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第一章

四話 求める声

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 ドンッという扉に何かが叩きつけられたような大きな音が鳴り、その衝撃で扉が少しだけ開く。見るな、見てはいけないと頭の中で鳴り響く警鐘、なのにどうしてか視線が扉から外れない。無意識にその隙間を凝視してしまい、俺はすぐに後悔した。

退け」

 びくりと身体が跳ねる。
 この身体の奥底が疼くような威圧感がグレアだと理解した瞬間、身体がぴくりとも動かなくなった。それと同時に扉の隙間から目が離せなくなる。徐々に息が荒くなっていき、掌に汗が滲む。
 
 ぺたり、ぺたりと裸足で歩く音が聞こえてくる。そうして扉の隙間にちょうど差し掛かった時、こちらを向いた人影と目が合った。

 ――兄、だった。

 俺と目があった瞬間、兄はにやりと下卑た笑みを浮かべ、自然な動作で扉に手を掛けた。

「弓月、探したぞ――Come来い

 ひっ、と喉が引き攣った。身体の奥底から言い知れぬ恐怖と僅かな熱が湧き起こり、聞きたくないのに身体が勝手に動こうとする。けれど左腕も足もまともに動かない状態でコマンドに従おうとすれば、当然ベッドからずり落ちてしまうだろう。案の定、俺は無様にも床に倒れ込んだ状態になった。それでも身体は勝手にコマンドを実行しようとしていたが、頭上から聞こえてきた長い長い溜息にぴしりと身体が固まった。

「はぁ……だからお前は駄目なんだよ。Domの言うことは絶対だろ?相変わらずつまらねえSubだなあ……仕方ねえから俺がまた一から躾直してやるよ。弓月、Strip今すぐ脱げ

 今すぐ脱げとはどう言うことだと頭が思うより先に、自由が効かないはずの身体がどうにか服を脱ごうと動き出した。しかしいくら右手が使えるといっても所詮は片手、それも倒れている状態では上衣を脱ぐことさえままならない。
 
 するともたもたしている俺に痺れを切らしたのか、兄が病室に入ってきて俺の腹部を蹴り上げた。衝撃で息が詰まる。苦しくて、体をくの字に曲げて咳き込んでいると、髪の毛を鷲掴みにされて顔を持ち上げられた。口の端から溢れた唾液が顎を伝って病室の白いリノリウムの床にぽたりと軌跡を描きながら落ちていく。涙に濡れる視界に映るのは、見慣れた兄の顔だけだった。

Open口を開けろ

 視界が歪んでいく。寒くもないのに全身がカタカタと震えて仕方がない。怖い、嫌だ、もうやめてくれ。そう思っているのにSubである俺の身体は、こんな状態であってもやっぱり支配を求めているのか、コマンド通りに口を開いていく。
 そんな俺の姿に一段と笑みを深める兄。その顔を見ると、身体の奥底からどろりとした何かが生み出されるようなそんな感覚に襲われて、俺はサブドロップした。

 ガクガクと震える身体には既に感覚はなく、頭が揺れるような感覚に気持ち悪さを覚える。どろりとした、何かに捕われてしまうような気持ち悪い感覚に吐いてしまいそうで、目を閉じた時だった。

「大丈夫ですか!何があっ……弓月!!」
「ああ?……てめえはあの時の……!」
「弓月から離れろ!!」
「がっ……!?」

 パリンという音を立てて室内の窓ガラスが割れる。兄のものよりもずっと強い威圧感に、身体がぶるりと震えた。
 兄は震える手を俺の髪から手を離し、後退りをしていく。腰を抜かしたのか、尻餅をついたまま壁際に追い詰められるようにジリジリと後退していった。

 俺はといえば、サブドロップした状態だったにも関わらず突然浴びせられた強いグレアに全身が驚いているらしく、ぴくりとも動けなくなっていた。しかし身体は動けなくとも、心臓は痛みを感じるほど激しく鼓動している。
 状況が全く飲み込めないままただ衝撃に固まって床に転がっていると、誰かに優しく抱き起こされた。

「弓月!ごめん、遅くなって……ああ、もう!一人になんてするんじゃなかった……!」

 ポタ、ポタと頬に落ちてくる感触に、痛みを堪えるために閉じていた目をゆっくりと開ければ、視界いっぱいに広がる律樹さんの顔。どうやら先程のグレアは律樹さんのものだったようだ。グレアが律樹さんのものということは、律樹さんは少なくとも兄のランク以上のDomということになるのだが、未だグレアの衝撃で思考停止している状態ではまともに考えることができない。

「弓月……よく耐えたね、頑張ったね、Good boy良い子だ

 そう声をかけられた瞬間、息苦しさや吐き気が一気に引いていき、俺はやっと呼吸ができた。サブドロップしていたはずなのに、不思議なことにいつの間にか大分おさまっている。
 安堵から俺の口からほぅ…と震えた吐息が溢れた。それを見た律樹さんは同じようにほっと息を吐き、俺の頭を泣きそうな顔で撫でた。

 話を聞くと、律樹さんが俺を連れ出したあの日から警察の厄介になっていたらしい兄は、精神異常の可能性があるとのことでこの地域で唯一DomやSubの専門の科があるこの病院に来ていたらしい。そこでトイレに行きたいと嘘を吐き、それまで萎らしくしていたこともあって最小人数の警備でトイレに向かっていたところ、突然凶暴化した兄に全員が昏倒させられて逃げられてしまったそうだ。
 そしてこの病院にいるだろう俺を探していたところ、運良く――俺にとっては運悪く――すぐに見つかって入ろうとノックをしたらしい。しかし俺が押したナースコールによりやってきた看護師さんが止めに入り、逆上した兄が看護師さんを突き飛ばしてグレアを発したということだった。
 看護師さんは突き飛ばされた時に扉に思い切り頭を打ってしまい、少しの間意識を失っていたのだそう。幸い軽い怪我だけで済んだそうだが、事の詳細を聞いた時は申し訳なさでいっぱいになった。

