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第二章
二十七話 夢の中の人 中編
しおりを挟むふわりと嗅ぎ慣れた香りが鼻腔を擽り、重い瞼を押し上げる。最初に目に入ってきたのは白色の天井だった。微かに香る消毒液の匂いに一瞬病院かとも思ったが、病院にしては静かなことが気になる。病院だったら足音なりが私聞こえてくるはずなのにそれが一切ない。体を起こそうと腕に力を入れようとするが一ミリたりとも動かず、俺は眼球だけを動かして何とか周囲の様子を探ってみた。
白い天井と銀色のアルミサッシに囲われたの腰窓、そして消毒液の香り。ここは俺の知る病院ではないようだ。
窓がある方とは反対側に引かれている少し緑掛かったカーテンは間仕切りの役目を果たしているらしい。隙間からちらりと見えた向こう側にはベッドのようなものがほんの僅かに見えていた。カーテンとは反対側にある窓は少し開いているようでミーンミンミンやジーといった蝉の声がはっきり聞こえ、生温い風が吹き込んでくる。
窓のすぐ近く、窓枠に肘を付いて外を眺める後ろ姿が見えた。強くもない風に栗色の柔らかな髪を揺らすその人の香りが風に乗って俺に届く。俺の口は無意識に彼の名前を呼んでいた。声が出ていたわけでも息が漏れていたわけでもない、ただ口がその形に動いただけだったにも関わらず、外を眺めるその背中がぴくりと反応する。
偶然かもしれない。俺が口を動かしたタイミングと彼の動くタイミングが重なっただけなのかもしれないが、それでも何となく俺に気づいてもらえたような気がして胸の辺りがほんの少し温かくなった気がした。
「あ……目が覚めたんだね、よかった。気分はどう?」
目が覚めてから少し時間が経ったからか、僅かでも動くようになった頭を小さく頷かせる。すると律樹さんはほっとしたような表情になり、椅子から立ち上がって俺の近くまでやってきてはベッドに凭れ掛かるようにしゃがみ込んだ。
「どこか痛いところはない?」
優しくて大きな手が俺の髪を撫でる。
ああ、やっぱり律樹さんの手が一番好きだななんて思いながら目を細めると、すぐ近くでふっと笑う声が聞こえてきた。
「弓月は……こうされるの、好き?」
体を優しく包み込むような柔らかな声。好き、という言葉に穏やかだった心臓がとくんと鳴った。
さっきまでいた夢の世界のことが一瞬脳裏を過った。夢の中のあの人に触れられる時は嫌だとか来ないでという感情しか湧いてこなかったのに、今はもっと触れてほしいという感情が溢れてくる。髪の毛を撫でていた手が頬へと滑っていき、俺はその頬に擦り寄るように頭を小さく動かした。それが答えなのだと彼も気が付いたようで、そっかと柔らかな笑みを浮かべている。
穏やかで優しい空気が流れる中、キーンコーンと大きめの鐘の音が耳を打った。その音にもしかしてここは学校の中なのかなと思っていると、俺の頬に触れていた律樹さんがあっと声を上げた。
「ここはね、学校の保健室だよ。起きたら知らない場所で驚いたよね……言うのが遅くなってごめん」
ここが学校の保健室なのかと物珍しさに周囲を観察するように視線を動かしていると、くすくすと笑う声が聞こえてきた。途端に恥ずかしくなって目をきゅっと瞑る。すると閉じた瞼の上に温かな体温を感じて、俺の胸はまたとくんと音を立てた。
「……弓月は本当にかわいいね」
「……!」
「体調が良くなって起き上がれたら、保健室の中を見て回ってみようか。少しなら見学しても良いって言ってたから大丈夫だよ」
「……!!」
律樹さんに可愛いと言われたことに心臓が煩くなったかと思えば、今度は全てバレていたことに驚いて全身が熱くなる。きっと今俺が恥ずかしいと思っていることすら彼にはバレているんだろうなと思うと、余計に顔が熱くなった。
そんな二人だけの穏やかな時間が流れていた時だった。
コンコンと何かを叩く音が聞こえ、瞼から温もりが消えていく。それに名残惜しさを感じながら俺は目を開けた。
律樹さんが音の聞こえた方に向かって短く返事をすると、ガラガラと扉が開くような音が聞こえたあと一人分の足音が聞こえてきて俺は視線を動かした。
仕切り用のカーテンが音を立てて引かれ光が差し込む。寝転んだままではカーテンが開けられたことしか分からず、誰がそこにいるのかは分からない。知らない人というだけで俺の身体は緊張に包まれているというのに、顔すらも見えないこの状況に身体が強張る。
俺の近くにしゃがみ込んでいた律樹さんが立ち上がったのがわかり、咄嗟に布団から出た手で彼の服の裾を掴んだ。
