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第一章
十七話 欲と願い 後編
しおりを挟むなんとか自分の気持ちを文字に起こし終えた丁度その時、まるで計ったかのように律樹さんが白いビニール袋片手に戻ってきた。
律樹さんは運転席に座ると、重さで取っ手部分がわずかに伸びたビニール袋の中から買ったばかりだろう二本のペットボトルを取り出した。二本のうち中身が透明である方――恐らくはミネラルウォーターだろう――が目の前に差し出されたので、「ありがとう」と口を動かしながら受け取ると、「どういたしまして」とすぐに返事が返ってきた。そのあまりにスムーズなやりとりに、あれ今俺声出てた?なんて驚いていると、そんな俺に気づいた律樹さんは「声が出てなくてもわかるよ」と笑った。
胸がほわりと熱を持つ。俺は微笑む律樹さんから顔を逸らし、ペットボトルの蓋を開けた。
そういえば朝にコップ一杯の水を飲んだきりだったな、なんて思い出す。さっきまで点滴をしていたのだからきっと身体的には問題ないはずだし、実際今の今まで少しも喉なんて乾いていなかった。けれどもそれを思い出した途端、僅かでも喉の渇きを覚えるのだから不思議だ。
飲み口に唇を当て、一口飲む。
冷たい水が喉を潤していく感覚が気持ち良い。最初は一口だけでいいと思っていた筈なのに、気がつけば容器の中身は三分の一ほど減っていた。点滴はしたとはいえ、やっぱり喉は乾いていたのかもしれない。
隣の運転席をちらりと伺うと、律樹さんも同じようにペットボトルの中身を煽っていた。しかし物は違うようで、俺のものが透明なミネラルウォーターに対して、彼のものは黒色の液体だ。ラベルに書かれた文字を見るに、それはどうやら無糖のコーヒーのようだった。
律樹さんが運転席のカップホルダーに飲みかけの容器を置く。その音を合図に、俺は膝に置いていたスマホを律樹さんの目の前に差し出した。
「ありがとう。……ちょっと待ってね」
そう言ってスマホを受け取った律樹さんは、表示されたままの画面に視線を移した。文字を追っているのか、琥珀色の瞳が忙しなく動いている。
メッセージを書いたとはいっても、文章量はそんなには多くない。きっとよく本を読むと言っていた律樹さんであれば二分もあれば余裕で読んでしまえるくらいの量だろう。
俺の予想通り、律樹さんが読み終えたのはそれから約二分後のことだった。
「ごめん」
読み終えた律樹さんは開口一番にそう言った。
どうして謝られるのかがわからなくて首を傾げた俺の方をちらりと見遣った律樹さんは、再びスマホに表示された画面に視線を落とした。僅かに俯いた彼の眉が八の字に下がっていることに気付き、俺はもう一度首を傾げた。
「昨日のあれ、そういう意味だったのか……なのに俺……ああぁ……」
律樹さんの口から彼らしからぬ気の抜けたような声が出てきて、俺は驚いた。律樹さんはスマホを持っていない方の手で顔を覆いながら、徐々に頭を下げていく。
正直それは俺が想像していた反応とは全く違うものであり、さらに言えば、普段は大人な彼からは全く考えられない反応だった。
顔を覆う手の隙間から覗く表情は暗い。既に垂れていた眉尻はさらに角度を付けて下がり、目は悲しげに伏せられている。今まで聞いたことがないくらい長くて深いため息を吐いた律樹さんは、力無く倒れるように車のハンドル上部に額を当てて項垂れた。
「昨日の……なんで俺……」
無意識なのだろう、薄らと開いた口からぽろぽろと溢れていく言葉たち。その声は今にも消えてしまいそうなほど小さく、そして弱々しかった。
俺は律樹さんじゃないから、その声や言葉にどんな想いが含まれているのかなんて正確に理解することはできないだろう。けれど今はなんとなくわかるような気がした。
俺は律樹さんの手から滑り落ちそうなスマホをそっと片手で掬い上げた。画面には俺が書いたメッセージが表示されている。俺はその文字列に視線を落とした。
