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第一章

閑話 瀬名律樹と抑制剤*

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※この話に性行為は含まれませんが、自慰行為の表現が含まれますのでご注意ください。
※この話は本編「十二話 抑制剤 後編」~「十三話 不要なもの」の律樹視点となります。



 初めてのプレイの後、弓月を寝かしつけた俺は一人トイレに篭っていた。弓月の前ではなんとか何事もなかったように振る舞っていたが、もう限界だった。

 スウェットごと下着をずり下ろし、便座に座って見下ろすと、そこには今まで生きてきた中で一番の固さと反りをしたモノが佇んでいた。先端からは透明な先走りが溢れ、くびれの部分を通って竿まで流れ出ている。俺はそれを見た瞬間、大きく溜息をこぼした。

 本音を言えば、俺だってもっと弓月とプレイしたかった。けれど弓月の体力が心許ないし、あんな事があった後なのだから長時間のプレイは精神を不安定にさせてしまう可能性があったため出来なかった。それに、俺自身もかなり危うかったように思う。あらかじめDom専用の抑制剤を飲んでいたにも関わらず、箍が外れそうになった瞬間が何度かあった。このまま続ければいずれ俺は弓月のことをDomの本能のままに無茶苦茶にしていたかもしれない。それだけはどうしても避けたかった。

 陰茎を手で包み込み、上下に扱いていく。ぐちゅりと卑猥な水音を立てながら、自分のいきり立ったモノを自分の手で慰めるという行為に虚しさがわく。

「……っ」

 脳裏に浮かぶのは弓月のほんのりと上気した頬と熱に浮かされたような潤んだ瞳。俺に体を擦り寄せながら幸せそうに微笑む弓月の顔を思い描いた瞬間、俺は果てていた。
 静寂が訪れたトイレの個室内で俺は一人項垂れる。咄嗟に出口を塞ぐように置いた右の手のひら。そこに溜まった白く濁った液だまりになんとも言えない感情が湧き出てきて、大きなため息が溢れた。

 これは虚しいというよりも罪悪感だった。
 いい大人でありながら、好きな子のとろけた表情を思い出しながら抜くのは如何なものか。

 後処理をし、手を洗ってキッチンへと向かう。
 この家は、今は高齢者施設に入居している父方の祖父母が元々暮らしていた家だ。空き家にするには勿体無いが引き取り手もいなかった――俺以外の大人達は既に自分の家を持っていたり遠方に住んでいたりで管理が出来ないと言われた――ため、未婚で持ち家もなく、その上職場も近かった俺が貰うことになった。
 初めは一軒家なんて俺に管理なんてできるのかと不安だった。しかし築百年は超えているらしい日本家屋ではあるが、風呂場やトイレなどの水回りはリフォームされているお陰で中々住みやすくて、今では引き取らせてくれたことに感謝している。

 そんな昔ながらの日本家屋であるこの家のキッチンは、今主流の対面ではなく壁付であり、さらに言えば一つの部屋として独立している。
 壁付けキッチンの上、吊り戸棚の一つを開けて白色の箱を取り出し、中からPTP包装シート――錠剤やカプセルをプラスチックとアルミで挟んだシート――を一枚手に持った。ぱちっと音を立てながら数錠を取り出して口に含み、あらかじめガラスのコップに注いでおいた水を煽ってごくりと飲み込む。冷たい水が食道を通っていくのが心地よかった。

「……俺も、人のこと言えないよなぁ……」

 手元にある薬はあと少し。弓月が家に来てからというもの、俺の薬を飲む量は目に見えて増えていた。

(今度弓月が病院に行く時に俺も……)

 このまま抑制剤がなくなればきっと俺は――

「はぁ…………寝よ……」

 起こってもいないことを考えても仕方がない。もし抑制剤がこれ以上増えるようであればより強い抑制剤に変えてもらうなり、間に合わなそうならドラッグストアでいつもの薬を買うなり、それでも足りなければダイナミクス専用のプレイクラブに行くなりすればいい。それに抑制剤もあと二、三日分くらいはあるのだから必要以上に恐れるのも精神的に良くないだろうと、俺は考えるのをやめた。

