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第一章
閑話 瀬名律樹は大事にしたい 前編
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※このお話は前・中・後編で成り立っています。
※「十五話 欲と願い」~「十九話 生理現象」の律樹視点です。
病院からの帰り道、俺は悩んでいた。
週に一度の点滴に毎日のケア――勿論医療費のことだって悩まなければならない部分も多いが、そこは正直なんとかなるのでいいとして問題は毎日のケアの方だ。
毎日のケア――つまりプレイ。
勿論弓月とのプレイが嫌なわけではない。寧ろ嬉しい。だが未だ弓月の体力や精神面に不安が残る今の状況で、本当に毎日しても大丈夫なのかとか何処までならいいのかとか色々思うわけだ。
でも不安はそれだけじゃない。俺が、俺自身が何処まで耐えられるかも問題だ。
俺は弓月が好きだ。さらに言えば、弓月は俺の初恋の人である。初めて会ったのは弓月が三歳、俺が八歳の頃。あの初めて会った日、俺は弓月に心を奪われた。あの日から俺の心には弓月だけがいる。
中学生の時、初めて女子から告白された時は嬉しかったが、同時に落ち込んだ。俺は男で、弓月も男。目の前の彼女は女の子で、俺は男。同性同士が付き合うこともあるだろうが、可能性としては限りなく低い。その事に気が付いたのだ。
告白してくれた女の子が試しに付き合ってみて欲しいと言ったので、彼女の言葉に甘えて付き合ってみることにした。今思えば不誠実な行為だった。けれどその時はそれが正解なのだと思っていた。
その後も高校、大学と何度も違う女性に告白されて付き合ってみたが、やはり俺の中には弓月しかいなかった。どの子も付き合ってひと月も経たないうちに別れ、そのうち付き合うことすら無くなった。
そんな片想い歴十八年の俺が弓月への想いを爆発させてしまうかもわからないこの状況は、本当に不安でしかない。
前回軽くしたプレイだってそうだった。あの後、俺は結局耐えきれなくて一人で抜いたのだ。それを毎日だって?嬉しいけれど、歯止めの効かなくなった俺がいつか弓月を襲って壊してしまいそうで怖かった。
さっき医療費に関して正直どうにかなると言ったのは嘘ではない。元々お金をあまり使う方ではなかった俺は、幼少期からコツコツと貯めていた。それは学生時代にバイトをしていた時も働いている今も同じで、毎月決まった額を貯金や投資に回している。だからこの歳にしてはそれなりにあると思うし、いざとなれば俺の両親が口を挟みにくるだろう。……出来れば頼りたくないし、言いたくもないのだが。でももし俺が弓月に十分な治療をさせられていないとどこからか聞いた時点で、あの人はきっと俺から弓月を離しにかかるだろう。――あの人はそういう人だ。
少し前、俺が坂薙家から弓月を連れ出した時のことだ。衰弱し切った弓月が病院に運び込まれてすぐ、海外にいる両親から電話が来た。俺が弓月を引き取りたいのだと言うと、両親というよりも母が反対した。
俺の母は弓月から見れば実母の姉――つまり伯母に当たる。母は、初めて弓月とあったあの日からそれはもう自分の息子以上に可愛がっていた。それは交流が一方的に切られ、音信不通となってからも変わらない。そんな母が反対をするなんて、と驚きつつもよくよく話を聞いてみて、納得した。母は俺が引き取ることに反対していたのではなく、自分たちが引き取りたいと言っていたのである。
「母さん達が養子にするわ。社会人になりたてで給料も少ない律樹は引っ込んでなさい」
「俺が弓月を見つけたんだ。俺が弓月を養う。俺にだって貯金くらいあるし、これから先必死に働くから大丈夫だ。母さんこそ引っ込んでろよ」
こんな言い合いを何度したかわからない。色々あった末、結果的に俺が引き取ることが出来たが、もし俺が一言でも弱音を吐こうものなら確実に母は弓月を引き取りに現れるだろう。それだけは嫌だった。
そんなこんなで、出来れば両親にだけは言いたくもないし頼りたくもないのだ。
そういえば竹中先生に毎日プレイをするようにと言われたが、弓月自身はどう思っているのだろうか。もし弓月が俺とのケアに乗り気でないのならプレイはできない。プレイの強要は強姦と同じだ。無理をすれば確実に弓月の体調にも影響するし、何より彼の心が一番心配だった。