 律樹さんはといえば、本来であればたとえ今が夏休み中だったとしても普段と変わらず仕事があるそうなのだが、俺の面倒を見るためにひと月ほど休みをもらうことにしたのだとか。今日は八月いっぱいはお休みをもらうかどうかの相談をするために一度学校に行っていたらしい。その相談の最中に警察から兄についての連絡が入り、慌てて病院に戻ってきたというわけだった。
 
 本当に律樹さんには頭が上がらない。俺のために仕事も休み、その上助けてもらったのだからこの先一生足を向けて寝れないな。

「弓月、身体は大丈夫?どこも怪我してない?」

 優し気な声音に視線を上げると、不安気に揺れる琥珀色が俺を見ていた。大丈夫だと小さく首肯すると、途端にへらりとした笑みが返ってきた。
 
 ぎゅっと抱きしめられているからか、律樹さんの少し速い心臓の音が聞こえてくる。理由はわからないけれど、律樹さんの心臓の音にはどうやら俺を落ち着かせる効果があるようだ。俺は無意識に律樹さんの胸元に擦り寄っていた。

「へ……っ?ゆ、弓月っ?」

 律樹さんはDomなのに何故か怖くない。さっきのグレアは流石に衝撃が大きかった分、律樹さんに対して身体が震えたりしてしまったけれど、今は全くそんなことはない。寧ろすごく安心する。

 そんな和やかな空気が流れる中、ぱきっ、と小さな音が俺の耳に届いた。何の音だろうかと律樹さんの胸から頭をずらして頭を上げ――俺は目を見開いた。

「……っ!!」

 間に合わない。そう思いながらも咄嗟に右手で律樹さんの胸ぐらを掴んで全体重をかけて横に倒す。火事場の馬鹿力とはこういうことを言うのかもしれない。今の俺の幼児並みに弱い力で何とか律樹さんの体を倒すと、俺は倒れた彼の頭を右腕で包み込んだ。

 ――瞬間、鋭い痛みと焼け付くような熱さが右腕を襲った。歯を食いしばりながら痛みに耐える。声が出なくてよかったかも知れない。声が出ていたらきっと喉が潰れるくらい叫んでいたと思うから。
 
 律樹さんは目を白黒させた後、状況を瞬時に把握したのか俺を庇うように体を起こし、再度強烈なグレアを発した。カラン、パリンとガラスが落ちて割れる激しい音が立て続けに鳴る。
 音が止み、律樹さんの視線の先を辿ってみればそこには恐怖に竦み上がった兄の姿があった。

「お前……これ以上弓月に危害を加えるようなら容赦しない。コマンドを使うことも許さない。視界にも入るな」
「くっ……」
「失せろ」
「ひ、ぃ……っ」

 俺にはあまりDomやSubの知識がない。寧ろ基礎も基礎のお粗末な知識しかないので、これがDomである律樹さんのディフェンス状態だったのだと知ったのは大分後になってからだった。兎にも角にもこの時の律樹さんは周囲にグレアを撒き散らし、俺を守るために暴力的になっていたらしい。

 午後から外来担当だったらしい俺の担当医師が急いで駆けつけてくれたお陰で事なきを得たが、律樹さんのあの状態が続けば俺も危うかったかもしれないと言われた。俺は今治療中の身で、強制的なコマンドや強いグレアに未だ恐怖心があるため、いつパニックを起こしても仕方のない状況だったのだと教えられた。
 
 因みに兄に関しては、応援の警察官の方々に取り押さえられ、遠く離れた病院へと転院となったようで一先ずは安心である。
 
「瀬名さんも、彼が大事なのはわかるけれどももう少し加減してあげてね」
「……はい、すみません」

 ベッドに横になって腕の治療を受けている俺の横で、怒られて小さくなっている律樹さんがおかしくて思わず笑ってしまった。

 また何かあればすぐに呼んでという言葉を残し、竹中先生と看護師さんは病室を出ていった。後に残されたのは俺と律樹さんだけで、他は誰もいない。律樹さんはどこかそわそわしたように俺の方を見て、探るような声音でこう言った。

「……さっき、声出てなかった?いや、ほんのちょっとだけだけども」

 そう聞かれたが自分ではよくわからなかったので首を傾げると、律樹さんは唸りながら俺の頭を撫でた。
 
 そういえばこの間から思ってはいたけれど、律樹さんは俺の頭を撫でるのをいたく気に入っているようで、ことあるごとに撫でているような気がする。今は横になっているので撫でにくいだろうに、それでも律樹さんはやっぱり頭を撫でてくれるのだ。嬉しいけれど少し擽ったい。

 正直な話、俺自身が俺の声を忘れてしまっていることもあって、無意識下で微かに声が出たとしてもおそらく気づくことはないだろう。自分の喉から発したという感覚があれば話は別だが、今回の場合は全くそんな感じはなかった。

「……早く、声が出たら良いね」

 弓月の声が聞きたいと懇願されるように呟かれた声は、俺の乾ききった心に一つ、小さな染みを作った。

 
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