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第一章
五話 新しい家 前編
しおりを挟む入院開始からひと月後、ついに退院の日がやって来た。
退院とはいっても、これからは通院しながら治療を進めていくので完治ではない。これからまだまだこの病院とは長くお付き合いしていかなければならないのだ。
さて、退院とはいっても俺には帰る家が存在しない。
元々頼る気も戻る気もはなからなかったが、俺の住んでいた家は兄と俺が接触した翌日には既にもぬけの殻だったそうだ。近所の人の話によれば、両親は警察の厄介になるのを避けるように夜逃げ紛いな行動で行方をくらましてしまったのだと言う。ついでに言えば、兄は前回の一件でここから遠い病院へと転院した後、警察のご厄介になることが決まっている。当分は出てこれないだろうとは、律樹さんの見解だ。
元々いなかったも同然だった家族もいい思い出のない家も失い、はてさてどうしたものかと思っていたところ、なんと俺は一人暮らしをする律樹さんの家に少しの間居候させてもらうことになった。
ただ一人暮らしとはいっても、律樹さんの父方の祖父母が高齢者施設に入る前に住んでいた家を譲り受けたらしく、とても広い一軒家に住んでいるそうだ。部屋も余っているので是非にと言われ、寧ろ有り難かったので二つ返事でお願いすることにした。
「ここが弓月の部屋だよ。一応机とベッドは買ってあるけど、他に足りないものがあったら遠慮なく言ってね」
そう言って案内されたのはとても見晴らしのいい部屋だった。築百年ほどの木造建築平屋建てのこの家は、兎に角大きい。庭も綺麗に手入れされているようだし、部屋もよく掃除をされていて埃ひとつない。
俺はついていた杖をベッド脇に立てかけ、ベッドに腰掛けてからぐるりと部屋を見渡した。俺は未だしっかりと自分の足だけで歩くことは出来ないので、こうして杖の力を借りながら何とか歩いている。
そもそも俺の歩行困難の原因は、栄養失調と二年余りまともに足の筋肉を使っていなかったから。食事改善とリハビリによって少しずつ回復はしているが、長時間の歩行は未だ車椅子を使わなければ出来ない。早く一人でまともに歩けるようになりたいものだ。
「あっ、そうそう、これを渡すのを忘れてた!はいこれ」
はい、と差し出されたものを受け取る。渡された手のひらサイズの四角い箱を丁寧に開けていくと、その中には真っ白なスマートフォンが入っていた。
驚きと戸惑いで手の中にあるスマホと律樹さんの顔を何度も見比べる。プレゼントだと言われたが、本当にこんな高価なものを貰っても良いのだろうかという気持ちと、初めて触る機械にワクワクする気持ちとが攻めぎ合う。
「これからはこれを使ってコミュニケーションを取れたら良いなと思って。設定は済ませてあるから、あとは使い方なんだけど……簡単な説明だけしようか」
眉根を下げて笑いながら、俺の頭をぽんぽんと撫でる。
律樹さんは本当に頭を撫でるのが好きなんだな。
スマホの使い方を簡単に教えてもらった後は律樹さんは昼食を作るためにキッチンに、俺はそのままリビングのソファに横になりながらぼうっとテレビを見ていた。居候の身でありながらだらだらとするのは気が引けるが、なにぶん身体が上手く動かないので仕方ない。
テレビでは丁度昼の情報番組が夏休みに行きたい観光地特集をしているようで、女性アナウンサーや見目が整った俳優達が実際に現地に行っている映像が流れている。綺麗な滝だったり海だったり、やはりこの猛暑を乗り切るには水辺が良いんだろうななどと考えていると、いつのまにか美味しそうな食べ物の映像に切り替わっていた。
何も考えずにただただ画面を眺めていると、突然チャンネルが変わってニュースが流れ始めた。何が起こったのかとテレビのリモコンを探すが見当たらない。もしかしてソファや座卓の下に落ちてしまったのだろうかと身を乗り出して探そうとしたところ、視界がぐるりと回った。どうやらバランスを崩してソファから落ちたようだ。ガンッ、という音と共に額を鈍い痛みが襲う。
「っ、なに!?どうした……えっ、ちょ、弓月?大丈夫?!」
音はキッチンにまで聞こえていたらしく、慌てた律樹さんがすっ飛んできて俺を抱き起こしてくれた。落ちちゃった、と苦笑いすると、律樹さんはほうっと息を吐き出した後、ヒリヒリと痛む額に触れた。かなり優しい触れ方だったけれどやっぱり痛くて、俺は思わず顔を顰める。
「……もう、何で君はいつも……もう縛ってでも大人しくして……はっ、ち、違う!今のは違うから!!ごめん!」
何かをぶつぶつ言っていたと思ったら急に我に返ったように大きな声で否定をして、俺を優しく床に座らせてた後、逃げるようにキッチンへと消えて行った。よく聞き取れなかったが、さっきの律樹さんはいつもと空気が違ったような気がする。腹の底がずくりと疼くようなそんな感覚がして、俺は腹部を撫でながら首を傾げた。