「無理そうなら断ってもいいからね。弓月には費用の心配なんてせず、自分のことだけ考えて欲しい」
気付けば俺はそう口にしていた。
そりゃあ俺は自分のDom性のこともあるし、相手が弓月とあれば喜んでプレイするけれど、俺と弓月は違う。俺は弓月が好きだから、いつでも何処でも大切にして、大事にして、そしてどろどろに甘やかしたいと思っている。けれど弓月が俺のことを好きでない場合、俺の行動はきっと彼にとって毒になるだろう。どんなに大切に慈しんだとしても、それは結局少しでもお互いにプラスとなる想いがなければお互いが苦しいだけだ。
俺たちのように第二性を持つ人間は、お互いにプレイすることでしか欲求を満たせない。DomはSubに庇護を与え、SubはDomに信頼を与える――お互いがお互いを尊重した上でしか成り立たない関係であり、どちらか一方だけが無理に欲求を満たそうとすれば、弓月と兄である総一郎がそうであったようにその時点で関係は破綻してしまう。
信号が青から黄色、そして赤に変わった。白い停止線の手前で車を止め、俺は信号をじっと見つめながら彼を呼ぶ。するとそれに答えるように弓月は俺の袖をくい、と軽く引っ張った。そのいじらしさに胸が高鳴る。俺は誤魔化すように咳払いをし、できるだけ優しく言葉を紡いだ。
「弓月は何も心配しなくていい。無理なら俺から先生に伝えておくから」
彼からの反応はない。
……当たり前だ、今の弓月は声が出ないのだから。
袖を引っ張っていた指が外れていく。前を向きながら、離れていくその手に名残惜しいななんて思っていた俺は、その指が震えていることに気が付かなかった。助手席の方に視線を移すと、弓月の旋毛が見えた。俯いているので表情はわからない。
「……弓月?」
視線を前に戻すとすぐに信号が青に変わった。アクセルをゆっくりと踏み込んでいくと同時にエンジン音が大きくなっていく。視界の端に映る短くなった黒髪を見ながら、ふと思い出したことを聞いてみた。
「そういえば、先生から聞いたんだけど……俺に何か……お願いしたいこと、あるんだって?」
これは竹中先生が嬉しそうに話してくれたことだ。弓月が何か俺にお願いをしたいらしいと聞いた時、俺も嬉しかった。だって弓月が俺にお願い事なんて殆どしないから。足や手が動かないから助けて欲しいとか、一人でお風呂に入ることが難しい時には一緒に入って欲しいとかそういうお願いならあるけれど、それは彼にとっては生活に関わる必要なお願いだ。しかもそれをお願いした後は必ず申し訳なさそうな表情をしていた。
だから純粋なお願い事をしてくれる日が来るとは思っていなくて、口角が上がるのを止められない。
視界の端で弓月が動いたのがわかった。今は運転中のため弓月の方を見ることは叶わない。だから弓月が何かしらの反応を示してくれることを待っていたのだが、一向にアクションを起こしてこない弓月に不安が募る。
「えっと……あれ?違う?」
内心戸惑いながら、表面上は聞き間違いかもと苦笑を溢す。本当はよそ見をしてはいけないんだけど、一瞬だけなら大丈夫かなとほんの少し視線をずらした。すると弓月が顔を上げ、黒曜石のような瞳と視線が一瞬交わる。
視線が合ったのはほんの一瞬、なのに濡れた瞳が脳裏に焼き付いて離れない。見間違いかもしれないともう一度視線を移して見るが、やはり彼の瞳は濡れていた。
なんで、いつ、どうしてと疑問ばかりが頭に浮かぶ。ついさっきまではふつうの状態だったはずなのにどうしていきなり泣いているんだろうか。
俺は居ても立っても居られなくて、どこか寄れるところを探す。運良く少し先にコンビニを見つけ、左折合図してからコンビニの駐車場に入った。入り口から離れたところに後ろ向きに駐車し、ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを掛ける。今は夏、雨が降っているため気温はそこまで高くはないが、一応熱中症対策のためにエンジンはかけたままだ。
「弓月」
俺はシートベルトを外し、助手席に座る弓月の方を向く。俺が名前を呼ぶと、彼の喉がひくりと鳴った。
「……どうして泣いてるの?」
「……?」
キラキラと輝く宝石のような黒い瞳が揺れる。もしかして自分が泣いていることに気づいていないのだろうか?