 年季の入ったステンレスシンクに空になったグラスを置いて寝室に向かう。今日も一緒のベッドで寝ている弓月を起こさないように慎重に部屋に入り、そしてマットレスの上に腰を下ろした。
 静寂の中にギシッという音が響く。そんな音や小さな揺れに反応したのか、ベッドで寝ている弓月の身体がモゾモゾと動いた。やばい、起こしたかと動きを止めて弓月の方をじっと見つめていると、彼はごろんと体を転がした。どうやら寝返りを打っただけのようだ。

「……ふっ……涎垂れてる」

 僅かに開いた口から垂れているものに思わず笑みが溢れる。もう十八歳だというのに、その寝顔は昔と変わらず幼い。
 はくはくと小さく開閉する口は何かを喋っているようにも見えるが、相変わらず声は出ていなかった。

「早く……声が出るといいな」

 もし叶うなら、昔みたいに俺の名前を呼んで欲しい。

「弓月」

 さらりとした前髪を指で軽く分けると、白く滑らかな額が姿を現した。窓からこぼれる月の光が優しくベッドに降り注ぐ。幼い頃から変わらない細くて綺麗な手触りの良い黒い髪とくすみのない白い肌のコントラストが綺麗だと思った。
 まろい頬に指を滑らせると、擽ったそうに身を捩りながらも擦り寄ってきてくれる弓月に、鼓動が速くなる。身体の奥に燻る熱が、弓月を求めているのがわかった。

「弓月」

 小さく名前を呼ぶと、眠っているはずの弓月がふにゃりと顔を綻ばせた。あまりの可愛さに堪らなくなる。

「……好きだよ、弓月」

 呟くようにこぼれた言葉は俺以外の耳に届くことなく、静寂に溶けていく。俺はそっと弓月の額に唇を落とした。
 


 翌日、目覚ましの音と共に目を覚ました俺は、まだ隣ですやすやと眠っている弓月を起こさないようにベッドを出た。今日の予定を頭の中で思い浮かべながら身支度を行い、朝食の準備をする。弓月が食べるかどうかはわからないが、一応俺と同じものを用意してから居間のテーブルにノートパソコンを置いて仕事を少しした。
 事情を伝えた上で休みをもらってはいるが、それでもやらなければいけない仕事は多い。受け持ちの授業を他の先生に代わっていただいている分、その先生の負担がこれ以上増えないようにテストの採点だったり、テストの作成くらいは自分で行なっているのだ。それ以外にも書類作成などやることは多い。流石に弓月の前ですると彼が気にするかもしれないので、こうして朝早く起きて作業をしていた。

 朝食と仕事の後は買い物だ。
 Dom専用の抑制剤を飲み、出かける準備をする。行く直前に寝室を覗いてみたが、まだ弓月は眠っているようだった。僅かに上下する夏用の薄い布団に「いってきます」と小さく声をかけ、俺は家を出た。

 ――ピロン。

 買い物を終え、車に乗り込んだ時メッセージが届いた。シートベルトを締めてスマホを手に取ると、それは弓月からだった。

『りつきさんは今どこにいる?』

 たったそれだけのメッセージだったにも関わらず、俺の心臓はうるさく音を立て始めた。自分で思春期の中学生かよと思うが、それでもやっぱりどれだけ大人になっても好きな人からの言葉は嬉しい以外の何物でもない。心臓を落ち着かせるように何度か深呼吸を繰り返し、ドラッグストアで購入したばかりの抑制剤を一錠だけ口に入れ、ペットボトルの水で流し込んだ。
 買い物が終わったのでもうすぐ帰るよと返信するとすぐに、了解というゆるい猫のスタンプが送られてきて、俺はハンドルにこつんと額を当てる。

 ……可愛い。この猫のスタンプを選んで送る弓月を想像しただけでもう俺は堪らなくなってしまう。
 重症?思春期の中学生?なんとでも言えば良い。そもそも弓月が可愛すぎるのだから仕方がないだろう。それに弓月は俺の――。