『昨日はごめんなさい。あんなにふわふわしたプレイ初めてで浮かれてたんだと思う。だから今日はするのかなって思って、聞いた。ごめんなさい。先生はケアは毎日してって言ってたけど、多分あれは俺のせいだ。俺が先生に、またりつきさんとプレイがしたいって我儘を言ったからそう言ったんだと思う。多分欲が出た。本当にごめんなさい。迷惑かけっぱなしの俺が言うことじゃないと思うけど、俺は大丈夫。だからケアのことは気にしないでほしい』
読み返せば読み返すほど拙くて滅茶苦茶な文章に恥ずかしさが込み上げてくる。でも多分これ以上は書けない。だってどんなに拙くて滅茶苦茶な文章だったとしても、これが今の俺にとっての精一杯だから。
俺はさっきの文章のすぐ下にカーソルを合わせ、新たにぽちぽちと文字を入力していく。
入力はすぐに終わり、俺は律樹さんの袖をくいっと引っ張った。ここ見てて、と言うようにスマホの画面を指さすと、彼はゆっくりとした動作で視線を動かしていく。律樹さんの視線が手元のスマホに向いたことを確認し、俺は今書いた文字のすぐ下に再度文字を入力していった。
『わがまま言って迷惑かけてごめんなさい』
『もうわがままも言わないし、迷惑もかけないようにするから』
『ごめ』
そこで入力が途切れ、指が空を切る。
コトンとスマホが車内に落ちる音がした。
「いい……もういい」
耳に吐息が掛かる。
ほんの少し震えている声が耳を打つ。
「もう謝るな……っ」
何かを噛み締めるような初めて聞く声色に、身体がびくりと跳ねる。それと同時に感じる僅かな圧迫感。鼻腔を擽る優しい香りの中に混じった微かな雨の匂い、そして上半身を包み込むような温もりに、ようやく俺は自分の今の状態を理解した。
どうして、と口が動いた瞬間、まるで逃さないとでも言うように掻き抱く腕にさらに力が込められ、鼻先が肩口にあたる。そのまますんと息を吸い込めば、酸素と一緒に肺の中へと入り込んできた二つの香りに視界が滲んだ。
「俺が悪かった。だからもう謝るのはやめてくれ……弓月に謝られるのは、正直つらい」
「……っ」
「弓月は……その、俺とプレイしたいの?」
律樹さんの腕の中、俺は小さく頷いた。
同時にどこかほっとしたような安堵混じりの吐息が耳に触れ、俺の身体はまた跳ね上がる。
「……この際だから一応言っておくけど、俺はただ弓月が心配だっただけで、弓月とのプレイを迷惑だなんて思ってないからね。それに俺とプレイしたいって言うのは我儘じゃなくて、お願いだよ。少なくとも俺は我儘だとも、迷惑だとも思っていない。それに……俺だってDomなんだよ」
「……?」
「Domの欲求ってのは相手を支配したいってだけじゃない。頼られたいだとか守ってあげたいとか、そういった欲求もあるんだ」
「……」
「欲が出たって言ってたけど……弓月はもっと欲張っていいんだよ。今まで散々耐えてきたんだから、もっともっと欲張っていいんだ。……これは言い訳になるんだけど、俺もあんまり余裕がなくて、伝え方を間違った。誤解させて、不安にさせて本当にごめん」
背中に添えられた手にさらに力が込められる。ほんの少し息苦しく感じたけど、正直それどころじゃなかった。
いろんな感情が俺の中に湧き上がってはぐちゃぐちゃに混ざり合い、そしてほわりとした熱になって俺の心臓の辺りに溶けていく。胸が温かいものに満たされていく感覚に、視界がさらに滲んだ。
瞬きをすると同時に目尻から温かな雫が溢れ落ちていく。そのお陰で滲んでいた視界は晴れたが、それも一瞬のこと。またすぐに滲んでしまう視界に、俺は思わず笑ってしまった。
突然身体を震わせ始めた俺に驚いたのか、律樹さんが俺から身体を離して顔を覗き込んできた。ぽろぽろと雫をこぼしながら泣き笑う俺に律樹さんは目を見開き、そして困ったように笑った。
「……帰ろっか」
律樹さんがそう言って、俺の頭を撫でる。
俺はその言葉にこくりと小さく頷いたのだった。
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