俺はそっと弓月の濡れた頬に手を添えた。あの家から助け出した直後よりもほんの少しふっくらとしてきた頬に指を滑らせ、親指で撫でる。驚いたように目を細める弓月の目から、一筋涙が流れた。
「……ほら、こんなに濡れてる」
「……!」
濡れた手のひらを見せると、本当に気づいていなかったらしい彼は驚いたようだった。
さっきまでは普通だった。笑顔でもないけれど、泣いてもいなかったのに、どうして急に――そう思ったところで俺は、さっき急に反応が少なくなった時のことを思い出した。
「俺もしかして……余計なこと言った?」
俯いた弓月の頭頂部を見ながら呆然と呟く。疑問系だが疑問系じゃない、これは思い当たったことが勝手に口から出ただけだ。
目の前で俯く弓月の体は僅かに震えている。多分泣いているのだろう。でも俺にはどうして彼が泣いているのかがわからない。俺は弓月じゃない、だから教えてもらわないと彼の心を理解することなんて到底出来ないのだ。
俺はポケットから自分のスマホを取り出し、俯いたままの弓月に差し出した。スマホに書いてもらえれば俺も理解することができるかもしれない、そう考えたのだ。すると弓月がはっとしたように顔を上げた。スマホのことを今思い出した、というような表情に、俺は頬を緩める。
「弓月のスマホ、後ろの鞄の中でしょ?だから俺のを使って、弓月が今言いたい事を俺に教えて?」
そうすれば弓月がどうして泣いているかを知ることが出来るから。この状況的にきっと俺が原因なんだろうけど、それでも弓月が涙を流す理由が知りたかった。
はい、とロックを解除してメモアプリを開いた状態のスマホをもう一度差し出す。弓月はその細い腕を上げ、壊れ物を扱うかのようにそっと丁寧に手の中に包み込み、小さく頷いた。
弓月がスマホの画面に触れながら文字を入力していく。細くて長くて綺麗な指先が液晶の上を滑っていく様子をじっと眺めていると、不意に弓月が動きを止めた。
どうかしたのだろうかと見つめていると、弓月の長い指が何かを考えるようにスマホの上を彷徨ったかと思えば、スマホから外れていく。そして顔を上げ、遠慮がちに俺の服を掴んだ。濡れた瞳が僅かに揺れる。何かを躊躇うように瞳が左右に揺れ、視線が俺から外れた。
俺はそこでやっと弓月が言いたいことがわかった。
「ん?……ああ、ごめん。見られてたら緊張するよね……俺、コンビニで何か買ってくるよ」
そう言ってそそくさと車を降りる。
そりゃそうだ、見られていたら文章なんか書けない。それなのに俺は弓月の指が綺麗だからってじっと見て。
はあぁ…とため息が溢れる。弓月の前では気の利く頼れる格好良い大人でいたいのに、上手くいかない。
それに俺を見つめる濡れた瞳が脳裏に焼き付いて離れない。体の中に燻る熱が、頭の中を侵食していく。気持ちを切り替えるように俺はまずトイレに向かった。
※「十五話 欲と願い」~「十九話 生理現象」の律樹視点です。
病院からの帰り道、俺は悩んでいた。
週に一度の点滴に毎日のケア――勿論医療費のことだって悩まなければならない部分も多いが、そこは正直なんとかなるのでいいとして問題は毎日のケアの方だ。
毎日のケア――つまりプレイ。
勿論弓月とのプレイが嫌なわけではない。寧ろ嬉しい。だが未だ弓月の体力や精神面に不安が残る今の状況で、本当に毎日しても大丈夫なのかとか何処までならいいのかとか色々思うわけだ。
でも不安はそれだけじゃない。俺が、俺自身が何処まで耐えられるかも問題だ。
俺は弓月が好きだ。さらに言えば、弓月は俺の初恋の人である。初めて会ったのは弓月が三歳、俺が八歳の頃。あの初めて会った日、俺は弓月に心を奪われた。あの日から俺の心には弓月だけがいる。
