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第一章

十六話 欲と願い 中編

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 帰りの揺れる車の中、俺はちらりと運転する律樹さんを盗み見た。
 元々容姿が整っていることもあるが、真剣に運転している律樹さんはいつもよりもさらに格好良く見える。その普段とは違う大人な姿に俺の胸はとくんと高鳴った。
 
 最近、俺の心臓はおかしい。
 突然うるさくなったかと思えば、痛みを感じることもある。そのことを点滴の後に竹中先生に相談してみたのだが、どうやら身体に異常が起こっているわけではないらしい。俺の話を聞いた竹中先生は朗らかに笑いながら「良い傾向ですね」と言っていたが、俺にはさっぱりわからなかった。



 点滴の後、俺たちは三人で話をした。
 話した内容は全部で二つ。一つは抑制剤について、もう一つはケアについてだった。

 抑制剤に関しては、錠剤型の抑制剤が服用できないため、定期的に抑制剤を点滴することになった。しかしずっと点滴で凌ぐわけにはいかない。当分は週一で点滴を行い、機を見て服用の練習をすることになった。

 次にケアに関してだが、これは毎日して欲しいとのことだった。本来であればもう少し点滴の回数を多くした方がいいらしいのだが、これ以上は色んな意味で現実的な策ではないらしい。点滴の回数が増えれば増えるほど体への負担は勿論、幾ら保険が効くと言っても経済的負担は大きくなってしまう。代金を全て律樹さんに出してもらっている俺としてもそれは本意ではない。
 そこで代わりとなるのがケアだ。毎日ケア――つまり軽いプレイを行うことで点滴の回数は減るし、回数を重ねることで少なからずプレイへの耐性もつく。これから先の人生、ダイナミクスを持つ俺にとってプレイという行為は切っても切り離せないものだ。その練習にもなるとのことで、是非毎日して欲しいと竹中先生は言っていた。

(俺は嬉しいけど……律樹さんはどうなんだろう?)

 結局、律樹さんが辛そうな表情をしていた理由は聞けなかった。律樹さんの前で先生に聞くのも憚られたし、かと言って俺が直接律樹さんに聞くのもちょっと……いや、かなり躊躇われる。これでもし聞いてみたとして、俺としたくなかったなんて言われでもしたら多分立ち直れない。
 想像しただけでも目頭が熱くなり、俺は窓の外へと視線を移した。

 雨が降っている。朝のような土砂降りではないけれど、傘がないとしっとりと濡れてしまう程度の雨だ。ガラスを挟んだ向こう側を歩く人達はみんな傘をさしながら歩いていた。

「……ねえ、弓月」

 不意に律樹さんが俺を呼ぶ。返事ができない代わりに俺は律樹さんを振り返り、運転の邪魔にならないように彼の袖を僅かに掴んで軽く引っ張った。

「さっきの話なんだけど……無理そうなら断ってもいいからね。弓月には費用の心配なんてせず、自分のことだけ考えて欲しい」

 律樹さんが言っているのはきっとプレイのことだ。確かに費用面でこれ以上迷惑を掛けたくないという思いは大きい。だがそれ以上に、俺自身が律樹さんとのプレイを望んでいるのだ。けれどそんな俺の気持ちを律樹さんは知らない。知らないからこそ、彼は俺に対して何度も確認してくれるのだろう。

 前方の信号が赤に変わり、車が止まる。律樹さんは信号から目を離さないまま俺の名前を呼んだ。俺はそれに応えるように、じっと横顔を見つめながら袖を引く。

「弓月は何も心配しなくていい。無理なら俺から先生に伝えるから」
「……っ」

 俺は思わず口を動かしていた。
 
 ――無理なんてしてない……っ!

 そう叫んだつもりだったが、声は出ていなかった。口だけが必死に動いていて、きっと律樹さんには俺がなんて言いたかったかなんてわからないだろう。
 悔しさにぎりっと唇を噛み締める。ほんの僅かに広がる鉄の匂いにも構わずそのまま噛み締め続けながらゆっくりと顔を下げていった。小さく小刻みに震える指が力をなくし、律樹さんの袖からそっと離れていく。

(無理なんて、してないのに……っ)

 こんなにも近くにいるのに、伝わらないのが悔しい。
 俺はただ律樹さんとしたあのプレイが忘れられなくて、もう一度大きな優しい手で頭を撫でながら、律樹さんの少し低くて柔らかな声に褒めてもらって一緒に幸せな気持ちに――そこまで考えて、俺の身体は動きを止めた。
 
 昨日律樹さんは言っていた。俺たちはあくまでもケア目的の仮のパートナーだって。確かにそうなのかもしれない。けれど俺にとっては律樹さんとすることに意味があるのに、それが彼に伝わらないのがもどかしかった。

