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第一章

二話 優しい味

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 律樹さんは不思議な人だ。
 近くにいてもあまり恐怖も嫌悪も感じない。あの場所から俺を連れ出してくれたからなのか、それとも俺の忘れてしまった記憶がそうさせているのかはわからない。でも敵意を微塵も感じられないこの柔らかな雰囲気は何処となく俺を安心させる。
 従兄弟というからには血縁関係はあるのだろう。しかし同じく血の繋がりがあっても害しか与えてこなかった兄達とは違って、彼は俺を敵視もしていなければ害も与えてこなかった。

 ガラガラと車輪の転がる音とカチャカチャと食器のぶつかる小さな音が廊下から聞こえてきた。どうやら食事の時間のようだ。
 軽いノックの後、開けられた引き戸から白い服を着た人が入ってきて、手早くベッドテーブルの上に食事を乗せたトレーを置いて部屋を出ていった。クリーム色のような薄い黄色のトレーの真ん中には蓋が被せられた丼が一つ乗っている。トレー右下に置かれている紙には今日のメニューが書かれていた。

(お粥、か……)

 お粥なんて久々だなぁ、なんて思いながら右手でゆっくりと蓋を持ち上げると、ふわりと白く湯気が昇った。それと共に、よく煮込まれた米の甘い香りが鼻腔を擽る。なんだか熱そうだなと思いつつ、クリーム色のトレーの上に蓋を置くと同時に、何処からともなくぐうぅ…という気の抜けるような音が聞こえてきた。

「……?」

 何の音だときょろきょろと辺りを見回すと、驚いたような琥珀色の瞳と視線がかち合う。きょとんとした表情の律樹さんは俺と目があった瞬間に、どこかほっとしたようなふわりとした笑みを浮かべた。

「……??」
「食欲はありそうだね」
「……?…………っ!」

 そう言われてようやく気付いた。
 そうだ、この気の抜けたような音は腹の音だ。

 一度気がついてしまえば、今まで忘れていた空腹が急に主張をし始める。再びぐうぅ…と鳴った間抜けな音に、俺は思わず顔を俯かせた。顔が熱い。久しく感じていなかった恥ずかしいという感情に死んでしまいそうだった。

「……っ」

 恥ずかしい、本当に恥ずかしい。
 高校生にもなってこんなに大きく腹の虫が鳴るなんて、それも知り合って間もない律樹さんに聞かれてしまうなんてと、必死で聞かなかったことにして忘れてくれと訴えるが、声が出ていないせいで全く伝わらない。
 
 伝えたいのに声が出ないというのは思った以上に不便なようだと、俺はこの時知った。今すぐ伝えたいのに伝わらない。案の定、赤いであろう顔でパクパクと口を動かす俺の姿に、律樹さんは少し困惑したように苦笑を浮かべている。俺は仕方なく、看護師さんがベッド脇のキャビネットの上に置いてくれていたノートとペンを取り、隣に座っている律樹さんの服をちょいちょいと引っ張った。

「……ん?どうしたの?」
『はずかしいから、きかなかったことにしてほしいです』
「え……?……あ、ああ、うん。わかったよ」
『ほんとに?』
「うん、本当」

 穏やかに微笑む律樹さんの表情に、どうしてか俺の心臓は一際大きく音を立てた。とくん、とくんといつもよりも少し速い鼓動、それなのに気持ち悪さはなく寧ろ心地良いとさえ感じるそれ。

「ほら、ご飯が冷めちゃうから食べようか」

 自分の鼓動に内心首を傾げながらも、律樹さんの言葉にこくりと首肯する。そしてトレーに乗っていたスプーンを手に取ってお粥を掬って口に入れた。その瞬間、口いっぱいに広がるお米の甘みと僅かな塩味。とろりとしてはいるがお米の粒も残っていて、俺はその粒を噛み締めて喉に流し込む。
 一口、また一口と入れる度に視界が歪んでいく。瞬きをすれば視界は良くなるが、またすぐに歪んでしまう。その度にぽたりぽたりと落ちていった水滴はトレーやベッドテーブル、そして掛け布団を濡らしていった。
 
 そうしてお粥がなくなる頃、俺は嗚咽を漏らしていた。
 こんなに優しい味のご飯を食べたのはいつぶりだろうか。ダイナミクスが発現し、家族に知られるまでは僕の生活にもあった優しさを思い出させるような味に、俺は漸く目が覚めたような気分になった。
 
