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第二章

二十五話 鈴の音

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 夢の中で何度か聞いた鈴の音が鼓膜を揺らす。か細くて、けれど澄んだ綺麗な音は蝉の大合唱の中でもやけにはっきりと耳に届いた。

 顔を向けた先には制服を少し着崩した一人の男子生徒が立っている。一応進学校であるこの高校の生徒にしては明るい髪色とモデルでもしていそうな整った容姿が目を引いた。耳には幾つかピアスをしているようで、太陽の光を反射したそれがきらりと光る。

 Subだとわかって家に閉じ込められるまでの記憶が殆どないのに、通学路のこともそうだったが、特にこの学校に足を踏み入れてからは職員室に来たことを思い出したりと記憶が少しずつ戻っているような気がする。竹中先生は何かのきっかけがあればすぐに戻るだろうって言っていたけれど、本当にそうみたいだ。
 今だってほら、この声を懐かしいと感じている。

「弓月……なのか?」

 目を見開き、信じられないと言ったような声色で俺の名を呼ぶ。反射的にこくりと頭を動かそうとして、一瞬躊躇いが生まれた。いくら俺の中の何かが懐かしさを感じるからといってそれが本当かどうかもわからない上に、まだこの人が誰かもわからない状態で頷くのも怖い。そう思い直した俺はスマホの通話終了ボタンに触れながら慌てて顔を逸らした。

 名前を呼んでいるから人違いの可能性はほぼないだろうが、それでも可能性はある。それにもし本当に彼が俺の知り合いだったとして、この人が味方かどうかがわからない。もしかするとあの人たちのような人だったかもしれないのだ。
 そう考えると律樹さんとの通話を切ったのは間違いだったかもしれない。……いや、律樹さんは今忙しいんだから俺のことでこれ以上手を煩わせるわけにはいかないよなぁ。そんなことを思っていると不意に身体を衝撃が襲った。

「なあ……お前、坂薙弓月だろ?なんでここに……おい、こっち向けって」
「……!」

 呼ばれたフルネームに身体が強張る。
 やはりこの人は俺を坂薙弓月だと確信しているようだ。彼は強い力で俺の肩を掴み、逸らしていた顔を強引に戻された。思いの外力が強く、しっかりと掴まれた肩が痛い。痛みに顔を歪ませながら視線を上げると、そこには必死な形相の青年がいた。
 
 どうしてそんなにも泣きそうになっているのかはわからない。ふっと頭の中に湧いて出た職員室の時のエピソードのように、この人と俺がどんな関係性だったのかも思い出せればいいのに今のところ全く思い出せそうな気配はない。世の中そんなに都合よくできてはいないようだ。
 誰、と聞きたいのに声が出ないのがもどかしい。もしかすると名前をきっかけに記憶が戻るかもしれないのに、名前を思い出せないどころか聞き出すことすら出来ない自分にため息が溢れた。

「……なんで何も言わないんだよ?……突然いなくなったと思ったら、っ……学校辞めちまってるし……」

 俺だって好きで学校来なくなったわけでも、辞めたわけでもない。ただ俺がSubだった為にこうなってしまった。

「俺……何度かお前の家に行ったんだぜ……?でもいないって言われて……お前今までどこにいたんだよ?なんで何も、何も話さないんだよ……っ」
「……」

 話さないんじゃなくて話せないんだよ。
 そう思ってはいるが実際に口にすることは出来ないため口を固く引き結んだ。手にスマホを持っているはいるが、急にスマホの画面を見せたところで意味をわかってもらえない可能性が高いので現実的ではないだろう。

「俺、あの時お前に……」
 
 ――チリリン。

 またあの鈴の音が聞こえる。
 周囲には音が溢れかえっているというのに、どうしてかいつもこの音だけははっきりと耳に届いた。頭の中に広がるように鈴の音が反響し、この空間から自分だけが切り離されたような感覚に陥る。夢ではなく現実のはずなのにどこか現実味がなく、今いるここが夢の世界の続きなのだと錯覚してしまいそうだった。
 
 俺は音の聞こえた方向に視線を移していく。視界の端に金色に光るそれを入れた瞬間、今までなんともなかった頭が突然激しい痛みに襲われた。

「……っ」
「弓月……?」

 頭上から戸惑う声が聞こえてくる。突然様子の変わった俺の姿に困惑しているのだろう。しかし俺はそれに反応することが出来ないまま、ただ痛みに耐えるしかなかった。なんの前触れもなくやって来た痛みはガンガンと殴りつけてくるようで、頭の中が大きく鼓動しているかのように痛みと共に視界が揺れる。
 まるで思い出すなとでも言いたげな痛みに、俺は下唇を噛み締めた。

「おい……?弓月?」

 痛みに喘ぐ声でさえ出ないのだ、頼むから今話しかけないでくれなんて思っていても声に出すなんて出来ない。

 頭を割ろうとしているのか、ガンガンと打ちつけるような痛みが激しくなっていく。肩を掴んでいた手が離れていき、俺は自由になった腕を持ち上げて痛む頭を抱えた。

(痛い……気持ちが、悪い……)

 頭が揺れ、まるで酔っているように気持ちが悪い。目を瞑ると目の奥でちかちかと何かが瞬いている。それが余計に気持ち悪くて、さらに噛み締める力を強めた。

「ちょ、大丈夫か?なあ、ゆづ……っ!」
「弓月!」
「……瀬名、先生……?」

 痛みの狭間、遠くから聞こえて来た聞き慣れた声にほんの少しだけ力が抜ける。痛みに耐える為に閉じていた目を薄く開いて見上げると、俺の好きな琥珀色がそこにはあった。

「弓月、大丈夫?」

 大丈夫か大丈夫じゃないかと聞かれたら大丈夫ではないとは思うけど、それでもなんとか首を縦に振る。
 目を開ける気力も顔を上げておく気力もなくて、俺は身体に触れた律樹さんの温もりに寄りかかった。痛みの合間になんとか呼吸をしていると、優しくて落ち着いた香りが鼻腔を擽った。

「あの、瀬名先生……弓月と知り合い……なんすか?」
「君は……」
「俺は、三年の刈谷かりや壱弦いづる……です」

 律樹さんの手が俺の後頭部に触れる。その手が触れたところから痛みが和らいでいくような気がして、俺はその手に擦り寄った。
 そんな時頭上から聞こえて来たのはさっきの人の名前――どうやら彼は刈谷壱弦という名前らしい。その名前は俺の心をざわつかせるが、それでも職員室や通学路の時のように思い出すわけではなかった。

「……もうすぐ昼休みが終わるから、刈谷くんはもう行きなさい」
「っ、でも弓月が……!」
「大丈夫、弓月のことは俺がする。俺はこの子の従兄弟だから」
「……従兄弟?」

 律樹さんの口から溢れた従兄弟という言葉に、胸がつきりと痛んだ。折角頭の痛みは引いていっているのに今度は胸の痛みかよと心の中で自嘲する。

 パタパタと走っていく音が聞こえ、俺は息を吐き出した。急に身体から力が抜けていく。

「……ごめんね、弓月」

 そんな律樹さんの謝る声を最後に、俺の意識はぷつりと切れた。
 

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