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第一章

閑話 瀬名律樹は可愛さに屈する

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 一緒に暮らし始めてすぐ、弓月から欲を持て余したSub特有の香りがするなとは思っていたが、まあSランクだからかなと軽く捉えていた。しかし日に日に強くなる香りにもしかしてという考えが過り、そしてそれが当たっていたのだと知ったのが今。

 目の前で苦しげに嘔吐する弓月の背中を撫でながら、抑制剤を飲んでいなかったのではなくて上手く飲めていなかったことに気が付かなかった自分自身に怒りを覚える。今弓月が頼れるのは俺一人、俺が弓月を守ると決めたのになんという体たらくだ。

 抑制剤を飲むことが出来ないのなら欲求の解消法はただ一つ、プレイをすることしかない。プレイとは言っても人によって様々で、性的なものを含むものもあれば暴力的なものを含むものもあるし、軽く行動だけ示して褒めるだけのものもある。もし俺が弓月にするとすれば最後だろう。

 そう考えてはいたのに実際にその選択肢を弓月本人から開示された時、俺は酷く動揺した。

『俺、りつきさんとならプレイしてみたい』
「……え?」
『薬飲めないならプレイするしかないって書いてた』
「……あ、うん……まあそう、なんだけど」

 弓月の腹に回した腕を動かしながら歯切れ悪く答えると、彼は少し拗ねたような表情で俺とするのは嫌かと聞いてきた。嫌だなんてとんでもない。けれど大事な弓月を傷つけたくなくて、でも今プレイは必要でどうしたらいいかわからないのだ。

 可愛い顔で拗ねる弓月にその言葉はずるいと呟くと、彼は悪戯っ子のように微かに笑った。
 
 これもケアの一環だと割り切って軽くプレイするだけでも、もしかしたら弓月の身体も良くなるかもしれない。よし、と腹を括ってセーフワードを決めようとしたが、そういえば弓月は話せなかったんだと思い出した。
 実はあまりにも首の動きや筆談、メッセージのやり取りでスムーズに意思の疎通が出来ていたので、声が出ないことを忘れていた。しまったと思った時にはもう遅い。顔が見えなくても弓月がワクワクしていることくらいすぐにわかる。

 信頼関係がしっかりと築かれている場合も、基本はセーフワードを決めておく必要がある。予期せぬ事態に陥った時にも使えるので、俺もセーフワードだけはしっかりと決めておいたほうがいいと思う。況してや俺と弓月にはまだそこまでの信頼関係はない。だからいざという時、弓月を守るためのセーフワードを決めておかなければならなかった。

 だがさっきも言ったように弓月は声を出せない。だから何かあっても弓月自身がセーフワードを発することはできないのである。

「セーフワードを決めようと思ったけどどうしようか……ワードじゃなくてもポーズとか合図とかでもいいんだったっけ?ええと……」

 そう声に出しながら考えていると、ふと昔誰かが言っていた言葉を思い出した。それは弓月のような声が出ない場合ではなくて、プレイ中に猿轡などで言葉を封じられた際に使うセーフワードのようなものだったが、今の状況にぴったりの合図だった。

「確か手で形を作って合図するとか瞬きの回数とか、そんなのがあったな……じゃあ一番簡単でわかりやすいピースサインにしようか」

 弓月が頷いたのを確認し、俺は弓月から身体を離して顎に手を当てながら契約書について考える。俺が弓月のケアを担当することになった時に病院で管理する為の簡易的なものを作ったが、改めて作ったほうがいいのかがわからない。そもそも契約書といっても正式に何処かに提出するわけではなく、パートナー間で出来る出来ないを明確化するために作成するものなので必ずしも作る必要はない。