再び現れた律樹さんの手にはガーゼに包まれた保冷剤があり、ぶつけた額にぴとっと当てられてあまりの冷たさに身体がびくっと跳ねた。
「あっ、ごめん、冷たかった?もう少しでご飯出来るから、それまでこれで冷やしておいて」
こくんと首肯すると、うんうんと同じように頷いた律樹さんはまたキッチンへと消えて行った。
昼食を食べた後は昼寝をしたり、テレビを見たりと二人でのんびりと過ごし、日差しが和らいだ夕方にやっと外に出ることができた。しかし酷暑の夏、夕方とはいえ少し立っているだけでも薄らと汗ばむくらいには暑い。長居は無用だとリハビリを兼ねた散歩を早々に切り上げ、俺たちはお風呂に入ることにした。
病院では男性の看護師さんに手伝ってもらいながら入浴していたが、この家には手伝ってくれる看護師さんはいない。だから自分一人で入浴するものだと思っていたのだが。
「ん?どうかした?」
……なぜ、脱衣所にこの人がいるのだろうか。
俺の視線に気付いた律樹さんは首を傾げながら、さも当然というように俺の目の前で服を脱いでいる。そして自分の分が終わると俺の服に手を伸ばしてきた。左腕が未だあまり動かないので手伝ってもらえるのは有り難いけれど、正直律樹さんに見られるのはかなり恥ずかしく感じる。
そんな俺の心など知ったことではない律樹さんは、どんどんと俺の服を剥いでいく。Tシャツを捲った時に一瞬動きが止まった気がするが……まあ、想定内だ。
「……はい、脱げたよ」
俺が服を脱ぐ前とは違い、少し沈んだ声。多分服の下、つまり俺の身体に驚いているのだろう。
俺の身体は約二年間毎日ずっと殴られたり蹴られたりしていた跡がくっきりと残っている。これでも入院生活中にましになった方なのだが、それでも肌色の部分が少ないくらい赤黒い痕や紫色の痣が大量に残っているのだ。普通の人間であれば驚くのも無理はない。
「……痛い?」
ふるふると頭を横に振ると、ほっとしたように息を吐き出した律樹さん。つうっと脇腹を撫でられ、擽ったさに身を捩ると、律樹さんは痛そうな顔で俺のことをがばりと抱きしめた。俺が倒れないように、後頭部を手で押さえて自分の方へと抱き寄せてくれる律樹さんは本当に優しい。
そのまま横抱きにされ、お風呂場に入って椅子に座らされる。素肌同士が触れ合う感覚はどこか擽ったくて、俺の顔は自然と緩んでいた。
頭、顔、身体と洗うのを手伝ってもらい、湯船へと浸かる。律樹さんも素早く髪や全身を洗ってから、背後から俺を抱きしめるような格好で湯船へと入った。男二人分の量が増えた湯船からお湯が流れ出ていく。
その温もりに、俺たちは同時に息を吐き出した。
「はあ……気持ちいいねぇ」
確かにとても気持ちがいい。
熱過ぎず、ぬる過ぎずなお湯が体に染み渡っていくようで自然と息が漏れる。背中に触れる律樹さんの熱も心地よくて、俺の瞼はだんだんと重くなっていった。お風呂で寝るわけにはいかないと頑張って目を開けようとするが、あまりの気持ち良さに目を閉じてしまいそうになる。
「気持ちいいね……弓月?」
もしかして眠い?と聞かれて小さく頷くと、くすくすという笑い声が耳元から聞こえてきた。吐息が耳元に掛かり、それが擽ったくて身を捩るが、何故かぎゅっと抱きしめる腕に力が込められて身動きが取れなくなる。
「弓月」
「……?」
さっきまでとは違う熱を帯びたような声で呼ばれ、俺は僅かに動く頭を少し後ろに向けて律樹さんの顔を見ようとしたが、腹部に回った手とは反対の手で頭を抱えられて出来なかった。
「もう……俺から離れないでね」
耳元で囁かれた声は少し泣いているような、まるで懇願するようだった。
ここを出ても他に行くところがないのだから俺からどこかに行くわけがないのに、律樹さんは離れないでほしいと言ってくれる。今までいなくなれや存在を否定する言葉ばかり投げかけられていたから、こんな風に優しい声音で求めてくれる律樹さんの言葉に胸が温かくなった。
俺を助けてくれてありがとう、この家に来させてくれてありがとうとお礼を言いたいのに、俺の喉は役割を果たそうとしない。話せないことが悔しい。早く話せるようになりたいとこんなにも強く思ったのは、この時が初めてだった。
「さて、体も温まったことだし……出ようか」
そう言って俺を抱えたまま立ち上がった律樹さんに驚いてぎゅっと首にしがみつくと、彼は一瞬目を見開いた後優しく笑った。落とさないから大丈夫だよと言うようにとんとんと背中を撫でてから、脱衣所の足拭きマットの上に降ろしてくれ、ふわふわのバスタオルで全身を拭いてくれる。優しく丁寧に、まるで壊れ物を扱うかのような手つきに、くすぐったい気持ちになった。
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