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第二章

二十二話 女の人 前編

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 夏が終わり、秋が来た。
 とはいっても、まだまだ残暑はきつい。

 九月に入り、俺たちの生活は一気に変わった。
 まず七月から休職していた律樹さんが復職した。律樹さんが教師として働いている高校はいわゆる進学校のため、八月半ば――お盆が過ぎてすぐの頃から授業は始まっている。そのため八月中にある授業は他の先生にお願いしていたらしい。
 
 そして俺はというと、律樹さんが家にいない間に通信教育で勉強を一からやり直すことに決めた。
 俺だって高校には通いたいと思っているが、いつでも誰でも編入できるわけではない。しっかりと編入試験を受け、それに受かった人だけが編入を許されるのだ。本当なら今頃は高校三年生として学校に通っていたはずなのにと思わなくもない。両親と実兄のせいでそれが出来ないことに恨みも悔しさも勿論あるが、そればかりではどうしようもないことくらい、俺だってわかっている。
 ただ勉強していてもやる気にならないだろうと言うことで、律樹さんと竹中先生と話し合った結果、期限と目標を設定することになった。一先ずの期限は来年の春まで。それまでにどこまで勉強できるかによってそのまま通信教育で高校卒業程度の資格を取るか、もう一度高校を受験し直して一年生からやり直すかを決めることにしたのだ。

「いってきます」

 今日は土曜日だが、午前中だけ授業だか補講だかで仕事があるらしい。教師って大変なんだなぁ、なんて思いながら俺は律樹さんの背中を見送った。玄関扉が閉じ、磨りガラスに映った彼の姿が見えなくなる。俺は振っていた手を下ろし、ふっと肩の力を抜いた。
 
 律樹さんが学校に出勤すると家には俺一人だ。
 最近リハビリがてらに手伝っている洗濯物を畳み終え、さて俺も勉強するかと玄関から自分の部屋に向かおうとした時、ピンポーンと間延びしたチャイムが鳴り響いた。律樹さんが忘れ物でもしたのかななんてぼんやりと考えながら玄関扉を開ける。

「……」
「……」

 そこには知らない女性が立っていた。
 お互い沈黙のまま動かない。

 律樹さんじゃなかったことに内心焦り散らかしている俺だったが、すぐに我に返って玄関扉を閉めようとした。しかしそれはいつの間にか玄関扉と玄関の間に入れられていた足によってかなわない。表面上には現れていないだろうが、内心冷や汗がすごかった。
 「留守中は誰が来ても絶対に扉を開けてはいけないし、出てはいけないよ」と律樹さんが何度も、それこそ耳にタコが出来るくらい繰り返し言っていた言葉が、頭の中で勝手に再生される。
 その時はそんな小さい子でもあるまいし、もう十八なんだから大丈夫だよなんて笑っていたけれど、あの時の俺を今すぐ殴りたい。俺は、俺の思う以上にポンコツだった。

 声が出ないというのはこういう時にとても不便だ。家の人はいませんと一言言えばこの人は帰るかもしれない。しかし今の俺には何かを伝える手段がなく、それができない。どうしようどうしようと焦るが、何も考えが浮かばないまま時間は過ぎていく。

「……律樹は?」
「……」

 今まで黙っていた女性がそう口にした。俺ははっと我に返ってふるふると頭を振る。すると女性は綺麗な顔を訝しげに歪めた後、大きく息を吐き出して困惑した声を上げた。

「……ここって瀬名律樹の家であってる……わよね?」

 その質問に俺はこくりと頷いた。
 どうやらこの女性は律樹さんの知り合いの方らしい。もしかして元カノというやつなのだろうか。
 
 ……なんだろう、今一瞬胸が痛んだような気がする。
 俺は傷んだ場所に手を当てて僅かに首を傾げた。もしかして体調が悪くなる前触れだろうかと不安になっていると、目の前に立っている女性が不思議そうな表情で俺の顔を覗き込んできた。

「……どっか痛むの?」
「……」
「あの……何か反応くらいして欲しいんだけど」

 どう反応していいかわからなくて困っていると、俺よりも少し高い位置にある綺麗な目元が僅かに歪む。その反応にびくりと肩が跳ね、俺は視線を落とした。

「そういえば……貴方は誰?どうして律樹の家に?」
「……」
「……」

 そう聞かれ、俺は顔を上げて口を開いた。しかし当然のように声は出ない。開けたものの声が出なくて、どうしようもなくなってゆっくりと口を閉じていく俺の口元を、女性はじっと見ていた。

