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第一章

七話 俺の知らないDom

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 俺が律樹さんの家にお世話になり始めてから、今日で一週間が経った。今日は病院に行く日だが、生憎律樹さんは学校からの呼び出しで一緒には行けなくなってしまったらしい。

「本当、ごめん!一人で大丈夫?やっぱり日程をずらして……」

 そうやって玄関先で右往左往していた律樹さんの背を押して、半ば強引に外へと押しやった後、俺は玄関の上り框に腰掛けた。ピロンという音にスマホを見ると新着メッセージが届いている。俺が登録しているのは律樹さんだけだから彼以外にはあり得ないのだが、律樹さんの名前を見るまで緊張している自分がいた。

 律樹さんからのメッセージを開くと、俺を心配する文言がたっぷりと長文で書かれており、俺はそっと閉じた。

 律樹さんは日に日に俺に対する心配を膨らませていっているようで、こうして過保護になることも珍しくない。最近は杖をつきながらトイレまで往復できるようにもなり、車椅子にも自力で乗り降りできるようになったのだから手伝わなくてもいいと伝えているのに、事あるごとに手を出そうとしてくるのには正直どうしたらいいかわからなくなっていた。

 俺は律樹さんに迷惑をかけたくない。出来れば迷惑をかけずに、一緒にいたいと思っている。

 再びピロンと音が鳴ってスマホを見ると、そこに書かれていたのはタクシーを家まで呼んでくれたということだった。代金は靴箱の上に置いているので好きに使ってということだったが、俺はどうしたものかと天井を仰いだ。

 ピンポンと玄関チャイムがなったので、靴箱の上のお金を財布に入れた。そして玄関に置いている車椅子に乗り込んで外に出ると、そこにいたのは案の定タクシーの運転手さんだった。彼は車椅子のことも話せないことも事前に聞いているようで、返事がないことに気にする様子もなく、ごく自然に俺が乗っている車椅子ごとタクシーに乗せてくれる。

「このタクシーは車椅子の方も乗れるようになってるんですよ」

 車椅子ごと乗れるようにスロープがついているらしく、俺はそんなタクシーがあることをこの時初めて知った。今回律樹さんが手配してくれたのは福祉タクシーで、俺のように車椅子で何処かに出かける際に使うのだとか。

 律樹さんから事前に行き先も聞いているらしい運転手さんが確認がてら俺に行き先を告げたので、俺はそれにこくりと頷く。すると満足気に笑った運転手さんは車を発進させた。

「――着きましたよ」

 いつの間にか眠っていたようだ。運転手さんに代金を支払ってタクシーを降り、病院の中へと入っていく。帰りもタクシーなのだろうか、予約は…と思いながら先程届いていたメッセージを見返すと、どうやら帰りは律樹さんが迎えに来てくれるようだった。そのことに安堵しつつ、メッセージを返す。

 俺は目的の科があるフロアの受付に行くと、いつもの担当医師が俺の元へと駆け寄って来た。

「瀬名さんから一人で来ると聞いたので迎えに来ました」

 その言葉に、律樹さんは本当に過保護だと思った。でも大事にされているのだとわかるから俺も悪い気はしないのだが、迷惑をかけていないかどうかだけが心配だった。

 不安が顔に出ていたのだろう、担当医師は俺に視線を合わせるように蹲み込み、大丈夫ですよと微笑んだ。

「瀬名さんは好きでやっているんですよ。だから弓月くんが気にする必要はありません」

 でも、と僅かに目を伏せると、膝に乗せた手に温かい手が重ねられた。ぱっと顔を上げると、そこにいたのは優しい顔をした担当医師で。

「彼は君に頼られたいんです。勿論僕も」
「……?」
「……これ以上は部屋に行ってからにしましょうか」

 こくりと頷くと、彼は俺の車椅子をゆっくりと押してくれ、開け放たれた部屋に入って行った。
 
 暫く担当医師とやり取りをしていると、律樹さんが部屋にやって来た。息を切らしていることからかなり急いでここに来たのだろうことがわかる。彼は勧められるがままに俺の隣の椅子に腰掛けて、深呼吸をした。

「今日の質問はこれでおしまいです。よく頑張りましたね。……では瀬名さんも来たことですし、これからのお話をしましょうか」

 担当医師が俺と律樹さんに視線を移した。
 今から何が始まるのかと、緊張で喉がごくりと音を立てる。隣の律樹さんを覗き見ると、彼も同じように緊張しているようで額に汗を浮かばせながらじっと前を見据えていた。

