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灰 3
しおりを挟む真っ黒な穴の中に引きずり込まれ、長い長いトンネルを滑り落ちていくと、そこはマーティスが言ったとおりいつもの広場ではなかった。
アンセルは分厚い灰色の煙で覆われた場所を歩いていたが、その煙が薄くなってくると立ち止まった。
その場所はだだっ広くて、焼け焦げて判別がつかない残酷な残骸がいたるところに転がっていた。激しい炎で燃やし尽くした後にできる灰で覆われた大陸のようだった。
想像を絶するような恐ろしい出来事が起こったのだろう。
足元の灰からは悍ましい臭いがした。恐怖と憎しみ、怨嗟と絶望が臭いの元になっているように感じられた。
アンセルが辺りを見渡していると、遠くの方で灰の塊が動き出した。この地獄から逃げようと、二本足のよく知っている形になろうとしていた。
しかし真っ黒い馬のような化け物が駆けてきて、それをグチャリグチャリと音を立てて喰い出した。
遠く離れているのにその音はハッキリと聞こえ、身の毛がよだつほど恐ろしかった。
アンセルの体が震え出すと、もっとよく聞かせようとするかのように、さらに大きな音を出しながらグチャリグチャリと喰い尽くした。
黒馬のような化け物は辺りを見渡し、もう灰が動き出さないことを確認すると、灰色の空を見上げて嘶いた。
灰色の空は赤黒く渦巻いて稲妻が閃めいていたが、空の隙間から光が見えて斜めに降り注ぎ始めた。
その光は、本来は神々しいほどに美しいはずだった。
しかし世界を粛清し、新たな生命をつくり出そうとするかのうな恐ろしい光のようにアンセルには見えた。
いくつかの多種多様な種が、空の隙間から降ってきた。
はじめは数えられるほどであったが、やがて流星群のように降り出した。
種は苗木となり何者かによって植え付けられ、灰を養分として吸い取ると、地面から軋むような音が至る所で上がった。
その音はよくよく聞いてみると、恐ろしい呻き声のようだった。
銀の滴が空から降ってくると、大地に染み渡っていった。雨が降り、雲が消えていくと、太陽が顔を出して大地を照らした。もの凄いスピードで木々が成長していき、樹齢数百年にもなるような見事な巨木へと成長して森となっていった。
しかし、アンセルは恐ろしくてならなかった。木々の葉が緑色ではなく、赤黒くて毒々しい絶望の色に見えたのだった。
ここに立っているのも怖くなり、森を出ようと走り出した。
急速なスピードで成長を続ける木々の間をすり抜け目指す場所すらもなく走り続けていたが、彼の足は何処かに向かっているようだった。
しばらくすると美しい歌声が聞こえ、その声に導かれるように開けた場所に辿り着いたのだった。
輝く太陽の光に照らされながら、男が立っていた。
その男の背丈はアンセルと全く同じなのに力強く堂々としていて、はるかに大きく感じられた。
小さな鳥たちも美しい声に引き寄せられて集まり、その声に合わせて囀り始めた。
その男が右手を差し出すと、小さな白い鳥がその男の指にとまった。その男が鳥を撫でると、嬉しそうに鳴き声を上げた。
「アンセル、君もこちらに来なさい」
その男は後ろを向いているというのに、アンセルにとっくに気付いていた。
すると自分の意思とは関係なく、その男のもとへと足が動いた。その男は、静かに振り返った。
その男は、アンセルだった。
けれどアンセル以上に影のある瞳は夜の闇のように妖艶で、表情も麗しく、底知れぬほど魅力的な男だった。
アンセルは、その男に一瞬で心を奪われた。心を奪われぬ者などいないだろう。
もっとその男に近づきたいと思い、アンセルは止まることなく歩き続けた。
その男は、穏やかに微笑んだ。
その微笑みを一目見ただけで、アンセルの心は高鳴った。もっとその男に微笑んでもらいたいと思い、その男の望むように振る舞わなければならないとも思った。
けれど、その男が微笑むのを止めると、鳥たちがいっせいに青い空へと飛び去っていった。
春は終わり、凍てつくような冬となった。
その男が氷のように冷たい眼差しを向けると、アンセルの心臓は恐ろしさで止まりそうになった。
「私が、天上の怒りを、この大陸に降り注がせた。
最も愚かな所業をした人間のなれの果ての姿が、この森だ。
2つの国の人間を全て殺して燃やし尽くし、その灰を養分として木々が育ち、森となったのだ」
と、その男は言った。
アンセルはショックで頭の中が真っ白になり、膝がガクガクと震えた。
先程の光景は全て現実に起こったことであり、この森の土には人間の灰が染み渡っている。苦しみながら死んでいった人間の絶望の上を歩いている。予想はしていたが、現実は残酷だった。
「アンセル」
その男は、もう一度アンセルの名を呼んだ。
その声は、美しかった。
けれど、それ以上に…恐ろしい。
その男は、美しい男なんかじゃない。
その男は、化け物だ。
「私が、キサマの名を呼んでいる。
それに答えろ、アンセル」
その男が厳しい表情で言うと、アンセルは恐れ慄いた。
その男に従わない小っぽけな男を罰するかのように、足元の草に火がついた。瞬く間に燃え上がり、紅蓮の炎となって全身を包み込んだ。
(熱い、苦しい。息が…息が出来ない)
アンセルは叫び出しそうになったが、慌てて両手で口を抑えた。
その男はゆっくりと近付いてきた。漂う空気はますます重苦しくなり、逃げることすら許されなかった。
その男は穏やかな微笑みを浮かべながら、アンセルの目の前に立った。炎に包まれたアンセルを見ても、眉一つ動かさなかった。
「そこに跪け。
さすれば、その全てから解放してやろう」
その声には絶対的な力があり、その瞳に見つめられると心が高鳴った。地面に吸い寄せられるように跪き、その男を恭しく見上げた。
その男は慈しむような目でアンセルを見下ろした。アンセルを包んでいた炎は消え去り、驚くべきことに火傷は全て癒えていた。
「アンセル」
その男は、美しい手を差し出した。
アンセルはその男の手に触れたいという欲求に突き動かされ、もう何も考えられなくなった。
しかし指と指が触れ合いそうになったところで、アンセルの腕は別の誰かに掴まれた。温かい手に握り締められると、氷のように冷たくなっていた手が温かくなっていった。
「アンセル様!目を開けてください!」
そう叫ぶ声が聞こえて、アンセルは目を開けた。自分を見つている男は、何度もアンセルの名を呼んでいたようだった。
「マーティス…」
と、アンセルは言った。
マーティスは彼がまだアンセルであることに安堵し、目に涙を浮かべた。アンセルを抱き締めると「良かったです」と何度も繰り返したのだった。
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