 再び俺たちの間に沈黙が流れる。
 先に口を開いたのは当然だが女性の方だった。

「取り敢えず、上がらせてもらえないかしら?」
「……!」

 この言葉に俺の頭の中はプチパニック状態である。この家は律樹さんの家だ。だから律樹さんのお客さんを勝手に断るわけにはいかないんだけれど、かと言って勝手に家に上げるわけにもいかない。
 どうしたらいいのかわからなくなってあわあわとしていると、目の前に立った女性がふっと笑みを浮かべた。

「律樹が帰ってくるまでこの家で待たせてくれない?一応律樹に連絡は入れているから大丈夫よ。……もし心配なら送ったメッセージ見る?」
「……!」

 律樹さんに連絡が入っているならいい……のか?と俺は慌てて入り口を開けるように一歩横に体をずらして女性を見上げると、今度は女性が目を見開く番だった。そのまま動きを止めてしまった女性に、入らないのかな?と首を傾げる。すると彼女ははっと我に返ったように一瞬身体を跳ねさせた後、慌てたように笑みを繕った。そして小さな声でお邪魔しますと口にしながら家の中に足を踏み入れる。

 家の中と外界を隔てるように、玄関扉がカタンと音を立てて閉まる。ねっとりとした熱を持った外気が遮断され、冷たさを持った空気が床を這い、足元に絡みつく。扉の向こうから蝉が大合唱をしている声が聞こえてくるが、扉一枚隔たれた今ではどこか遠い世界のようだった。

 上り框のすぐ近くで歩みを止めた女性が振り返る。意志の強そうな瞳が俺を射抜き、俺はまるで金縛りにでもあったかのように動きを止めた。


 
 カチャン、と音がする。
 その音に気が付いて俺が立ちあがろうとした時、それよりも速く目の前に座っていた人が立ち上がる。あまりにも素早いその行動に呆気にとられた俺は、女性が素早い動きで何処かに駆けていくのを止められなかった。

 玄関先から何かを話す声が聞こえてくる。それは言い争っているようにも、楽しそうに戯れあっているようにも聞こえ、俺は胸をそっと押さえた。
 テーブルに手をついて立ち上がり、ソファに立て掛けてあった杖を使って玄関まで歩いていく。最近は杖を使わなくても移動できるようになったのだが、少しでも速く移動したくて杖を使った。

 玄関に近づくにつれ、話し声は大きくなっていく。俺といる時には聞くことのできない律樹さんの話し方や声色に、また胸が痛んだ。杖を持っていない方の手で胸をゆっくりと摩りながら俺は歩みを止め、とんと近くの壁に背中を預けた。玄関からは見えないこの位置で、俺はほぅと息を吐き出す。

 律樹さんと女性の声が聞こえてくる。彼女と話す彼の声は、俺といる時の優しくて柔らかな声とは全く違うどこか生き生きとした声に感じられた。
 二人の中に入っていくことがどうしてから躊躇われる。折角ここまで歩いてきたのだから顔を見せるだけでも見せたらいいと思うのに、ここから先へ足が動かない。俺は胸に置いた手をぎゅっと握りしめ、そっとその場を後にした。

 自分の部屋に入ってすぐ扉を閉める。ベッドまで歩いて行き、ぼふんと布団の上に倒れ込んだ。

(やっぱり彼女なのかな……もし彼女だったら俺、ここにいたら邪魔……だよなぁ……)

 初めの頃、律樹さんに彼女はいるのかと聞いたことがある。その時はいないと答えていたが、もしかするとそれは俺に気を遣わせないための嘘だったのかもしれない。それともあれは本当で、元カノというやつなのだろうか。

