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第一章

十四話 雨と心臓

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 ぱちりと目を開けた時、視界に入ってきたのは最近漸く見慣れてきた木目の天井だった。そういえば昨日は珍しく自分に与えられた部屋のベッドで一人で寝たんだったと思いながら、ぼんやりと天井を見つめる。

 不思議なことに真っ暗なあの夢の世界のことは鮮明に覚えていた。夢というのは大抵起きた時には内容を覚えておらず、覚えていたとしても時間の経過とともに忘れていくことが大半だ。寧ろここまで鮮明に覚えているというのも珍しいのではないだろうか。

(俺の記憶……か)

 ダイナミクスが発現し、検査結果が出る前の記憶もほとんどないことにどうして今まで気づかなかったんだろう。家族から虐げられる以前は温かなご飯を食べていた、ということはなんとなく思い出せる気がするのに、友人のことや学校のことはまるで思い出せない。
 穏やかな日常だったのだろうか、それとも……。信じてやまなかったそれがただの願望だったのかもしれないと思うと、俺は目が覚めたばかりだというのに憂鬱な気分になった。

 雨の音がする。部屋の中にいてもわかるくらい、激しい雨のようだ。屋根を激しく叩くような音が幾つも鳴り、遠くで雷が轟いている。
 俺はそんな外界からの刺激を遮るように、掛け布団を頭まで被って目を閉じた。部屋から出たくない。そもそも布団から出たくないし、誰とも顔を合わせたくなかった。
 身体が熱くて頭痛がする。風邪かもしれない……なんて、本当は違うことくらいわかってる。けれど、それでも風邪だと思い込んでいないと、体の奥に燻る熱に飲み込まれてしまいそうだった。

 雨音に混じってコンコンと部屋の入り口がノックされる音が聞こえてきたが、俺は頭まで被った掛け布団を内側からきゅっと握りしめて動かない。弓月、と俺を呼ぶくぐもった声が聞こえてくるが、やっぱり俺は布団から出ることができなかった。
 
 しばらくしてガチャ、と扉が開く音がした。数歩分の足音の後、ベッドがぎしっと音を立てて沈む。返事がないことはいつものことだが、こんな風に拒絶する姿を見せるのは初めてだったからもしかしたら怒っているのかもしれない。それでも今は顔を見られたくなくて、必死に布団を握りしめた。

「弓月」

 優しい声音が降ってくるのと同時に布団越しにとんとんと肩の辺りを優しく叩かれる。落ち着かせてくれようとしているのか、それはとてもゆっくりなリズムだった。

「このままでいいから聞いて」

 律樹さんの声からも言葉からも一切の怒気を感じない。それどころか心配そうな声音だ。

「弓月の薬に関して病院に確認してみたんだ。そした一度病院に来て欲しいって。一応明日の午後から予約取っておいたけど、もし体調が悪いなら今からでも……」

 言葉が途切れたと同時に、とんとんとゆっくりとしたリズムを刻んでいた律樹さんの手が止まる。何かあったのだろうかと掛け布団を少しだけ捲ると、そこには少し難しい表情をした律樹さんがいた。閉ざしていた空間に雨音が混じる。さっきまであんなに顔を合わせたくなかったのに、こんなにもあっさりと顔を出してしまった自分に驚きつつ、律樹さんが何を考えているのか気になって顔を覗き込んだ。何処かをぼんやりと見つめていた琥珀色の瞳が俺の方を向く。

 視線があった瞬間、律樹さんはその目を細めた。

「……やっと顔、見せてくれた」

 俺が顔を見せたことが嬉しいのか、ふんわりとした笑みを浮かべた彼は俺にそう言う。それまでの子どもじみた行動が急に恥ずかしくなって、俺はすすす…とまた布団の中に潜り込もうとしたが、それは律樹さんの手によって阻まれた。

「だーめ」
「……っ」

 律樹さんの大きな手が俺から布団を剥ぎ取る。あっと言う間もなく俺の姿は律樹さんの前に晒されてしまった。
 不意に律樹さんの手が俺の前髪を上げて額に触れる。触れられるとは思わなくてびくりと跳ねた肩に彼は苦笑しながら、徐々に顔を近づけて来た。鼻と鼻が触れ合う寸前、俺は堪らず目をきゅっと閉じた。それと同時にこつんと額に当たった固い感触。

「熱は……少し熱いな」

 ほっとしたような安心した声に薄らと目を開いてみると、額同士をくっつけているのだから当たり前のことなんだけどすぐ近くに彼の琥珀色があって、俺の胸はとくんと高鳴った。とくん、とくんと早くなる鼓動に全身が一気に熱を帯び、堪らずまた目を瞑る。

(なんで俺、こんな……っ)

 起きてすぐから感じていた陰鬱とした気分が霧散していくのがわかった。その代わり落ち着いていたはずの熱がまた燻り始めていく。
 心臓が煩い。なんでこんなにドキドキしているのかわからないけれど、不思議と嫌ではなかった。

「やっぱりこのまま病院に行こうか。もう一度電話してくるから、弓月はここで待ってて」

 額から温もりが離れていき、律樹さんが立ち上がる。もし今俺の声が出ていたとしたら多分「あ…」と声を出していたに違いない。いつものようにどこか困ったような表情で微笑みながら俺の頭を撫でた律樹さんの手はやっぱり優しくて、俺は無意識にその手に自分の手を重ねていた。

「え……?ゆ、弓月?」
「……」
「……もしかして、寂しい?」
「……」

 律樹さんにここにいてほしいと思うのは、俺が心のどこかでは寂しいと思っているからなんだろうか。
 自分の気持ちなのに今の自分がどう思っているのか全然わからなくて、俺はそっと手を離した。

 ぎしりとベッドが軋み、縦に揺れる。肩に温もりが触れたかと思えば、いつの間にか律樹さんの腕の中にいた。

「そんな不安そうな表情かおしないで」

 すん、と息を吸い込むと律樹さんの匂いがした。俺を助けてくれたあの時と同じ優しい香り。すりすりと胸元に擦り寄ると、途端に戸惑うような声が頭上から降ってきた。それにも構わず俺はぴとりと胸に耳をつけ、同じくらい速くなっている鼓動にほっと息を吐いた。やっぱり律樹さんの心音には俺を落ち着かせる効果があるのかもしれない。
 さっきまではっきりと聞こえていた激しい雨音は、今はもう耳には届いていなかった。

「……弓月?」

 律樹さんの柔らかくて優しい声が俺を呼ぶ。
 たったそれだけのことで胸がいっぱいになる。

 もし俺の声が出たのなら、俺はどんなふうに律樹さんの名前を呼ぶんだろうなんて思った。

 
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