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その男 2
しおりを挟む「どうか…お待ち下さい。
これ以上…人間を殺すことは、神がお許しにはなりません。人間の中にも、まだ美しき希望が…ございます」
ミノスの声は徐々に小さくなっていった。
全てを知るその男の怒りの前では、綺麗事は何の意味も持たないのだから。
「ならば、何故私が動き出すことが出来た?
それが、神のご意志だ。
あの時、神は私の魂に直接触れられた。天上の禁を破ってまで、人間にチャンスをお与えになられたのだ。
勇者がもたらす希望を信じて。
だが偽は偽であり、真にはならなかった。
神の審判は、人間の国王がダンジョンに勇者を差し向けたことによって下された。人間自らが、滅びの道を選んだ。
だからアンセルの中に巣食わせた私のカケラは、こうまで動き出すことが出来た。
アンセルの心に語りかけ、私はこうして姿を現したのだ」
その男の激しい怒りで、広場の柱がガタガタと揺れ動いた。クリスタルに封印されていたその男の力は、少しも衰えてはいなかったのだ。
「お待ち下さい。まだ、新たな希望が…」
「私は、数百年待った。
だが、人間は何一つとして変わらなかった。
愚か者と傍観者という腐肉塊ばかりだ。
どれだけ時が経とうとも、どれだけ人間が生まれようとも、美しさは現れずに背き続けたのだ」
「ならば、今、私がこの身を…」
「ミノタウロス、それは不可能だ。
私は、統べる者。
お前では私を止められない。お前が生命を投げ出しても止められない。私を止められるのは、たった一つだけだ。
それに、私はお前を殺すつもりはない。
前も、そうであっただろう?お前は、分かっていた。
だから、お前は動かなかった。少しでも動けば死んでしまうからな。心臓手前で、剣を止めてやったのだ。
奴等の力では、私は止められぬ。諦めるんだ、ミノタウロス」
その男は厳しい表情をしながら言うと、ミノスを見つめた。
沈黙が長ければ長いほど、闇は濃くなった。ミノスの心も、深い闇で覆われようとしていた。
絶大な力の前では、全てが無力である。その男の言葉のみが真実であると思わせる力があった。逆らうことは愚かであり、時間の無駄であり、力の浪費である。
その男の闇は全てを飲み込んでいく。絶望をもたらす者が魔王であるかのように。
「答えを聞こう、ミノタウロス」
と、その男は言った。
残された希望ですら、今にも絶望になろうとしている。何も変わっていないのであれば、何かを変えることなど不可能だ。神は全てを許されているのだから。
しかし、アンセルはまだ消えてはいない。
アンセルが戦っている以上、自らも戦い続けなければならない。泉の加護を宿した剣を、鞘から抜いたのだから。
(我が魔王、アンセル様が剣を鞘に納めぬ限り、私も剣を鞘に納めてはならない)
絶大な力を誰よりも知っていながら、ミノスは強い眼差しでその男を見つめた。
「私は、アンセル様をお助けいたします。
希望の光は、守り続けなければなりません。この世界を、新たな光で照らす為に。
しかし、あの頃と変わらずに、私は…貴方様をお慕いしております。あの時から、私たちを常にお救い下さいました。
何一つとして…私たちに残酷な命令はなさいませんでした。
私たちが人間を憎み、私たちが力を欲し、頂いた力で人間を襲って殺し、騎士と戦って深傷を負った時も…傷を癒して…生命を助けて下さいました。
深く…深く…感謝しております。
けれど…今の私の魔王は…アンセル様でございます。
私は、アンセル様の優しさに、新たな光を見てしまったのです。殺さないという決意のもとで勇者に立ち向かい、世界を変えられる新たな光に…夢を見たいのでございます」
「ほぅ…この若く、まだ真っ白なだけの男に夢を見たいのか。
お前は、この世界の愚かさを知っている。5つの愚かな王が犯し、今もなお3つの国の王が犯し続けている所業を知っている。この世界の愚かさと闇は、アンセルには到底背負いきれぬぞ。
だがアンセルも魔王を名乗るのであれば、それを知らねばならない。剣を掲げるのであれば、この世界の真実を知らねばならない。
しかしアンセルは両腕に巣喰っている私のカケラにすら抗うことが出来ない男だ。何一つ強い言葉で否定しなかった。決意と望みを忘れ、絶大な力に怯えて、私の言葉通りに動くだけだった。
全てを知れば、必ず失望し、絶望する。かつてと…同様に。
絶望を斬り裂けぬ男は、希望とはなりえない。美しき希望は、深い闇へと消えていくだろう」
と、その男は言った。
「いいえ、アンセル様は強く逞しくなりました。
深い闇ですら斬り裂くことが出来るようになりましょう。
魔物が生き残る為に、人間を犠牲にしてもいいとは思っておられません。痛みも嘆きも悲しみも理解し、乗り越えていくことが出来ましょう。
今度こそ勇者に、真に歩む道を教え…」
「歩む道は、滅びの道ぞ!」
その男は轟くような声を出した。
その男の怒りは凄まじく、荒々しい風が広場に吹き荒れると、広場の天井が黒々とした渦を巻き出した。
ミノスはたちまち恐怖に打たれたが、かつての魔王と話が出来るのは己だけであると知っている。
恐怖に打ち勝とうとするかのように声を絞り出した。
「どうか、お願いでございます。
私は勇者の言動を見守ってきました。
新たな勇者は、この世界の愚かさに触れようとしています。救おうとしています。
もう一度…はかりにかけていただき…貴方様にも彼等を見ていただきたいのです」
「ミノタウロス」
その男は目を閉じて首を横に振った。
「お前も、ほとほと夢を見る男だな。アンセルだけでなく、人間の勇者にも夢を見ていたとは。
かつても、そうであっただろう?
けれど、弓と共に投げ捨てられた。あの弓の勇者には…失望させられたよ。あれほど愚かな男だったとは。あんなものが勇者とはな…所詮は愚かな人間か。
歴史は、何度も何度も繰り返す。今度の勇者も、そうなる。
それに…新たな剣の勇者は国王の息子。国王の悪行を知りながら、何もせぬ男が勇者とはな!」
その男が怒りの声を上げると、ミノスの体に戦慄が走った。今や広場は憎しみと怒りが覆い尽くし、黒々とした渦が恐ろしい光を放ち雷のような音を上げた。
しかしその男が急に優しい顔になると、全てが消え失せていった。黒々とした渦ではなく、白い雲となった。
その白い雲の隙間から美しい光が漏れて放射状に降り注ぐと、その男を照らした。
その男は美しい光に照らされながら、穏やかな声でミノスに語りかけた。
「ミノタウロス、この森を見たことがあるか?」
「はい、ございます。水晶玉で、ですが…」
「美しい…美しいものよ。燃え尽きた後に残った灰を養分にして木々が育ち、美しい森となったのだ。罪の深さに応じて色鮮やかな花が咲き、艶やかな実を鳥が食べ運んでいく。
全てが、始まりへとかえるのだ。
豊かな緑であふれ、色鮮やかな花と果実が咲き誇り、鳥と虫たちの楽園だ。いずれ、心優しき動物が歩くようになるだろう」
その男が低い声で言うと、ミノスは心臓が凍りつきそうになった。
その男は、穏やかな微笑みを浮かべた。
「ミノタウロス、闇の魔法書のはじめに記されている言葉を知っているか?」
闇の魔法書を開いたことなどないミノスは首を横に振った。体からは嫌な汗が流れていくのだった。
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