 きっと隣に座る律樹さんは、お粥を食べながら泣いている俺の姿にきっと驚いただろう。それでも彼は何も言わずにただただそばに居て、その温かくて大きな手を背中に置いてくれている。それがとても心地よかった。

(……お粥って、こんなに美味しかったんだな)

 小さい頃はお粥なんて味がしないと思っていたのに、今日食べたこのお粥には優しい甘さがあった。今回の食事はこの少量のお粥だけだったが、次からは少し量が増えてお米の粒も増えるそうだ。急にたくさん食べると胃が驚いてしまうからだそうだが、説明をされた時はへぇ…そうなんだとどこか他人事のように思っていたが、今なら何となくわかる。液体に近い少量のお粥であっても、俺の腹は満たされていた。

 兄に監禁されている時も全く食べていなかったわけではない。パンを与えられる日もあったし、おにぎりやお菓子の時もあった。兄から与えられる食事は大体一日一食、兄の手から食べさせられたそれらは今食べたお粥と同じくらいか、それよりも少ない量だったことも少なくない。今から思えばよくそれで生きていられたなとは思う。
 餓死しなかっただけでもましと思えばいいのか、それだけの食事でも生きていられたことに関心すればいいのかと自嘲が溢れた。

(運があったと思えばいいのか何なのか……まあ今こうして生きてるってことは、俺は多分運がいい方なんだろうけど……)
 
 最後の一掬いを口に入れた後、ご馳走様でした、と手を合わせる。本当に美味しかったと満足気に口元を緩めると、頭に温もりがぽすんと乗った。

「よくできました」
 
 視線を上げると、柔らかな琥珀色と目があった。律樹さんの俺よりも大きい手が俺の頭をぽんぽんと優しく撫でる。

「これ、片付けてくるね」

 空になった食器の乗ったクリーム色のトレーを片手で持ち上げて部屋を出ていく律樹さん。その背を、出ていった扉を無意識に目で追いながら、俺の手は自然と自分の頭の上へと移動していく。そうして撫でられた頭を右手で軽く触れてみると何だかふわりとした心地がして、ほんの少しだけ頬が熱くなった気がした。
 
 数分後に戻ってきた律樹さんの手にトレーはなく、代わりに歯磨きセットと小さめのプラスチックの桶のような物、そしてプラスチックのコップを持っていた。コップには水が入っているらしく、ベッドテーブルの上に置くとちゃぷんと音がして水面が揺れる。
 これはもしかして歯磨きをしろということなのだろうか。

「ご飯を食べたら歯磨きだね。このコップでうがいした後はこの桶に吐き出してね」

 え、ここに吐き出すの?嘘でしょ?と困惑気味に律樹さんを見ると、とても良い笑顔で頷かれてしまった。

(……え?本当に??)

 何が楽しくて人に見られながら歯磨き後に水を吐き出すシーンを見せなければならないのか。
 思春期の男子高校生には些かハードルが高すぎないか?と訴えるように視線を上げたが、にっこりと笑った律樹さんは問答無用といった様子で歯ブラシを差し出してくる。そのブラシの上にはしっかりと歯磨き粉が適量乗せられていた。

「無理そうなら俺が磨こうか?」

 あまりにも自然にそう言われたので一瞬言われている意味がわからなかった。俺が磨こうか?俺が磨こうかって、もしかして――その言葉を頭が理解した瞬間、全身が熱を帯びる。
 大丈夫です!自分で出来ます!と必死に頭を左右に振ると、彼は少し残念そうな表情で歯ブラシを俺の右手に手渡した。手渡された歯ブラシを引ったくるように受け取ってシャカシャカと音を立てながら歯を丁寧に磨いていく。なるべく時間をかけながらうがいのタイミングを見計らうが、中々律樹さんの視線が俺から外れない。
 俺は仕方ないと、律樹さんの服の袖をちょいちょいと引っ張って、少しの間後ろを向いていて欲しいのだと身振り手振りで何とかお願いをすることにした。

「ふふ、わかったわかった。終わったら教えてね」

 歯磨きが終わって一段落つくと、急に睡魔が襲ってきた。こっくりこっくりと船を漕ぐ俺に気付いたのか、歯磨きセットと桶を片付け終わった律樹さんがベッド脇のリモコンでマットを倒して寝かせてくれる。
 
 瞼が重い。でもこの感覚はいつもと違って心地良い気がする。揺蕩う意識の中、温かい手が優しく頭を撫でるのがわかった。気持ちが良い。
 
 その優しさを感じながら、俺はその心地良い眠りに身を委ねたのだった。

 
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