 元々俺は弓月を傷付けるつもりはこれっぽっちもないので、彼からして欲しいことやして欲しくないことを聞くだけでいいのではと思い至り、本人に直接聞くことにした。

『わからない。強いていうなら暴力はいやだ』
「そっか。じゃあ、簡単なものだけやってみようか」

 まあそうだよな、実の兄から強制的なプレイ擬きで暴行され続けたんだから、そりゃ暴力は嫌だよな。
 俺は綺麗な黒色の瞳が僅かに揺れたのを見て、安心させるように笑いかけながら頭をそっと撫でる。弓月の目から恐怖が消えたのを確認して、俺は目の前のソファーに腰掛けた。

 まず最初はKneelお座りComeおいでといったコマンドが多いが、弓月は既に座っているためKneelお座り以外のコマンドを使うことになる。どうしようかと考えながら弓月を見ると、目があったのが恥ずかしかったのか目を逸らすように俯いてしまった。そんな弓月が可愛くてつい頬が緩む。
 もっとその黒曜石のような瞳に見られたくて、俺は緩んだ頬もそのままにコマンドを発した。

「弓月、《Look俺を見て》」
「……っ!」

 俺と弓月の視線がかち合う。その瞳は先程までのような僅かな不安を抱えた色ではなくてとろりと蕩けるように甘い。あっと思った時には遅く、心臓が高鳴ると共にあらぬ所が熱を持ち始めた。

「っ、その顔は反則……!」
「……?」

 そんな蕩けた瞳で可愛らしく小首を傾げる弓月に、俺の中にどろどろに甘やかせて俺がいないと駄目なように躾けたいなんて考えが浮かび、慌ててその考えを打ち消した。駄目だ、俺も中々に欲求不満なのかもしれない。毎日Dom専用の抑制剤を飲んでいるからまだこれで済んでいるが、もし飲んでいなかったらと思うと背筋に冷たいものが走る。

 落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせながら、俺は次のコマンドを発した。弓月はComeおいでというコマンド通りこっちに来ようとしていたが、うまく足が動かないようで、足を引き摺って腕だけでこちらに来ようとしている。
 はらはらしながらその様子を見ていると、ソファーのしたまで来れた弓月は嬉しそうに俺の足に頭を擦り寄せてきた。あまりに可愛くていじらしくて、俺は幸せそうな弓月の頭を優しく撫でて褒める。

 撫でる俺の手が気持ちいいのか、もっともっとというように手や足に擦り寄ってくる弓月の可愛さにぞくぞくする。今俺の中では可愛いという気持ちと支配したい気持ちがぐちゃぐちゃに混ざり合っており、このまま弓月をどろどろにしてやりたいと思った。しかし流石に初めてのプレイでそこまでやるとSub弓月の負担になってしまうのでなんとか抑え込む。

 そんな俺の心情を知ってか知らずか、彼はキラキラと輝く黒曜石の瞳を僅かに潤ませながら俺の手にすりすりと寄り、口をぱくぱくと開閉させた。

「弓月?もう少し欲しいの?」

 そう聞くと、熱に浮かされたような表情でこくこくと頷く弓月。そうだなぁと呟けば、ふにゃりと今まで見たことのないほどに緩んだ微笑みが返ってきた。

 ああ、なんで可愛らしいんだろう。
 俺がソファーを叩きながらSit座ってと言えば、さらに嬉しそうな表情でコマンド通りに動き、出来たよ褒めてというように体を寄せてくるのだ。これが可愛くないわけがない。

 よく出来ました、よく頑張ったねと褒めながら弓月を抱きしめたり頭を撫でると、幸せそうに微笑まれたので思わず弓月の額にキスをした。触れるだけのキスだったが、俺も満たされていくのを感じる。

「今日はここまでにしようか」

 俺はそう言って切り上げようとしたが、これっぽっちのプレイでは物足りなかったようだ。まあ俺もそうだからよくわかる。しかし初めてのプレイで長時間するには弓月の体力が心許ないし、今までの強制的なプレイのせいで精神が不安定になっている今長時間行うのは得策ではない。
 涙の滲む瞳が俺を見つめながら僅かに揺れる。やめないで、と言っているようなその目に俺はごくりと喉を鳴らした。
 
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