中学生の時、初めて女子から告白された時は嬉しかったが、同時に落ち込んだ。俺は男で、弓月も男。目の前の彼女は女の子で、俺は男。同性同士が付き合うこともあるだろうが、可能性としては限りなく低い。その事に気が付いたのだ。
告白してくれた女の子が試しに付き合ってみて欲しいと言ったので、彼女の言葉に甘えて付き合ってみることにした。今思えば不誠実な行為だった。けれどその時はそれが正解なのだと思っていた。
その後も高校、大学と何度も違う女性に告白されて付き合ってみたが、やはり俺の中には弓月しかいなかった。どの子も付き合ってひと月も経たないうちに別れ、そのうち付き合うことすら無くなった。
そんな片想い歴十八年の俺が弓月への想いを爆発させてしまうかもわからないこの状況は、本当に不安でしかない。
前回軽くしたプレイだってそうだった。あの後、俺は結局耐えきれなくて一人で抜いたのだ。それを毎日だって?嬉しいけれど、歯止めの効かなくなった俺がいつか弓月を襲って壊してしまいそうで怖かった。
さっき医療費に関して正直どうにかなると言ったのは嘘ではない。元々お金をあまり使う方ではなかった俺は、幼少期からコツコツと貯めていた。それは学生時代にバイトをしていた時も働いている今も同じで、毎月決まった額を貯金や投資に回している。だからこの歳にしてはそれなりにあると思うし、いざとなれば俺の両親が口を挟みにくるだろう。……出来れば頼りたくないし、言いたくもないのだが。でももし俺が弓月に十分な治療をさせられていないとどこからか聞いた時点で、あの人はきっと俺から弓月を離しにかかるだろう。――あの人はそういう人だ。
少し前、俺が坂薙家から弓月を連れ出した時のことだ。衰弱し切った弓月が病院に運び込まれてすぐ、海外にいる両親から電話が来た。俺が弓月を引き取りたいのだと言うと、両親というよりも母が反対した。
俺の母は弓月から見れば実母の姉――つまり伯母に当たる。母は、初めて弓月とあったあの日からそれはもう自分の息子以上に可愛がっていた。それは交流が一方的に切られ、音信不通となってからも変わらない。そんな母が反対をするなんて、と驚きつつもよくよく話を聞いてみて、納得した。母は俺が引き取ることに反対していたのではなく、自分たちが引き取りたいと言っていたのである。
「母さん達が養子にするわ。社会人になりたてで給料も少ない律樹は引っ込んでなさい」
「俺が弓月を見つけたんだ。俺が弓月を養う。俺にだって貯金くらいあるし、これから先必死に働くから大丈夫だ。母さんこそ引っ込んでろよ」
こんな言い合いを何度したかわからない。色々あった末、結果的に俺が引き取ることが出来たが、もし俺が一言でも弱音を吐こうものなら確実に母は弓月を引き取りに現れるだろう。それだけは嫌だった。
そんなこんなで、出来れば両親にだけは言いたくもないし頼りたくもないのだ。
そういえば竹中先生に毎日プレイをするようにと言われたが、弓月自身はどう思っているのだろうか。もし弓月が俺とのケアに乗り気でないのならプレイはできない。プレイの強要は強姦と同じだ。無理をすれば確実に弓月の体調にも影響するし、何より彼の心が一番心配だった。
「無理そうなら断ってもいいからね。弓月には費用の心配なんてせず、自分のことだけ考えて欲しい」
気付けば俺はそう口にしていた。
そりゃあ俺は自分のDom性のこともあるし、相手が弓月とあれば喜んでプレイするけれど、俺と弓月は違う。俺は弓月が好きだから、いつでも何処でも大切にして、大事にして、そしてどろどろに甘やかしたいと思っている。けれど弓月が俺のことを好きでない場合、俺の行動はきっと彼にとって毒になるだろう。どんなに大切に慈しんだとしても、それは結局少しでもお互いにプラスとなる想いがなければお互いが苦しいだけだ。
