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第一章
一話 失われた声
しおりを挟む次に目が覚めた時、辺りは真っ暗だった。
薬のせいでぼんやりとする頭で必死に考えようとするが、考えは全くまとまらない。頭はぐらぐらするし、寒気がするのに身体は発熱しているのかどろりと溶けてしまうような熱さを持っている。まるで全身が鉛にでもなったかのように重く、指一本動かすこともままならない。
そのうちあまりの辛さに考えることを放棄してもう一度瞼を閉じようとした。
――その時だった。
「ぐっ……が、はッ!」
誰かの苦しそうな呻き声が聞こえた後、突然浮遊感が襲ったのだ。何が起こっているのかもわからず、しかし兄のコマンド通りに何も発することができず、聞くことすらも叶わない俺は大人しくこの浮遊感に身を委ねるしかない。
そうしてしばらくすると、視界が急に明るくなった。どうやら真っ暗だったのは目隠しをされていたからだったようだ。
「助けに来るのが遅くなってごめんね」
「……?」
緩慢な動きで声のする方に目を動かすが、意識を失う前に飲まされた薬の影響か、焦点が合わず視界がぼんやりとしている。頭上に降ってきた声の主を見ることは叶わなかったが、代わりにふわりとした優しい香りが鼻腔をくすぐった。
この香り好きだなぁ、なんてぼんやりと思いながらゆっくりと瞬きをする。身体を包み込むような温かさがなんなのか、この浮遊感はなんなのか、そんなことを考えようにも霞がかかったような頭では思考がまとまることはなかった。
ただわかるのは、この声の人が兄ではないということだけ。
「弓月……?」
どこかで聞いたことのある声のような気がするが、働かない頭でいくら考えても答えは出そうにない。それでもよかった。この人が誰であれ、俺のことを酷く扱わないのであればそれでいい。……そう、それでいいんだ。
表情に出ているかどうかはわからないが、俺は内心ふっと笑う。これが夢かどうかもわからないのに、何を安心してるんだか。
……ああ、眠い。また瞼が落ちていく。
サブドロップ状態で強い睡眠薬のようなものを使われたせいか、いつもよりも全身が重くてもう指一本動かすことができない。折角薄らとでも開くことができた瞼が重力に従って落ちていく。
それと同時に意識もまたあの暗闇に落ちていった。
重い瞼を再びこじ開けた時、俺は目を疑った。
あれ程部屋から出てはいけないと言われていたのに、今俺の目に映る天井は全く知らないものだったからだ。その光景がいやでも此処が部屋の外だということを表していて、俺のほとんど働いていない頭が混乱している。
夢、なのだろうか。俺が見ている都合のいい夢。あの部屋で見ている束の間の夢なのかもしれないが、俺にはどうしても夢には思えなかった。
だって夢だったら痛みを感じないって言うだろう?
此処がどこなのか、何故俺はここにいるのかなど、たくさんの疑問が頭を埋め尽くしていくが、まだ飲まされた薬が残っているのか思考が散らばっていた。
試しに口を開けてみる。声は出なかった。兄からのコマンドが効いているのか、それとも別の要因なのかはわからないが、声が出ないことだけは確かだった。
俺は上体を起こそうとして腕に力を入れ――失敗した。ガタン、と音を立てて後ろに倒れ込むと、走るような足音と共に誰かが俺の横に現れた。
「っ、弓月!よかった、目が覚めたんだね。痛いところはない?気分は?喉は乾いてない?」
誰だこいつ、それが俺がこの人物に初めて抱いた感情だった。どこかでこの声を聞いたことがある気はするのだが、如何せん、ダイナミクスが発現する前後の記憶が曖昧でよくわからない。
俺が不安そうにしていたのがわかったのだろうか、目の前の人物は少し悲しげに眉根を下げた。
「……もしかして……俺のこと、わからない?」
その言葉と表情に少し申し訳ない気持ちを抱えながらも控えめにこくりと頷くと、その人は俺の左手に手を重ねて悲しげに微笑んだ。
「そっか……俺は、君の従兄弟だよ。名前は瀬名律樹。今は君が通うはずだった高校で教師をしているんだ。……律樹って呼んでね」
――俺の、従兄弟?
