱりあの金色の鈴だった。

「この鈴はお前がくれたものだよ」

 ……俺が……あげた?
 酷く耳鳴りがする。夢の中でカチリと音を立てた何かが今ここで開こうとしているようだった。俺の中の何かが急速に書き換わっていくような気持ちの悪さを感じながらも、俺の視線は鈴に固定されたまま動かない。そして意思とは関係なく手が動いてその鈴に近づいていった。
 頭の中で警鐘が鳴り響いている。触るな、触ってはいけないと誰かが悲鳴をあげている。なのに俺の手は、指は動きを止めてくれない。
 ここは夢の中ではなく現実だ。そうわかっているのに、まるで乗っ取られたかのように体の自由が効かなかった。

「どうした……?」

 これは誰の声だろう。
 目の前にいる刈谷壱弦という人の声?それとも律樹さんの声?そのどちらでもないような気もするし、どちらの声のような気もする。
 頭の中で何度も反響するように何重にもなって聞こえてくる声に、俺は耐えるようにぎゅっと目を瞑った。
 
「弓月」

 そんな時、凛とした声が響いた。
 不思議なことにその一瞬で、頭の中で反響していた声も酷い耳鳴りも気持ちの悪さも全て欠片も残さず消え去っていく。視線が鈴から外れ、目の前で驚いたように俺を見ている焦茶色の瞳と目が合った。
 
(これは、夢?……いや現実?……これはあの夢に出てきた人……じゃなくて、現実のひと?)
 
 頭の中でぐるぐるとそんなやりとりが浮かんでは消えるような自問自答のようなことを繰り返した後、ようやく詰めていた息を吐き出すことが出来た。いやまあ、夢の中の人なのはある意味正解なんだけど、今ここは現実で彼はさっき刈谷壱弦と名乗ったのだから、もう夢の中の人という名称で呼ぶのはおかしいだろうと思った。

 目の前の人物から顔を逸らすと、不安げに揺れる琥珀色の瞳がこちらを見ていることに気がついた。さっき俺を呼んでくれたのは律樹さんだったのかと俺は眉尻を下げて笑う。その笑みにごめんなさい、ありがとうという気持ちを含めたつもりだったが、その行動が余計に不安にさせてしまったようだ。不安に駆られた様子の律樹さんが俺に手を伸ばそうとし、隣にいた保科さんが呆れ顔で止められているのが見えた。

『俺が、あげた?』
「あ……ああ、うん。……高校受験の時、一緒に合格祈願に行ったんだ。その時に二人で買ってお互いに交換しあったんだよ。ほら……薄くなってるけど、ここに神社の名前と合格祈願って書いてあるだろ?」

 差し出された鈴をよく見てみると、確かに鈴の上のタグのような小さな板や金色の鈴の真ん中あたりにうっすらと文字のようなものが見える。ただ経年劣化のためかほとんど消えているためなんと書いてあるかまでは判断がつかなかった。

 どうやら本当に仲が良かったらしい。
 それなのに俺は彼のことをすっかり忘れてしまっていた。いくら不可抗力だとはいえ、これはあまりにも酷い所業だ。

『忘れてしまってごめんなさい』

 手の中にある鈴を見ながら話す彼の表情があまりにも穏やかで、胸がキュッと締め付けられる。夢の中と同じ人なのに、夢と現実はこんなにも違うものなのか。

『刈谷くんは大事にしてくれていたのに、俺は勝手に忘れてしまって、本当にごめんなさい』
「……ううん、大丈夫。思い出なんてまた作ればいいんだから。それよりも……また壱弦って呼んでくれたら嬉しいんだけど……駄目か?」
『いいの?』
「勿論。……あ、ペン借りてもいい?名前の漢字、教えておこうと思って」