俺たちのように第二性を持つ人間は、お互いにプレイすることでしか欲求を満たせない。DomはSubに庇護を与え、SubはDomに信頼を与える――お互いがお互いを尊重した上でしか成り立たない関係であり、どちらか一方だけが無理に欲求を満たそうとすれば、弓月と兄である総一郎がそうであったようにその時点で関係は破綻してしまう。
信号が青から黄色、そして赤に変わった。白い停止線の手前で車を止め、俺は信号をじっと見つめながら彼を呼ぶ。するとそれに答えるように弓月は俺の袖をくい、と軽く引っ張った。そのいじらしさに胸が高鳴る。俺は誤魔化すように咳払いをし、できるだけ優しく言葉を紡いだ。
「弓月は何も心配しなくていい。無理なら俺から先生に伝えておくから」
彼からの反応はない。
……当たり前だ、今の弓月は声が出ないのだから。
袖を引っ張っていた指が外れていく。前を向きながら、離れていくその手に名残惜しいななんて思っていた俺は、その指が震えていることに気が付かなかった。助手席の方に視線を移すと、弓月の旋毛が見えた。俯いているので表情はわからない。
「……弓月?」
視線を前に戻すとすぐに信号が青に変わった。アクセルをゆっくりと踏み込んでいくと同時にエンジン音が大きくなっていく。視界の端に映る短くなった黒髪を見ながら、ふと思い出したことを聞いてみた。
「そういえば、先生から聞いたんだけど……俺に何か……お願いしたいこと、あるんだって?」
これは竹中先生が嬉しそうに話してくれたことだ。弓月が何か俺にお願いをしたいらしいと聞いた時、俺も嬉しかった。だって弓月が俺にお願い事なんて殆どしないから。足や手が動かないから助けて欲しいとか、一人でお風呂に入ることが難しい時には一緒に入って欲しいとかそういうお願いならあるけれど、それは彼にとっては生活に関わる必要なお願いだ。しかもそれをお願いした後は必ず申し訳なさそうな表情をしていた。
だから純粋なお願い事をしてくれる日が来るとは思っていなくて、口角が上がるのを止められない。
視界の端で弓月が動いたのがわかった。今は運転中のため弓月の方を見ることは叶わない。だから弓月が何かしらの反応を示してくれることを待っていたのだが、一向にアクションを起こしてこない弓月に不安が募る。
「えっと……あれ?違う?」
内心戸惑いながら、表面上は聞き間違いかもと苦笑を溢す。本当はよそ見をしてはいけないんだけど、一瞬だけなら大丈夫かなとほんの少し視線をずらした。すると弓月が顔を上げ、黒曜石のような瞳と視線が一瞬交わる。
視線が合ったのはほんの一瞬、なのに濡れた瞳が脳裏に焼き付いて離れない。見間違いかもしれないともう一度視線を移して見るが、やはり彼の瞳は濡れていた。
なんで、いつ、どうしてと疑問ばかりが頭に浮かぶ。ついさっきまではふつうの状態だったはずなのにどうしていきなり泣いているんだろうか。
俺は居ても立っても居られなくて、どこか寄れるところを探す。運良く少し先にコンビニを見つけ、左折合図してからコンビニの駐車場に入った。入り口から離れたところに後ろ向きに駐車し、ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを掛ける。今は夏、雨が降っているため気温はそこまで高くはないが、一応熱中症対策のためにエンジンはかけたままだ。
「弓月」
俺はシートベルトを外し、助手席に座る弓月の方を向く。俺が名前を呼ぶと、彼の喉がひくりと鳴った。
「……どうして泣いてるの?」
「……?」
キラキラと輝く宝石のような黒い瞳が揺れる。もしかして自分が泣いていることに気づいていないのだろうか?