 ハンドルに押し当てた額をずらし、左手に持ったスマホの画面を見つめる。そこに表示された『弓月』の名前に、頬が綻んだ。

 

 玄関を開け、買ってきたものをそれぞれの定位置に置いた俺は、弓月がいるであろう洗面所に向かった。案の定彼はそこにいたのだが、俺を待つその姿があまりにも可愛くて心臓が高鳴る。
 弓月は洗面台近くに置いた彼専用の椅子の上に腰掛けながら、最近やっと動くようになってきた足をぷらぷらと小さく揺らしていた。もう十八だというのに小柄な体格のせいか少し幼く見える彼のそんな姿に、俺の心臓はどくどくとうるさい。

 何度か深呼吸するうちに落ち着いてきた呼吸。よし、と気合を入れながら何事もなかったかのように笑みを浮かべ、洗面所へと近づいていく。

「やっぱりここだったのか」
 
 俺の声にぴくりと反応を示した弓月の頭を撫でる。触り心地のいい、ふわふわでさらさらとした髪が気持ちいい。

「おはよ、弓月」

 俺の手が頭に乗ったまま弓月は俺を見て口を動かす。話せなくても唇の動きを忘れたくないという理由から、たまにこうして唇を動かして答えてくれる。今のはタイミングと口の動きからすれば「おかえり」と言ってくれているみたいだ。俺はそんな弓月の言葉に一層笑みを深め、こくりと頷いた。
 弓月の頭から手を引こうとした時、弓月が俺の服の袖を小さく摘んで引っ張った。どうかしたのかと聞くと、弓月はその可愛らしい顔を綻ばせ、胸を押さえながらスマホをいじり出す。どうやら伝えたい事があるらしい。俺はメッセージを打ち込み終わるまでの間、まだしていなかった帰宅後の手洗いうがいをすることにした。

 口にうがい用の水を含んだところでピロンと通知音が鳴った。すぐに水を吐き出し、タオルで濡れた口元を拭ってスマホを取り出す。ホーム画面には弓月の名前とメッセージの内容が表示されていた。

『今日はプレイする?』

 その一文に、俺の心臓は大きく音を立てた。
 そりゃあ勿論出来ることならしたい。けれどやっぱり続けてするには弓月の体調や体力、そして精神面に不安が残る。俺は弓月が大事だから無理をさせたくなくて、どうにか弓月に今は諦めてもらえるように離し始めた。
 
 きっとこれは弓月に対して言っているのではなくて、自分に言い聞かせている言葉なんだろう。
 弓月と自分はあくまでもケア目的の仮のパートナーだと、弓月とのプレイはケアの目的のためのものであると、そう俺自身に言い聞かせているようなものだった。

 弓月の瞳が微かに揺れる。それがどのような意味を持つかなんて俺にはわからない。長い睫毛が伏せられ、顔が下を向いていく。言い過ぎたのかと不安になり始めた時、弓月が伏せていた顔を上げた。そして笑顔でこくりと一つ頷く。

 途端につきりと痛む胸。どうしてかその笑顔を見ると胸が痛んだが、俺は気づかないふりをして弓月の頭を撫でながら、ありがとうと笑った。

 正直、そこからのことは自分の感情や欲を抑えるのに必死でよく覚えていない。ただ覚えているのは、寝る前に今日は一人で寝てみたいと言われたことだけ。気の利いた言葉なんて出てくるはずもなくて、俺はただ「そっか、わかった」と言っただけだった。

 一人寝室に向かうと、そこは静寂に包まれていて無性に泣きたくなった。
 多分俺は何かを間違えたような気がする。それが何かは全くわからないけれど、きっとどこかで選択肢を誤った。

(また、この感覚だ……)

 ――ああ、雨の匂いがする。

 湿気を含んだ独特の香りが鼻をつき、俺は痛む頭を片手で押さえながら布団に潜り込んだ。



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