 その言葉に戸惑いながらもこくりと頷き、ペンを手渡す。指と指が触れ合い、俺は思わずぱっと手を引っ込めた。そんな俺の様子に眉尻を下げながら笑った刈谷くん――壱弦は気を取り直したようにパッドの画面に『壱弦』という文字を書いていく。
 ペンを返してもらい、パッドを受け取った俺はそっと文字を指でなぞっていく。いづる、壱弦……そう心の中で呟いていると、不意に脳裏に金色の鈴が浮かんだ。それは壱弦の持っている鈴よりも大分新しいように見えるが、確かにこの鈴と同じもののようだった。もしかしてこれは俺が壱弦と交換したという鈴だろうかとぼんやりと思いながら、俺は頬を緩めた。

「あ、そうだ。弓月はスマホ持ってる?もしよかったら俺と連絡先、交換しないか?スマホだったら声が出なくても会話できるだろ?」

 そう言われ、俺は戸惑った。
 確かにスマホ自体は持っているし、それがあれば意思の疎通ができることを俺は知っている。けれどそれはあくまでも律樹さんがくれたものであり、今スマホ代を払ってくれているのは律樹さんだ。だから勝手に連絡先を教えてもいいものなのかがわからなくて、俺は律樹さんの方を見た。

『壱弦が連絡先を交換しようって言ってるんだけど……どうしよう?』
「……」
「……?」

 律樹さんが腕を組み、何やら難しい表情をしている。どうしたのと俺が首を傾げると同時に、後ろで様子を見ていた保科さんが律樹さんの肩にぽんと手を置いた。すると律樹さんがより難しい表情になっていく。そして数秒間の後、それはもう深い溜息を吐き出した。
 こんなに長くて大きな溜息をつくということはやっぱりダメってことなのかな。また我儘を言って律樹さんを困らせてしまったなぁ、なんて思いながら俺は苦笑をこぼしていたのだが。

「律樹」
「……わかってる」

 保科さんが律樹さんを呼ぶ。すると彼の眉間に刻まれた皺がより深くなったが、保科さんはそれに呆れたような溜息を溢すだけだ。
 そんな理解しあった雰囲気を醸し出す二人の様子に小さく胸が痛んだ。まるで小さな棘が刺さったかのようにちくりと刺すような痛みだった。

「……いいよ。弓月が連絡先を交換したいならしてもいいんだよ。……はい、スマホ」

 俺は持っていなかったのでどこにあるかなと思っていたが、どうやら律樹さんが持ってくれていたらしい。スラックスのポケットから取り出したスマホを、開いた俺の手の上にぽすんと落として乗せてくれた。胸の痛みに知らんぷりをしながらありがとうとはにかむと、彼は困ったように笑った。



「じゃあまたな、弓月」

 その言葉に小さく手を振り、俺と律樹さんは保健室を後にした。休みだったのに来てもらったという保科さんはいいのか?と思ったが、保健室の扉が閉まる直前に見えた光景から二人でする話があるんだろうなってなんとなくわかって息を吐く。

 俺と律樹さんは駐車場に止めていた車に乗り込んだが、結局買い物の予定は来週に延期して今日は真っ直ぐ家に帰ることになった。
 本当は律樹さんとの買い物を楽しみにしていたところもあったので延期は少し寂しいが仕方ない。

「今日はごめんね。今度は財布忘れたりしないから」

 運転中、律樹さんがそんなことを言った。確かに今日行けなくなったそもそもの原因は彼の忘れ物を取りに学校に寄ったことだったけれど、でも俺は学校に来れてよかったと思っている。ほんの少し、断片的だったとしても記憶を思い出すことが出来たし、その上夢に出てきた人が誰なのか知ることが出来たのだ。そのせいで色々あったとはいえ、俺にとっては小さな一歩だとしても確実に前に進めたような気がする一日だった。

 俺はスマホの画面に指を滑らせ、送信ボタンに触れる。すると車内後方、後部座席の上で律樹さんの鞄の中で音がした。多分車の走行音で彼は気付いていないだろう。
 
 俺は頬を緩ませながらスマホを膝の上に置き、静かに目を閉じた。
 
 
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