 律樹さんの帰りを待っている間、女性はリビングにいた。一人にしておくのもどうかと思った俺は、取り敢えず律樹さんのお客さんだということで精一杯のおもてなしをしようとした。……とは言っても、冷蔵庫に入っていた冷たい麦茶の入ったグラスを出したり、律樹さんがいつも俺にしてくれるようなお菓子を盛ったお皿を出したりとしただけだったが。
 初めのうちは何度か話しかけてくれた女性も、俺が何も話せないでいるうちに諦めたのか黙り込んでしまった。それに関しては本当に申し訳ないとは思いつつも、どう説明すればいいのかわからなくて何も示さなかった俺が悪い。今思えば紙なりスマホなりに自分の声が出ないことを説明すればよかったのに、それを俺はしなかったのだから。
 律樹さんが帰ってくるまでの時間はとても長く感じられた。初対面二人、それも内一人が話せないという非常に気まずい空気の中、お互いよく耐えたと思う。

 ごろんと寝返りを打ち、枕に顔を埋める。
 もしここを出ていくとなったら俺には行く宛がない。さてどうしようか、せめて宛が見つかるまでここに置いてほしいってお願い出来たらいいななんて考えていた時だった。

 コンコンと扉が叩かれる音がする。
 叩き方ですぐに律樹さんだとわかったが今どんな顔をすればいいのかわからなくて、俺は無意識に息を潜めて寝たふりをした。数分、いや数秒だったかもしれない。俺が開けないことに業を煮やしたのか、扉が開いて彼が部屋に入ってくる音がした。

「弓月」

 いつもより少し強めの声が俺を呼ぶ。
 怒気を含んでいるように聞こえる声色に思わずえ、と戸惑う俺のすぐ近くで、また声がした。

「弓月、起きてるんでしょ?」
「……」

 気付かれているなら仕方ないと渋々起き上がる。顔を上げた先には俺の好きな琥珀色の瞳があったが、そこにいつもの柔らかさがなくて俺は戸惑った。
 律樹さんは眉間に皺を寄せ、目を僅かに吊り上がらせている。その上普段は緩やかに上がっている口角が今は下がっていた。いつもとは違うそんな表情に、俺の喉はひくりと鳴る。

「弓月」
「……」
「俺、怒ってるんだけど」
「……っ」

 それは表情を見ていればわかる。でも何に怒っているのか、思い当たる節がありすぎて俺は目を逸らす。するとそれが気に障ったのか、起き上がってベッドに腰掛けていた俺の肩をとんと押した。とても軽い力だったが、あまり力の入っていない腕で何とか支えていたこともあり、いとも容易く俺の身体はベッドに沈む。驚きに固まる俺の上に跨るようにベッドに上がった律樹さんは、ぼすっと顔の両側に手を付いた。

(……あ、これこの前テレビで見た……確か床ドンとかいう……あれ?でもベッドだから違う……?)

 無意識の現実逃避なのだろうか、そんなことを考えていると不意に上から声が降ってきた。弓月、と短く呼ばれ、思考が止まる。

「何で俺が怒ってるかわかる?」

 素直に答えていいものか一瞬悩んだが、ここで嘘をついても何の得にもならないと判断し、正直に頭を横に振った。深くて長い溜息が頭上に降ってくる。

「……俺がいつも言っていること、覚えてる?」
「……?」
「俺が留守で、弓月がこの家に一人でいる時の約束」
「……?……!」

 いくつか思い浮かんだ俺はこくこくと首を縦に振った。すると俺の真上――つまり目の前にある彼の顔に刻まれた刻まれた眉間の皺が深くなっていく。下がっていた口角が僅かに上がり、へぇ…と普段よりも数段低い声がこぼれ出た。そうした彼の反応にぴしりと動きが止まる。

「覚えてるのなら、どうして弓月以外の人がこの家にいるのかなぁ?」
「……っ」
「……ねぇ?弓月」

 いつもは穏やかで優しくて安心できる笑顔が、今は怖い。多分すごく怒ってる。律樹さんの言葉から何に怒っているのかは理解できた。多分あれだ、律樹さんの留守中に誰が来ても絶対に玄関を開けてはいけないって約束を俺が破ったからだ。それがわかった瞬間、俺は勢いよく顔を逸らした。

「……これは少しお仕置きが必要かな……?」
「……っ?!」

 お仕置き、という言葉に俺の中に熱が湧き起こる。とくんとくんと鼓動が速くなっていくことに俺は困惑した。怒られているのに頭のどこかで違う気持ちを抱いている自分がいる。
 あ、とかう、とか声もなく形を変えていく口。それを視界におさめた律樹さんの口角が僅かに上がった瞬間、パンッという大きな音が耳を打った。


 
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