そう聞き返そうとして口を開いたが、やはり声は出ない。はくはくと声も出さずに口を動かした俺に何かを感じとったのか、初めは不思議そうに首を傾げていた律樹さんの顔色がさっと変わった。
「……弓月、もしかして声……」
多分、と曖昧に頷けば、律樹さんは慌ててこの部屋から出て行ってしまった。パタパタと走る音が遠のいていったと思ったら、続いて走る音が何重にも重なりながら近づいてくる。どうやら誰かを連れてきたらしい。
さっきまで律樹さんがいた場所に視線を向けると、そこにいたのは息を切らした三人の人間。一人は律樹さんで、後の二人はそれぞれ形の違う白衣を身に纏っている。もしかしてお医者さんと看護師さんだろうか。
医師と思われる白衣の人が近くにあったパイプ椅子を引き寄せて座り、看護師と思われる白衣の女性がベッドの脇に立つ。彼女はベッドの横からリモコンのようなものを取り出して俺の名前を呼んだ。久々に自分の名字を聞いたなぁなんてぼんやりと思いながらベッド脇に立つ女性に視線を向けると、ベッドを動かしますねと声を掛けられた。俺は、ベッドが動く…?とよくわからないままにこくりと小さく頷く。すると僅かな機械音と共にベッドが動き、俺は座るような形になった。
どうやら此処は病院の個室のようだ。少し消毒液の匂いがするどこもかしこも白い、清らかな場所。目が覚めるまでのことが夢だったのかもしれないと錯覚するほど、俺がいた場所とは正反対のようなこの場所に少しほっとする。
しかし座ったことで改めて見える現実もあった。僅かに視線を落とすと、そこにはだらりと垂れた自分の手がある。それだけなら、ああ自分の手だなと感想を抱くだけだっただろうが、残念なことにその手首には赤黒く変色した跡がいくつもあったのである。あれは全て現実だったのだと思い知らせるようなそれに、じくじくとお腹の辺りが痛んでいく。まるで引き寄せられるようにそこから視線を外せずにいると、不意に誰かの手が俺の視界を塞いだ。
「今は、見たくないものは見なくても良いんです。此処にはあなたを害する人はいません。みんな、あなたの味方ですよ」
優しい声だった。瞼に触れた温かな手が離れていき、次に視界が開いた時には、不思議なことに俺の目にあの痕が入ることはなくなっていた。
「初めまして、今日から君の担当になった医師の竹中です。では今からいくつか質問をするので、わかる範囲で答えてくださいね。あなたのお名前は何ですか?」
「……、……」
答えようと口を開くがぱくぱくと開閉するだけで音は出ない。それを知っていたのかわからないが、竹中と名乗った医師の男性はベッドテーブルを取り付けてその上にノートとペンを置き、そこに書くようにと促した。しかし右手はかろうじて動かせたが、左手は相変わらずだらりと垂れたまま動かない。右手だけでなんとか書こうとして上手く書けなくておろおろしていると、さっき俺の視界を遮った少し骨張った手がそっとノートを押さえてくれた。
「大丈夫、慌てなくて良いですよ。ゆっくりで良いんです」
竹中医師の手と顔をちらりと見てからノートにゆっくりと自分の名前をフルネームで書くと、ノートを押さえた状態で竹中医師はうんうんと満足そうに頷いた。
「貴方の年齢は?」
『16』と書くと、誰かの息を呑む音が聞こえた。それに首を傾げるが、目の前の彼は特に気にした風もなく、次々と質問を投げかけてくる。その都度ノートに書き込んでいき、最後の質問に答え終わった時には妙な達成感のようなものを感じていた。
ご飯は食べられそうかと聞かれたので頷きを返すと、もうすぐ食事の時間だから待っててねと言われた。椅子から立ち上がった竹中医師は看護師の女性と共に部屋を出ていったので、部屋には俺と律樹さんだけになる。律樹さんは何故か難しそうな顔をしていて、俺は少し気になって右手を伸ばして律樹さんの服を引っ張ろうとして失敗した。左腕が使えないことをすっかり忘れていた。バランスを崩して身体が傾ぐ。あ、と思う間もなくベッドから落ち――そうになったところを寸前で受け止められた。
「っぶね……大丈夫?」
どっどっと心臓が大きく音を立てる。びっくりした。本当に落ちるかと思って怖かった。
なんとか直前で律樹さんが片腕一本で受け止めてくれたので大事には至らなかったが、これが本当に落ちていたらと思うと一気に血の気が引く。
「大丈夫、落ち着いて」
とん、とんと優しく背中を撫でられ、俺は詰まっていた息を吐き出した。律樹さんは俺をベッドに戻した後、落ち着くまで抱きしめながら背中を撫で続けてくれた。でも今まで年上の人に優しくされた経験がない俺は、あの実兄との違いについ戸惑ってしまう。
こんなに優しくされても良いのだろうか、そう考えてしまう自分はもしかすると卑屈なのかもしれない。
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