 そういえばいつのまにか元の思考に戻っていたけど、あの時は何かのスイッチが入ったみたいに急に俺の意思や感情なんてどうでも良くなって、またなくしてしまえばいいんだって思ったんだった。俺に意思や感情がなければこんなに悩むこともないし、寧ろ無くしてしまった方が迷惑をかけずに済むのかもしれない。
 意思や感情があるから、もっとというような欲が出てしまうのだ。だからそんなものは腹の奥底にしまい込んで出さなければ良い。なのに、どうしてか今はそれが出来なかった。
 心臓が痛い。ズキズキとしたこの痛みと苦しさから解放されたいのに、昨日みたいに上手くスイッチが入らない。

「……弓月?」

 視界が徐々に歪んでいく。なんでこんなに胸が痛いんだろう。

 信号が変わったのか、車が再び動き出す。揺れる車内の中、下ろした手の甲に何かが軽く触れた気がした。

 点滴の時、診察の一環で最近どうですか?してみたいことや興味のあることはありますか?って聞かれて素直に「律樹さんとプレイがしたい」って答えてしまったけれど、こんなふうになるなら言わなきゃ良かった。……いや、正直に答えないと先生が困るだろうから言わないといけないんだけど、それでも言わなければ良かったなんて思ってしまう。

「そういえば、先生から聞いたんだけど」

 律樹さんの穏やかな声音に、あれだけぐるぐると頭の中を駆け巡っていた思考がぴたりと動きを止めた。

「俺に何か……お願いしたいこと、あるんだって?」
「……?」

 お願い、したいこと……?
 律樹さんの言葉の意味がいまいちわからず、思考停止状態のまま呆然と顔を上げる。相変わらず運転中の律樹さんは真っ直ぐ前を向いていたが、俺の勘違いでなければその横顔は少しだけ、ほんの少しだけ嬉しそうに見えた。

「えっと……あれ?違う?」

 いつまで待ってみても無反応な俺に不安になったらしい律樹さんの顔が、徐々に苦笑じみたものに変わっていく。そして不安げな声を上げながら、ちらりと俺の方に視線を向けた。
 ほんの一瞬交わった琥珀色の瞳が驚いたように見開かれ、彼の形の良い唇が薄く開いていく。

 すぐに視線を前方に戻した律樹さんだったが、何が気になったのかもう一度俺の方に瞳を向けた。そして瞳や頭を忙しなく動かしたかと思えば左折合図のウィンカーを出し、道沿いにあったコンビニの駐車場に入っていった。

「弓月」

 手慣れた操作で綺麗に駐車し終えた律樹さんがこちらを向く。停止させたと言っても今は夏場、今日は雨が降っているのでかなりマシだが、一応熱中症対策のためにエンジンは切っていない。
 眉根の下がったその表情と俺を呼ぶ声にひくりと喉が鳴った。

「……どうして泣いてるの?」
「……?」

 何言ってるのと瞳を揺らすと、今度は眉間に皺を寄せられた。そっと頬に手が添えられ、そのまま彼の親指がつうと目の下をゆっくりとなぞり、そして離れていく。

「……ほら、こんなに濡れてる」
「……!」
「俺もしかして……余計なこと言った?」

 確かに律樹さんの手は濡れていた。どんな顔をすれば良いのかわからなくなって俯いた俺の頭頂部に、律樹さんの沈んだ声が落ちる。
 違う、律樹さんじゃなくて俺が悪いんだ。欲が出て我儘を言う俺が悪い。
 そう言いたいのに、やっぱり声が出ない。あまりの情けなさにまた視界が滲んでいった。

 また唇を噛み締めながら泣くのを必死に堪える。そんな俺の視界に突然俺のものではないスマホが入ってきて、俺は驚いて顔を上げた。するとそこには困ったような笑みを浮かべた律樹さんの顔があり、そこでようやく俺はスマホの存在を思い出したのだ。

「弓月のスマホ、後ろの鞄の中でしょ?だから俺のを使って、弓月が今言いたい事を俺に教えて?」

 差し出された律樹さんのスマホに恐る恐る触れる。落とさないように慎重に手の中に包み込み、小さく頷いた。

 開かれたメモアプリに文字を打ち込んでいく。初めの頃よりも大分速くなったとはいえ、それでもまだ入力速度はそこまで速くない。言葉を選びながらゆっくりと文字を打っていく間、律樹さんはじっと待ってくれている。でもそれが妙に緊張して文字がうまく打てなくて、俺は律樹さんの服をちょいちょいと引っ張った。

「ん?……ああ、ごめん。見られてたら緊張するよね……俺、コンビニで何か買ってくるよ」

 そう言って律樹さんは車を降り、コンビニに入っていく。その背を見送った後、俺は再び律樹さんのスマホと向き合い、文字を打ち始めた。
 

 
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