俺はそっと弓月の濡れた頬に手を添えた。あの家から助け出した直後よりもほんの少しふっくらとしてきた頬に指を滑らせ、親指で撫でる。驚いたように目を細める弓月の目から、一筋涙が流れた。
「……ほら、こんなに濡れてる」
「……!」
濡れた手のひらを見せると、本当に気づいていなかったらしい彼は驚いたようだった。
さっきまでは普通だった。笑顔でもないけれど、泣いてもいなかったのに、どうして急に――そう思ったところで俺は、さっき急に反応が少なくなった時のことを思い出した。
「俺もしかして……余計なこと言った?」
俯いた弓月の頭頂部を見ながら呆然と呟く。疑問系だが疑問系じゃない、これは思い当たったことが勝手に口から出ただけだ。
目の前で俯く弓月の体は僅かに震えている。多分泣いているのだろう。でも俺にはどうして彼が泣いているのかがわからない。俺は弓月じゃない、だから教えてもらわないと彼の心を理解することなんて到底出来ないのだ。
俺はポケットから自分のスマホを取り出し、俯いたままの弓月に差し出した。スマホに書いてもらえれば俺も理解することができるかもしれない、そう考えたのだ。すると弓月がはっとしたように顔を上げた。スマホのことを今思い出した、というような表情に、俺は頬を緩める。
「弓月のスマホ、後ろの鞄の中でしょ?だから俺のを使って、弓月が今言いたい事を俺に教えて?」
そうすれば弓月がどうして泣いているかを知ることが出来るから。この状況的にきっと俺が原因なんだろうけど、それでも弓月が涙を流す理由が知りたかった。
はい、とロックを解除してメモアプリを開いた状態のスマホをもう一度差し出す。弓月はその細い腕を上げ、壊れ物を扱うかのようにそっと丁寧に手の中に包み込み、小さく頷いた。
弓月がスマホの画面に触れながら文字を入力していく。細くて長くて綺麗な指先が液晶の上を滑っていく様子をじっと眺めていると、不意に弓月が動きを止めた。
どうかしたのだろうかと見つめていると、弓月の長い指が何かを考えるようにスマホの上を彷徨ったかと思えば、スマホから外れていく。そして顔を上げ、遠慮がちに俺の服を掴んだ。濡れた瞳が僅かに揺れる。何かを躊躇うように瞳が左右に揺れ、視線が俺から外れた。
俺はそこでやっと弓月が言いたいことがわかった。
「ん?……ああ、ごめん。見られてたら緊張するよね……俺、コンビニで何か買ってくるよ」
そう言ってそそくさと車を降りる。
そりゃそうだ、見られていたら文章なんか書けない。それなのに俺は弓月の指が綺麗だからってじっと見て。
はあぁ…とため息が溢れる。弓月の前では気の利く頼れる格好良い大人でいたいのに、上手くいかない。
それに俺を見つめる濡れた瞳が脳裏に焼き付いて離れない。体の中に燻る熱が、頭の中を侵食していく。気持ちを切り替えるように俺はまずトイレに向かった。
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