クリスタルの封印

大林 朔也

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絶望 5

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 振り返った女は、想像以上だった。
 男を惑わせ男が全てを賭けたくなるほどの美貌の女が青色のドレスを身にまとい、大きな窓に背を向けながら俺を見つめてきた。
 魅惑的とは、この女の為にあるような言葉に思えた。
 大きな窓から見える赤やけの空が、女の美しさと陶器のような肌をより際立たせた。繊細なレースからのぞく胸元に、俺は生唾を飲み込んだ。
 長くて綺麗な髪は艶やかで、今すぐにでも触れたくなる衝動を理性でなんとか押し殺した。
 そんな俺の様子を見ると、女は悩ましげな眼差しを送った。薔薇の花のような気品をたたえながら、俺に近づいてきた。普段なら、簡単に誘いに乗っただろう。
 けれど、この女は違った。
 この女が俺に近づくほどに、簡単に触れてはいけない女だと感じた。美しすぎる肢体は危険性を孕み、相応の覚悟がなければ触れてはならないと感じさせた。

 女は、俺の名を呼んだ。その声は高飛車で、野蛮な騎士を見下すような声色だった。
 女は、俺のことを調べ尽くしていた。それゆえに、俺が好きな青をまとっていたのだった。

(なんだ…そういうことか…)
 と、俺も理解した。

 こんな女の思い通りにいかせるのは癪に障ったから、背中を向けて、すぐに部屋から出て行こうとした。
 すると、女は俺を呼び止めた。女は俺の部隊のことをよく調べていた。
 凱旋したばかりなのに、また大きな戦に送り出されようとしていることを女の口から聞かされた。疲れ切った隊員の心と体に大きな痛手となることは分かりきっていた。

 俺の顔色が変わると、女は口に手をあてて微笑んだ。艶やかな唇を指でなぞると、その細くて綺麗な指が俺の胸を撫でつけた。

 俺が女を見下ろすと、女は魅惑的な身体を密着させ、美しい指を徐々に下へと這わせていき、しなやかな指を絡ませた。慣れているようにも感じたが、女の指は少しだけ震えていた。

 男の理性を狂わせるような女の香りに襲われ、男を虜にする妖艶な瞳が俺を見つめた。

(散々遊んできた報いなのかもな…)
 と、俺は思った。

 ここまできて貴族の女にイイヨウに使われる。
 俺を飼い慣らそうとする女の言われるがままに条件を飲むしかないことに、男と隊長の両方のプライドはズタズタにされたように感じた。
 ようやく隊長にまで上り詰めたのに、言いなりになるしかなかった。惨めで情けなくて悔しくて、腸が煮え返りそうになった。

 しかし不思議なことに、安堵もしていた。これで自分自身にようやくブレーキをかけられる。何より、隊員を守れる。
 上手くこの女を利用すれば、俺自身も守れるのだから。
 それほどまでに、この女の人脈の深さと力は魅力的だった。

 それに、こんな貴族の女なんて美しいだけのただの人形なんだから、俺がどうこう思うわけがない。
 俺を見下す目をし、計算高くて高慢で面倒で可愛げのない女なのだから。
 俺が、こんな女を愛するはずがない。
 俺はこの女が描いているであろう夢の騎士を見事に演じ、俺の復讐が終われば捨ててやろう。
 これくらいの女が丁度いい。
 その時まで、夢を見させてやる。
 真実なんて何も知らずに、ただ綺麗なものだけを見てきたから、こんなにも綺麗なんだろう。
 この女には、虫唾が走る。 
 だから女が囁いた「約束」という言葉に頷いて、足元に惨めに跪き、細くて美しい手を取って口付けをした。

 月の光だけが差し込むベッドの上で、両腕の中に優しく包み込み、ゆっくりと時間をかけて執拗に愛撫を繰り返した。
 女の口から何度も何度も懇願させ、激しく陥落させてから、その魅惑的な身体に俺を深く刻み込ませた。

(俺を飼い慣らすつもりだろうが、逆にお前を飼い慣らしてやる)
 その時は、確かにそう思っていた。

 だが、そうはならなかった。
 この女と過ごす時間が、さらに俺を苦しめることになった。
 だから勇者として旅に出ると決まった時、俺はまたもや安堵した。
 ようやく、ようやく…離れられる。
 今まで、こんな風に思うことすらなかった。

