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第一章

八話 あなたがいい

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 病院でケアに関する方法や注意事項を教えてもらい、俺達は帰宅した。車に乗っている間何度もケアについて確認をされたが、声を出すことができない俺はこくこくと頷くことしか出来なかった。

 実は俺はケアに関しては殆ど聞いていない。聞いていたのは律樹さんだけなので、実際にどんなことをするのか俺は知らないままである。だがこの一週間で律樹さんが変なことをしないというのは何となくわかったので、あまり不安はない。寧ろ律樹さんが変に気負わないかどうかだけが心配だった。

「弓月、お風呂に入ろっか」

 この家に来てから一週間、俺は毎日律樹さんと一緒にお風呂に入っている。初めは恥ずかしかったが、回数を重ねるごとに羞恥心よりも安心感の方が増していった。

 律樹さんは手早く自分と俺の服を脱がせるといつものように俺を抱き上げてお風呂に入る。自分と俺の頭、顔、体を順に洗っていき、再び俺を抱き上げて湯船に浸かるのだ。背後から抱きしめられる形で入る湯船は少し狭いが、背中に触れる肌だとか俺のお腹に回る細いけど逞しい腕だとかが温かくて胸がぽかぽかと温かくなる。

「ねえ弓月」

 温かくて気持ち良くてついうとうとしていた俺を律樹さんが呼んだ。どうしたの、と後ろを振り向こうとすると、俺の右肩に彼の額が触れる。首筋に濡れた栗色の髪が当たって少し擽ったい。俺の方にある律樹さんの栗色の形の良い頭をぽんぽんと優しく撫でると、彼はほうと息を吐き出した。吐息が肌に当たり、ぴくんと僅かに体が揺れる。

「弓月は……どうして俺なんかを、選んでくれたの?」

 それはつまり、ケアのことを言っているのだろうか。それ以外に思いつくものもないのでケアのことなのだろうけど、律樹さんの声が少し沈んでいるように聞こえて、俺は動揺した。

 やっぱりこんな俺なんかに嫌だったよなとか、病院の医師の前だったから断りたいのに断れなかったのかなとかいろんなことを考えてしまう。嫌な方向にばかり考えが向いて俺まで気分が落ち込みそうになった時、お腹に回っている彼の腕に少し力が入った。

「俺……嬉しかった。弓月が俺を……頼ってくれたんだって。だから、ありがとう」

 その言葉に詰めていた息を吐き出した。嬉しかった、ありがとう、その言葉を他の人が言ったなら別だけど、不思議なことに律樹さんの言葉だと分かった瞬間、身体の中に溶けていくようにすうと何の抵抗もなく入っていく。

 Domとしての言葉なのか律樹さん個人としての言葉なのかはわからない。けれどその言葉に偽りはないと感じた。

 俺は筆記具やスマホがないと意思の疎通ができない。それがこんなにも不便なのだと改めて感じる。

 何があって彼がこのようになっているのかはわからなかったが、この時ふと律樹さんの名前を呼びたい衝動に駆られた。実際に呼ぶことはできなかったが、無意識ながら口だけはその形に動いていた。当然背中側にいる彼は気付かない。けれどそれでも良い。いつか声に出して彼の名前を呼べたら、俺はそう思った。



 お風呂から出ると律樹さんはいつもの律樹さんに戻っていた。もう殆ど塞がっている右腕の傷に薬を塗って包帯を丁寧に巻かれ、濡れた髪の毛を優しく梳かれながら乾かされる。二年もそのままだった髪の毛は胸の下辺りまで伸びており、ドライヤーにあたるたびに眼前に靡いてきて少し鬱陶しい。

 スマホでゆっくりと一文字ずつ文を打って送信すると、ピロンと新着メッセージを告げる音がドライヤーの音に紛れながらも微かに聞こえた。律樹さんは聞こえなかったのかドライヤーと手を動かし続け、全て乾いた頃にスマホを手に持った。

「えっ、勿体ない」

 俺のメッセージを見た彼の第一声はこれだった。髪切りたいと送ったことに対してその言葉を言われるとは思っていなかったので素直に驚いた。胸の辺りにある髪を一束指先で摘んで持ち上げながら首を傾げていると、ドライヤーを片付けていた律樹さんが俺の隣に腰を下ろし、俺の髪を掬い上げた。

「だってこんなにも綺麗なのに」
『きれいって……おれ男だし』
「弓月は確かに男だけど、すごく綺麗だよ」

 掌で掬い上げた髪の毛に唇を寄せた彼の姿に、どきりと胸が高鳴る。まるで御伽話に出てくる王子様のようだと思った。実際律樹さんはとても格好良いし綺麗だ。骨と皮しかないようなひょろひょろの俺なんか比べ物にならないくらい綺麗だから、そんな彼からそう言われるとなんだかむず痒い気持ちになる。

 そんなに言うならと思わないでもないが、でもやっぱり長い髪は鬱陶しく、色々と思い出して鬱々とした気分にもなるので、俺はそれでも切りたいと送った。こうしていつまでも長い髪でいると兄に虐げられていた間と何も変わっていないように感じてしまい、そんな自分を外見から変えたいのだと伝えると、律樹さんは目を瞬かせたあととても嬉しそうな笑みを浮かべた。

「わかった。じゃあお店を予約……どうかした?」

 スマホを手に、すぐにお店を予約しようとした彼の服をちょいちょいと引っ張って、スマホでメッセージを送る。

『りつきさんが切って』
「……へ?」
『りつきさんに俺の髪を切ってほしい』
「え……いや、えっ?」

 俺の真剣な眼差しと送られた文章にかなり動揺しているようだ。律樹さんは器用だと思うから大丈夫だと送ると、彼は深い深い溜息を吐きながら俺をそっと抱きしめた。

「ねえ……それ無自覚?無意識でやってる?」

 言われている意味がわからずにきょとんとしていると、さらに深い溜息が返ってきた。無自覚かどうかは知らないけど、無意識でお願い事は出来ないんじゃないかと思う。

 俺が首を傾げていると、多分今弓月が考えていることと俺が思っていることにはズレがあると思うと言われ、ますます意味がわからなくなった。

「まあ弓月がいいならするけど……俺プロじゃないし、変になるかもしれないよ?」
『りつきさんがいい』
「……わかった。ネットと動画でやり方を学んでおくから」

 俺が何度も律樹さんがいいと伝えていると、諦めたように苦笑を浮かべて頷いてくれた。

 結局今日はもう遅いので、髪は明日切ることになった。明日の昼間に髪を切るための道具を揃え、夕方に切るそうだ。

 早く明日にならないかな、なんて久々にワクワクした気持ちで眠りについたのだった。

 
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