「!……大丈夫だよ」
俺の不安を感じ取ってくれたのか、律樹さんは立ったまま俺の髪の毛を優しく撫でた。たったそれだけでも俺の中にあった不安や緊張が解けていくのがわかる。我ながら単純だなと思いながらもその手に擦り寄った。
「……この子が坂薙弓月か」
「……っ」
突然聞こえてきた律樹さんよりも低い声に、俺の身体はピシリと固まった。
「保科先生、そこじゃ弓月が見えなくて怖がるのでこっちに来てください」
「……お前に敬語を使われると寒気がする」
カツンカツンとリノリウムの床を靴が蹴る音がする。それが近くまで来た時、俺は視線を上に上げた。
初めて見た印象は『怖そうな人』だった。男の人にしては長めの黒い髪を後ろで束ね、口元に薄らと疎らに生やした髭がそう見せているのかもしれない。窓から差し込む光が後孔のように彼の周囲に差し込んでいて、なんだかそのアンバランスさに恐怖が薄らいでいく。
「弓月、紹介するね。この学校の養護教諭の保科慶士、俺の高校からの友人なんだ」
「……よろしく」
小さく頭を動かすとその人――保科さんは表情を緩めた。律樹さんの友人ということはそんなに怖い人じゃないのかもなんて単純な俺の頭は判断したようで、体の強張りが一気に解けていく。
近くにあった椅子を引き寄せて二人が座る様子をじっと見つめていると、徐に保科さんが俺に黒い板を差し出してきた。それが何かがわからずに戸惑う俺に律樹さんが軽く笑い、保科さんの手からそれを受け取る。
「これはね電子メモパッドだよ。このペンで書いて……このボタンを押すと消えて、また書くことができる」
どうやら保科さんは俺が話せないことを知っているようだ。最近はこんな便利なものがあるんだなと思いながら俺は律樹さんから電子メモパッドのペン部分だけを受け取る。律樹さんが支えてくれているパッド本体に、漸く力が入るようになってきた手で握ったペンを押し当ててみると、黒い背景に明るい緑が浮かび上がった。滲み出たようなその色にほんの少し心を躍らせながら、さらさらと文字を記していく。
『ありがとうございます』
「……ああ」
黒い板に書かれた文字を読んだ保科さんは表情を崩した。そんな保科さんを見た律樹さんの口元が笑みの形に変化する。
「こいつが急に俺を呼び出すから何事かと思ったが……まあ目が覚めてよかった。調子はどうだ?痛いところがあれば治療するが……」
その言葉に大丈夫だと首を振ると、二人の表情がほっとしたものに変わる。
そうか、今の言葉で俺が不思議に思いながらも聞けなかった疑問が一つ解決した。日曜日に保健室の先生がいるのは珍しいなと思っていたけれど、でもまさか律樹さんが呼び出していたとは思わなかった。このまま後部座席に俺を乗せて帰ることも出来たのにどうしてしなかったんだろうと彼を見ると、眉根を下げた律樹さんと目があった。
「弓月が気を失う直前、頭を抑えていたから頭が痛いのかと思ったんだ。打ったのかそうじゃないのかもあの状況じゃわからなかったし、もし打っていたとしたらあまり動かさないほうがいいって言われたことを思い出して……それで慶士に連絡して保健室を開けてもらったんだよ」
「まあこの様子なら頭を打っていたわけではなさそうだな。何にせよよかった」
わざわざ俺なんかのためにそう言ってくれる二人に胸が温かくなる。俺は律樹さんに支えてもらいながら何とかベッドに腰掛けると、もう一度保科さんに向かって頭を下げた。
「いや、そんなに頭を下げなくてもいい。……こいつには貸しがあるからな、返せてよかった」
貸し?と首を傾げた俺に、律樹さんは何でもないよと笑う。するとどうしてか胸にもやもやとした何かが生まれた。気になる、けれど律樹さんが何でもないよと言うのだから俺がこれ以上何かを反応するのも憚られる。気持ちを押さえるようにぐっと布団に隠れた方の手を握りしめてから曖昧に笑うと、突然保科さんが律樹さんの頭を小突いた。
「え、なに」
「何でもないじゃないだろ、不安にさせてどうする。……前に律樹に助けてもらったことがあるんだが、今回のことはそのお礼だと思えばいい。お前は何も気にする必要はないし、俺とこいつは友人以外の何者でもない」
「……!」
保科さんは真っ直ぐに俺を見てそう微笑んだ。まるで俺すらも理解しきれていない俺自身を見透かしたようなその視線と言葉に、どう反応すればいいのかがわからない。ただただ驚きながら目を見返す俺を、保科さんは目元を僅かに緩ませながら見ていた。
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