クリスタルの封印

大林 朔也

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腕の中で 1

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「勇者が陸橋に近づきました」
 ミノスの言葉通り、勇者は三日月の夜に陸橋を渡った。
 最果ての森を颯爽と馬で駆け抜け、ダンジョンに施された封印の魔法を簡単に破り、侵入したのだった。
 ダンジョンにした小細工は全て見抜かれ、魔法使いによって避難所は開けられていった。パニックに陥った仲間が叫び声を上げると、勇者は魔物が襲ってくると思い、次々と大切な仲間を殺していった。

 勇者は仲間の死体を山のように担ぐと、魔法使いの不思議な光でダンジョンを明るく照らし、なんなく20階層にやって来た。広場の扉を乱暴に開けると、勝利を祝うかのように雄叫びを上げたのだった。
 勇者は嬉々としながら、仲間の死体を広場に投げ捨てていった。何度も刺し貫かれ、苦しみ抜いた仲間の死に顔で、広場が埋め尽くされていく。勇者は躊躇うことなく死体を踏みつけ、血で真っ赤に染まった剣と槍と弓を掲げたのだった。
 
 アンセルは恐怖した。人間の恐ろしさは凄まじい。何もかもが、その男の言う通りだった。
 アンセルは真っ青な顔をしているだけで、何の言葉も出ず、剣を鞘から抜くことすら出来なかった。ただ見ていることしか出来なかったのだ。勇者の残虐さと、何も出来なかった無力さと己の浅はかさを嘆きながら。

 魔王は出来もしないことを声高らかに叫び、なんと滑稽なのだろうか。勇者と話をする前に、仲間は惨殺された。話が出来ると夢を抱き、なんと愚かだったのだろう。

 勇者は立ちすくんでいるだけの男を見て嘲笑った。何の力もないのだと確信すると、勇者は競うように飛びかかってきた。
 それでも、アンセルは何も出来なかった。
 ミノスとマーティスはアンセルを守って剣で斬られ、槍で突かれ、弓で射られて、死んでいった。
 
 すると、アンセルは勇者に背を向けた。戦うことすらせずに、無様に逃げ出した小さな背中には矢が刺さっていった。
 何も、誰も、救えないと分かったのだろうか。それとも生きている仲間を見つけようとしたのだろうか。

 魔王とは思えない無様さに、勇者は声を上げて笑った。笑いながら恐ろしい金属音を出して、ヨロヨロと歩く魔王の後をゆっくりと追いかけた。

 アンセルの背中には不思議と痛みはなかった。
 その代わり、心が激しく痛んでいた。魔王としての責任を果たせなかったことに。聞こえてくるのは、血だまりの上をピチャピチャと歩く自分の足音だけなのだから。
 笑い声や子供たちのはしゃぎ回る足音がしていたとは想像も出来ないぐらいに、恐ろしいダンジョンと化していた。
 死臭が漂い、壁は赤い血で染まり、切断されて散らばった仲間の頭部と胴体があるだけだった。

 アンセルは深く後悔した。

 ダンジョンの入口で勇者を待ち続け、即座に首を差し出していれば良かったのではないのだろうか。
 どうして、愚かな夢を見たのだろうか。

 負けは目に見えているのだから、戦う前から膝をつき頭を地に擦りつけて、惨めさと引き換えに情けを乞えば良かったのだろう。魔王である自分の首を斬り落としていたのならば、仲間の生命は救えたかもしれない
 それとも偽のクリスタルを用意して、ここから這い出したとニヤニヤしながら言えば良かったのではないか。
 魔王ですら惨めで弱い魔物だと分かれば、勇者は呆れ果てて、仲間は救ってもらえたかもしれない。
 自分だけの生命ですんだのかもしれない。
 こんな簡単な話はなかっただろう。仲間の生命を魔王が守ったということにはかわりはない。
 いや、そもそも魔王ですらない。
 魔王であると思い込んでいた男は、一体、何者なのだろう?

 アンセルが虚な目をしながら彷徨っていると、何かに躓いて転んだ。両手には赤い羽根のようなものが、べったりとついていた。

「なん…」
 と、アンセルは弱々しい声で言った。

 散らばった羽根の先には、血まみれの小さな死体が転がっていた。その背中は、見るも無惨だった。羽根を毟り取られた後に、両翼を斬り落とされたリリィが転がっていたのだ。
 アンセルが走り寄ってリリィを抱き上げると、リリィの顔は悲しみの涙と血でぐしゃぐしゃになっていた。

「リリィ!リリィ!」
 アンセルは大声を上げながら抱き締めた。必死になって抱き締めた。冷たくなった体を温めれば、息を吹き返してくれると思ったのかもしれない。
 時を巻き戻せると思ったのかもしれない。
 失った生命を取り戻せると思ったのかもしれない。

 そして、こうも思ったことだろう。
 愛らしい瞳を、可愛い声を、温かい手の温もりを、優しい言葉の数々を、取り戻したいと。
 その全てを取り戻そうとするかのように、リリィの名を呼び続けた。

(どうか目を開けて、俺に微笑みかけて欲しい。
 頼む…お願いだ。今、ようやく分かったよ。
 失ってしまってから気付くなんて、俺はなんて愚かなんだろう)
 アンセルの願いは虚しく、願いは届くことはなかった。

 アンセルはもう何をしても戻らないと分かると、頭を垂れて両腕の中の冷たい亡骸にキスをした。心を奮い立たせてくれる全てを、失ったのだ。

 その瞬間、背中から心臓を射抜かれた。
 ただ静かだった。
 時が止まったかのように静かだった。

 これで全てが、終わったのだ。

 そして、最後にこう思っただろう。

(あぁ…なんて滑稽なんだろう。
 何がしたかったんだろう?人間を信じるなんて馬鹿だよな。
 俺たちは…人間に害を与えるだけの魔物なんだ。どれだけ時が流れようが、変わらない。
 その男が、正しかった。俺が、間違っていたのだ)

 全てが終わると、何もかもが真っ黒になっていった。










「アンセルさま!大丈夫ですか?!
 リリィは、ここにいます。ずっとずっと、アンセルさまのお側にいます」 

 その声で、アンセルはようやく悪夢から目覚めることが出来た。うっすらと目を開けると、小さくて温かいリリィの手がアンセルの手を握っていた。
 アンセルはマーティスの魔術が終わってから、そのまま寝てしまったようだった。

「とても、うなされていました。大丈夫でしたか?」
 リリィはアンセルの顔を愛らしい瞳で覗き込み、優しい言葉をかけた。


 全ては、恐れの感情が生みだした悪夢だったのだ。 


 アンセルは荒い息を吐き続けた。生々しい悪夢から抜け出せずにいた。
 アンセルが口を開けたままリリィを見つめていると、リリィはアンセルの手を両手で包み込んでからニッコリと笑った。いつもと変わらない笑顔だった。

「大丈夫ですよ、リリィはずっとアンセルさまの側にいます」
 と、リリィは可愛らしい声で言った。

 アンセルは汗ばんだ体をゆっくりと起こすと、赤くなっているリリィの頬に触れた。頬は柔らかくて、温かかった。
 何もかもが「ここ」にあり、何も失ってはいなかった。

「アンセル…さま…?」
 リリィの頬はますます赤くなっていった。白のワンピースを着ているので、赤い頬がさらに目立つのだった。

「ダメかな?」

「そんなこと…ないです…」
 リリィは頬を赤らめながら途切れ途切れにそう答えた。

「抱き締めてもいい?」
 と、アンセルは言った。

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