 女の身体に触れながら、どこをどう感じているのかを探り当てては攻め、散々焦らして興奮させ、何度も痙攣させることで口から涎が流れ落ちるほど俺を求めさせた。
 押し付けながら揺さぶり、深さと体位を変えながら求め合い、ひたすら俺を感じて善がり続ける女を見て愉しんでいた。
 女が悦ぶ言葉を囁きながら、悶えきった表情で果てる姿を見るのがすきだった。
 身体だけが繋がり締め付けられることで、その瞬間だけは満たされた。それだけを、繰り返してきた。
 それがよりにもよって、こんな女から思い知らされるなんて。考えが、甘かった。

 この女は、想像以上だった。

 同じ時を過ごす度に、気丈さの裏にひた隠しにしていた弱さに触れ、俺を気遣う優しさを心地よいと思うようになった。
 心を癒すかのような温もりと麗しい唇から紡ぎ出される言葉に幸せを感じるようになった。
 こんな国で早くに夫を亡くし、家を守りながら生きるのはどんなに心細かったのだろう。
 それ故に、高慢にならざるをえなかった。弱さを見せれば、簡単に男たちに滅茶苦茶にされただろう。

 いつの間にか、俺に見せ始めた眼差しも姿が可愛くてたまらなくなった。
 だから俺の体中の傷跡をなぞる指先を、こんなにも大切に思うようになったのだろう。1人の男として、最期まで彼女を守り抜きたいなどと思ってしまった。

(どうして、今なんだろう?
 どうして、俺と彼女を出逢わせた?
 どうして、そんな姿を俺に見せた?
 どうして、俺の心をこんなにも揺らがせる?
 どうして、俺に優しい気持ちを抱かせる?)

 綺麗な女なら沢山抱いてきたのに…息が詰まりそうだ。
 俺を、そんな目で見ないで欲しい。いずれ逆賊となる俺では、幸せになんてしてやれない。彼女を幸せにする為に、槍をおくことなんて俺には出来ないのだから。
 もし失敗すれば、愛する者がどれほど恐ろしい目に遭うのか…それは俺が一番よく知っている。
 俺も、それをしてきたのだから。
 俺が愛せば、女は地獄をみる。だから、愛する女はつくらなかった。
 それなのに…どうして彼女を愛してしまったのだろう?
 だから彼女に触れる前に、自分に言い聞かせた。「愛していない」と囁いた。
 もしも、そうではなく…「愛してる」と言って、彼女を抱き締められたのなら、どんなに幸せだっただろう。
 どんなに愛しく思ってしまうのだろう。どんなに彼女と愛し合うことが出来るのだろう。
 心が満たされ、俺の全てが彼女だけで満たされる。他には何もいらないと思える。
 彼女に愛してると言えたのなら…どんなに幸せなのか…考えただけでも恐ろしかった。

 だから、嬉しかった。彼女から離れられることが嬉しかった。少し離れれば、感情をまたリセット出来る。リセットしなければならない。
 望みを果たす為に、俺は以前の自分に戻らなくてはならない。何も恐れない自分に…愛しい女性を知る前の自分に。

 騎士団を殲滅し、国王を断罪する。
 王政を終わらし、国民の手にこの国を返す。
 流れる水は腐らないように、新たな道を作る。
 そうすれば多くの者たちが身の危険を感じることなく、自由に幸せに暮らせるようになる。

 それに…この国が平和になれば、彼女はちゃんとした男を選べる。騎士から自分を守ってくれる男じゃなく、こんな血塗られた男の手ではなく、もっと貴族の女性に相応しい男性を。
 今度こそ…どうか幸せに…。
 それが、俺に出来る彼女への唯一の贈り物。
 俺が愛する女性に出来る全て。彼女が幸せに生きれる国にしてみせる。その笑顔が、曇ることのないように。

 俺は男としての自分に、何の望みも持ってはならない。
 彼女と2人で過ごす時間は夢なのだから…美しい夢の中を俺は彼女と共に歩めた。
 これ以上の幸せはない。
 絶望しかなかった俺の人生に幸せを与えてくれた唯一の女性なのだから。

 だから、俺はあるべき姿に戻らねばならない。
 俺が愛する者たちの為に、俺はなんとしても果たさねばならない。

 そうだ…俺だけが幸せになるなんて許されない。
 もう俺のような少年はつくらせない。これからの者たちに絶望の道を歩ませない。
 希望を持てる国にしてみせる。
「その為」に地獄の中を、生き抜いてきた。
 それが、この国の騎士の隊長である俺の責任、罪もない多くの人々を殺した俺の償い。

「その為」だけに、俺は生かされ、絶望の道を歩んできたのだから。

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