「改めて聞きますね。弓月くん、Domは怖いですか?」

 俺は僅かに俯いた後、ちらりと律樹さんを窺った。俺の視線に気付いた律樹さんが目元を和らげて俺を見る。

 手元に置いたままの紙にボールペンで『こわいけど、前よりもまし』と詰まりながら書いた。その言葉に担当医師はふわりと笑んで頷き、律樹さんは驚いたように俺を見ている。

「では、Domによるケアを受けてみませんか?」

 その言葉に俺はびくりと肩が跳ねた。
 Domによるケア、それは医療従事者として働くケア専門のDomからケアのコマンドを受けると言うことだ。本当なら早く受けたほうがいいのはわかっている。声が出るかもしれない、期待は確かにあるが、それ以上に他のDomへの恐怖が勝っているようで俺の身体は動かなくなった。

 担当医師もそれに気がついたのだろう。無理にとは言わない、今すぐと言う話じゃないと落ち着かせるように優しく言い聞かせてくれる。

 ――俺は、弱い。

 膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめていると、不意に温かくて大きな手が俺の手をすっぽりと覆ってしまった。大丈夫だと言うように優しく包み込む。

「大丈夫だよ弓月、すぐにしないといけないことでもない。ゆっくり一緒に考えていこう?」
「Domによるケアは治療の一環で必要なものではありますが、弓月くんの意思が最優先なので、気に病まないでください。こちらこそ性急でしたね、すみません」

 担当医師は頭を下げているけど、彼は医師として言わなければならないことを言ったまでだ。彼は悪くない。

 Domのケアというのも初対面のDomじゃなければ、例えば律樹さんのようなDomなら受けてもいいのに。出会ってからの半月間、そして一緒に暮らし始めてからの一週間、彼は一度たりともコマンドを使って俺を支配しようとしなかったし、いつも俺のことを気遣ってくれていた。そんな彼になら、そう思い始めている自分がいることに気がついて俺は呆然とした。

「……弓月?」

 心配そうな顔が俺を覗き込んでいた。綺麗に整った形の良い眉が八の字に下がり、琥珀色の瞳が俺を案じるような色を湛えている。

 今、俺の心はぐらぐらと揺れている。Domは怖い。俺の知っているDomはSubをコマンドで操り、好き勝手に痛めつけてまるで奴隷のように扱った。その底知れぬ恐怖が薄れることも消えることも一生ないだろう。でもたった一週間だけど一緒に暮らした律樹さんDomは俺の知るDomではなくて、ただただ優しいDomだった。

 俺は混乱する頭も心もそのままに机の上に置いたペンを手に取り、少し迷ったあと、紙の端っこに小さく文字を書いていく。ペンは時々動きを止めながらもゆっくりと文字を綴っていき、書き終えた頃にはかなりの疲労感が身体を襲った。

 俺の隣に座っている律樹さんには既に綴られた文字が見えていたようで、驚きに目を見開いている。俺は書いた紙を向かいに座る担当医師に向けて差し出し、静かに俯いた。受け取った彼は書かれた右端の言葉に視線を走らせて、律樹さんと同じような反応をした後、嬉しそうに頬を緩めた。

「……なるほど、君と彼が良いならこちらとしては良いと思いますよ。……ねえ、瀬名さん?」
「えっ……でも、俺」
「こちらでもフォローしますし、もし出来るならやってもらえるとこちらとしても助かるのですが……」

 駄目だと言われたらそれまでだと思いながら駄目元で書いてみた言葉は、どうやら担当医師には受け入れられたらしい。そのことに安堵して顔を上げると、不安気に瞳を揺らしながら俺を見つめる律樹さんと視線が重なった。断られることも覚悟している。……しているつもりだったが、断られたらどうしようという不安が胸の中にじわじわと広がっていく。

 徐々に下がっていく視線。
 すると、小さな声が聞こえてきた。

「……本当に、俺で、いいの?」

 それは消え入りそうな声だった。声は震え、蚊の鳴くような小さな小さな声で紡がれた言葉に、俺はただ一つ頷いた。

『りつきさんみたいな人ならいい』

 俺の書いた文字を指でなぞった律樹さんに、担当医師はお願いしますと声をかけた。

 
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